天の国 王の王に仕え治める人達 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書には人が分かりやすい言葉、内容で神が神の教えを伝えています。

神の国、天の国、神の家、神の神殿、王国、王、父、子、兄弟、家族、門、門番、仕える人達、種、良い地、雨、水、天、雲、

収穫etc etc etc etc 

 

イエシュア=イスラエルの神はとして表されています。

 

王が到来する!この秋の祭りもやがて地上に再び来られる、

王の王としてイスラエルをエルサレムから治め、世界の王の王、主の主としてその座に座られるのを待つリハーサルの記念日が秋の祭りです。

だから神の祭りを祝う、シャバット、新月、春秋の祭りを祝い

一年を神の教えの中、神の時の中、神の定めた暦通りの中を

神の伝える通りに生きる人達はその時を知っているから不意打ちに合わないと言われたのです。

 

王には治めるべき、守るべき王国があります。私達イエシュアに贖い出され同じイスラエルの神の1つの婚姻契約に加えられたは1つの大家族が住まう場所=天の国の王国を地上で治める人達でもあります。神の国に仕える人達はどの様な事を王から託され

要求されていますか?

世界の中の一般の民族、国でも同じ共通点があります。

王や大統領、首相がいる国は、王はその国の中に起きている全ての細かい事柄1つ1つに関わり対処する事は出来ない、時間は

ないのです。

だから王の国に仕える忠実なしもべ=サーバント=仕える人々に

王は様々な事を託し、管理させるのです。

その人達は何に忠実に王の国を治める役割がありますか?

王の伝える通りを守り、執行し、王国をガードする!これは人間の社会でも同じ事が要求されますよね。会社のトップが要求し

願う仕事を部下が忠実にこなし会社の利益を生み出す。

もしその部下がいい加減な仕事をし、トップが伝えた事を無視し自分勝手にやって会社を傾かせたら、それらは部下としての役割を果たしていない事になります。

人間の世界ですから、部下の方が優れた考えを持っている場合がありますので、全部は神の国とは当てはまるたとえ話には

なりませんが神の国の王は全ての人に勝り知恵がある存在であるのです。

自分自身が大事な仕事、いや小さい仕事でも誰かに託す場合、

その相手が自分が伝えた事に徹して忠実に全ての仕事、事柄を

きちんと丁寧に治め管理し成し遂げてくれる人を必ず選ぶでしょう。人の言う事をまともに聞いていない、いい加減な事をする人

など選ばないのです。箴言にもその忠告が書いてあります。

 

それなのです。神の王国の王に言われた事とは違う事、別の顔=

人の思想や宗教、異教の神々の教えで神の伝える事を変えてしまい、それらで神の国を神の意図とは違う様に治めようとするならその国は立ち行かないのです。

神の意図通りに正常に機能しないからです。

 

イエシュアのたとえ話の中にも同じ意味で書かれています。

神の国を治める人達はどの様な人達であるのか。

ルカ16:10「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実で

あり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実」

マタイ25:21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

 

何に忠実であれと言われているのか?神の伝える言葉=教えに対してそっくりそのまま生きよ!それが人間本来の安全な生き方、性質、成り立ちだからと言うシンプルな事実があるのです。

神の国に住まう人達は、世界へ目に見えないイスラエルの神が

伝える言葉の代弁者=生き証人として、地の塩世の光として

神の王国を治める人達は、神が伝える通りを生きて、イエシュア

の本質実態を世界へ紹介すると神が教えているのです。

それらの人=神の言葉を聞き生きる人達を神が求めるのは当然の事です。だから”まことの礼拝者”を求めると書いてあるのです。

この言葉を取ってある人が”神を礼拝します〜”と何時間も言い続け、叫びながら、歩き回ると言うのを動画で見た事がありますが、神が伝える言葉の意味を理解していないのだと思いました。

 

この”礼拝”と言う言葉は分かっている様でいざ何?と言うと

ぼやけて不明ですよね。礼拝と言うと賛美したり祈って誰かの

説教を聞いて献金する、又は主よ主よ〜と叫ぶなどなど、

それらが礼拝である〜?と考えると思うのです。

自分の宗教体験をもとに聖書を読んで納得しているからです。

それは自分の中の想像で礼拝と言う言葉を思い巡らし考えているからです。

でも神が説明する礼拝の本当の意味は、生きる事に対する全て!に関してなのです。神への感謝、賛美、神の前にする様々な行事儀式はほんの一部であり、神に対しての表現の一部でしかありません。賛美、感謝〜それらは神に造られた人間の性質だからそうするのです。それをした時にエデン〜よろこびが溢れて解放されて行くのを体験するでしょう。それが神のデザインした神との

関わり方だからです。文句不平を神に言いながら、同時によろこび感じて神の前に立てないでしょう。

1コリント10:31

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、

何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

 

神の栄光とは何?栄光を表すとは何?食べる、飲む〜何をするにも〜人の生きる全てに於いて神の栄光=実態の通りの重さ、価値を人に表しなさい。

神の栄光=神が伝える通りを反映して生きなさい!!何に照らし合わせて、神の栄光=現実、イスラエルの神そのものの性質=

重さを地上に映し出すのか?神の言葉=トラーに照らし合わせて!と言う事は聖書に登場する人達誰もが理解していた内容なのです。

翻訳の礼拝と言う言葉の裏にあるヘブライ語の本当の意味は

”働く”と言うことにつながる言葉です。

アヴォダと言う言葉です。仕えるとも訳されている言葉、

もっと分かりやすいのは、エデンの園を”耕す”と言う言葉に

使われています。

 
創世記 2:5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを
耕させ、これを守らせられた。
 
今10の言葉を巡り日々軌道修正している神の定めた時の中を
神の子らは生きる様に神の口から直接伝えられているとても重要な時期なのです。大贖罪日は今週の火曜日の日没から水曜日の
日没になります。その日はシャバットとして止まり祝うのです。
イスラエル以外の諸外国はその日大贖罪日のシャバットとして
止まるなんて言う神の仰せを生きない国々ですから、仕事も学校もありますが、その中でその日が神の定めた日であり、何を神にする様に伝えられいるのか?と言う認識を持って一日過ごす事は
出来るのです。
 
出エジプト20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
この10の言葉の中の次に書かれている言葉を解説するには、
神の言葉教えは全部繋がっているので一つ一つ考えて紐解いて
見る必要があります。
ひれ伏す=これも礼拝と訳される言葉ですが、この意味は次に
説明します。全部同じ要素で繋がっている事が見えてきます。
 
その前に、創世記にある神の似姿そっくりに造られた人間=
土=アダマから取られた人=アダムが、神の言葉で創造され
そして、神から直接息=霊を吹き入れられて生きるものとなった
とあります。神のエッセンス=聖霊は最初から人のうちに宿り
人は神の中=エデン=喜びの中に造られて生きる様になったと
書いてあります。
 
エデンの園=喜び=神ご自身の中に置かれたとある、置くと言う
言葉”ヤナフ”はノア=安息、安らぎ、憩いと言う意味の言葉が入っているヌアフと言う言葉です。
ヤナフ=慰める、落ち着かせる、和らげる、静めるetc etc 
お母さんが愛情たっぷりに赤ちゃんを抱いてベットにそっと置く
その様子と同じです。大事な我が子をエデン=喜びの園、神ご自身の中に造られ大事に大事に置かれた。ヌアフと言う言葉は肉体的にもぴったり心地良い事を意味する言葉です。
どんな感じでしょう?
ぴったり心地良い寝床に寝てぴったりフィットする枕に寝て
安らぐ、そんな感じをイメージしてみてください。
自分のエッセンスにぴったり沿った場所、生き方。
自分に合わない窮屈な服を着たり、石が入った靴履いたら不快で痛く心地悪いですよね。その反対です。全て自分の成り立ち、
要素にぴったり合った場所、環境に置かれたのです。
その環境は、神の似姿そっくりそのまま=神のトラーを生きる
場合には何のバイオレーションもない、穏やかで幸せで神と共に手と手をとり爽やかで涼しい風の吹くエデンの園を何の覆いも
隔たりもない直に神と顔と顔合わせて生きる至福の場所だった
のです。
そして、そのエデン=喜びの園をキープし保存する秘訣、神の言う通りに耕し、ガードし続ける事!
耕すと書いてあるその言葉が礼拝と訳される”アヴォダ”と言う
言葉なのです。これは申命記にあるトラーの教えをイエシュアも
同じ様に語られたそれに繋がっています。
神の言葉からズレた生き方すると、エデン=喜びが自分の中から
消えて行く体験誰でもしていますよね。
 
と言うか気が付かないかもしれない内容です。例えば人を縛る
人が作った教えを聞いて生きたら喜び奪われるのです。
多くの人達が神との関係に喜びを見出せなくなってしまう理由
エデン=喜び=本来の性質を神が伝える通りではない生き方をし
神に何をどう生きたら良いと教えられているのか神の言葉を捨てたら分からなくなりエデン=喜びが消滅して行く。神との関係に
隔たりが出来る、どこか空の向こう遠く離れた場所にいる神と
感じるのはそのせいです。だから辟易しているのだと思うのです。純粋な神の言葉、自分のエッセンス要素とは異なる宗教臭い添加物の数々がませられた教えを生きる様に教えられるから。
神の性質=神の似姿の人の性質=エッセンスに合わない異物=
別の顔=人間の教えが混ざった宗教の教えを取り入れて生きたら
当然不具合が起こるのです。車にガソリンではなく水やジュースを入れると故障してしまうのと同じ事です。
だから別の顔=人の教えを、神の顔=神が伝える教え生き方の上
に乗せて、神が人に伝える本物のイスラエルの神像、神の似姿に
造られた人間の性質、生き方を伝える事を妨害し覆い隠すものを
置いてはならない!あなたのために!と言う警告が最初にあるのです。
 
 
続く