10の言葉の中にある聖別された日の教え シャバットの醍醐味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今大贖罪日を迎える軌道修正の日々の中に居ます。神の子らは

神の声=教え=言葉に聞いて生きると神は人に伝えています。

そして大贖罪日の後に来る仮庵の祭りは、1年の最後を締めくくる一番大きな神の定めの日、盛大に祝われる祭りがやって来る

その準備の時の中にいます。

神の定めの日は、全てイエシュアの業、贖われた人の生きる内容

と一致しており、預言的祭りでもあります。

王の王が来られる、過越で屠られた子羊の血の贖いがヨムキプルに明らかにされる、そしてイエシュアの中に住まう、イエシュア

が世界の王の王、主の主としてエルサレムから世界を統治する日がやがて来る。この現実が到来したら、イエシュアを否定していたユダヤ人もイエシュアを否定出来なくなる!その時が来るのです。そして異邦人も神の教え=トラーが無効になった!などと言う教えが神から出たものでは無い事に気が付く事が起こるのです。ゼカリヤ14:16−21 神の教え、トラーを否定していた人の代表名=エジプトも神のトラーに書かれた仮庵の祭り=

一年の締めくくりの祭りを代表で書いている、イエシュアが到来したらすぐ祝われる祭りだからそう書いてあるのです。

その人達=異邦人も神の定めの日の祭りのためにエルサレムに

来る!と預言されているからです。

 

神の創造された時の中を生きる、神の創造された定めの記念日=わたしの記念日であると創造主が伝える特別な日は神が指定した日に祝う様に神がデザインされているのです。人が勝手に決めて

勝手に理由付けして創作した日を祝うのではない。それらは宗教の記念日であり神が創造された定めの日とは異なるものなのです。

神の子ら全員が神の言葉に応答して、一致し同じ時に同じ記念日を大家族の一員として大家族の長、天の大祭司、王の王、主の主であるお方の御前に出て祝う日なのです。個人や宗教団体の記念日ではない、神の記念日だからです。

 

神の全ての定めの日=祭り=記念日の中心は”シャバット”第七日目のシャバットです。そして創造の最初に神の定めの日=記念日

シャバットを神が人に紹介しています。神の口から聖別と言う

言葉が最初に使われたのは、神の創造した時=記念日=シャバットに対して使われたのです。

聖別の意味を知るには、神が聖別された時、聖別された場所を

神の言葉=モーセの五書から知る必要があります。

聖別された時=神が創造された定めの日の祭り、神の聖別された場所=神の臨在が宿る場所、それは神の家と神の民。

 

10の言葉の中に、5番目の仰せとして”安息日”に関して神が人に語られています。出エジプト20章にある10の言葉は全部

丸ごと1つに繋がっているものです。

神の言葉=仰せの冒頭は、神の顔=神の伝える言葉、実態、

真実の上に、別の顔=人の教え、異教の神々の教え、イスラエルの神が伝えるものとは別のものを置いてはならないと言う警告

です。

神の教えの上に別物の教え=別の顔を置いて神の顔=教えを覆い隠せば神が伝える真実が人には見えなくなってしまうからです。

どこからどこまで真実でどこからどこまでが人の創作した教えであり神の教えなどではない!と言う事実が理解出来なくなってしまう。だからあなたのために、あなたのために、わたしの顔の上に別の顔を置いてはならない!と神が重大警告宣言をしているのです。

シナイ山=雲の中=天が降りて神が直接降りて直接神の口から

モーセに語った!と言う現実、臨場感を感じて読んでみる事を

お勧め致します。神が直接語った言葉をモーセは人に伝え文字にして記していますが、神が語った言葉は永遠不変であり、人が

手を加え神の伝えた内容を勝手に変更している=別の顔で神の顔=実態、言葉を覆っては、何が本当か不明、分からなくなり、

神の伝える事実、現実、神との関係、人の生き方の本質から迷い出てしまいます。

 

出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。

20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、

はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。

それで主は安息日を祝福して聖とされた。

 

単純に聖書に書かれた神の言葉から問うてみれば良いのです。

”安息日とはいつと神は人に伝えていますか?” ”神は安息日=

シャバットが聖であるといつ人に伝えましたか?” 

”聖別とはどう言う意味で、実際には何を祝うのですか?”

”シャバットをどう過ごすと神は人に伝えていますか?”

これらの問いに聖書=神の言葉から回答できる必要があります。

 

異邦人クリスチャンの間で十戒=10の言葉を読むグループも

ありますね。でも聖書に書いてある通りの神が伝える意味を、

どのくらいの人が理解して把握してそれらを唱えているのでしょうか?

別の顔=神が伝えた事とは違う顔=教えに変形、曲げてこの箇所を読んでいるのでしょう。だから神が伝える真実、神が聖別した神の定めの日がいつであるのか不明なまま、今は日曜日が安息日になった、神が変更したのだと全く疑いものなく信じて実践しています。

私はイエシュアを信じた直後聖書に書いてある事と周りが教えて実際実践している内容がどうして違うのか、初めて疑問に思ったのは日曜日礼拝に対してだったのです。普通に聖書を読めば安息日、週一度の神の聖別された日は第七日目=土曜日である!と

神が伝えているからです。私は以前は第七日目は神の暦では

金曜日の日没から土曜日の日没までと言う知識も全くありませんでした。

神の教えや聖別された定めの日が異邦人の世界の中で変更されたその理由はなんども述べた通り、ローマ帝国による政治的迫害

重税、処刑を執行されてしまうと言う理由により、異邦人は

モーセの五書オリジナルの神の言葉から離れ、西洋教父達が

妥協、アレンジした教え=西洋宗教の教え=反モーセの五書=

反トラー=アンチ神の教えと言う別の教えを作り出して、それらの教え=別の顔の教えを信じ、実践する事に移行したからです。

 

黙示録の最後まで、安息日=シャバットの意味は同じです。

福音書以降も、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に

書かれた教えと全く同じです。聖書に登場する神の教えやコンセプト、言葉の表す意味などは歴史の途中で全くどの箇所も変更など無い、それが永遠不変の神の言葉の性質、事実なのです。

黙示録の最後に神の言葉=預言=神から預かった言葉を曲げる人への警告が同様に記されています。

 

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

12:32 あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って
行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。
27:26 『このトラーの言葉を守り行わない者はのろわれる』。
民はみなアァメンと言わなければならない。
 

この申命記の警告は、出エジプト20章の別の顔=神の名=実態をみだりに唱えるなかれ=虚しい、意味がないものにする、虚偽を人に表明する事を禁じている、それらの教えとぴったり繋がっています。

以下の言葉も神のトラーの言葉に対して人がどう取り扱うのか
の警告が書かれています。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、

と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。

1世紀当時のラビの慣用句を使いイエシュアが説明しています。廃する=別の顔です。神の言葉を正しく解釈し生きていない=神の名をみだりに唱えるなかれ=虚偽、無効にする、虚しいものとして取り扱い生きて表明する事。

成就=神のトラー=教え、インストラクションを神が伝える通りに理解し生きる事を教えるために来た!とイエシュアは言って

います。全てモーセの五書に書かれた神の教えに基づきイエシュアは教え、その内容を生きていた記録しか福音書以降には書かれていないのです。パウロも同様に100%トラーを教え、トラーを生きた。パウロはトラーに反する教えなど1つもしていないのです。使徒21:21−24 パウロがモーセの五書に反する教えをしていると言う噂が蔓延し、その疑いを晴らすために神殿でナジル人の請願をしたと記されています。22:3<過去形で書かれている言葉は現在形=パウロはトラーを他のヘブライ人同様とラーを熱心に学び生きている!と表明しているのです。

23:6=ヘブライのヘブライパリサイの中のパリサイ〜強調=トラーに熱心、トラーに忠実に生きている!と宣言している表現です。>

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

ヘブライ的表現、強調、誇張表現です。神の創造された天地が滅びないので、神の言葉の一点一画も同様に滅びない!と言う

意味です。今天地が存在するなら、神の言葉が無効になる!と

言う教えは別の顔=神の名をみだりに唱える=虚偽である!と

言う事の証明なのです。>

5:19 それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまた

そう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 
黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
 22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
<神の言葉=トラーに付け足し差し引きする行為へ対しての警告これは黙示録の最後まで同じなのです。>
 
神が伝える教えは普通の良心や道徳心、理性、意識だけでは気が付けない内容もたくさん書かれているのです。神の創造された
神の子らの生き方は、どんな生き方であるのかの詳細を唯一人に
正確に完全にその詳細を伝えられるのはイスラエルの神だけです。神がイニシアチブを取り、神だけがこの世界の全てを創造されたからです。人が神の言葉=教えをどう考えるか感じるか、
気に入るのか気に入らないのかは全く関係の無い事なのです。
神が伝える真実神だけが神の創造された人間の性質、生き方を伝える事が出来るお方が、”あなたは〜〜を生きて、〜〜を生きない”と言う内容をトラーに記しているからです。
神の伝える事を”するするなかれの掟リスト”として考えそれらを生きなくてはならないのか〜などと言う宗教臭い感覚=肉の目、耳で神の言葉を聞いたら、どうして神が人に取りどれほどシャバットが大事であるか聖別の根幹を伝えている意味がまるで見えてこなくなります。
これは人のため、人の命を保護するため人と神との関係、人と人との関係をガードするためである!
神のシャバットの意味を理解し家族で仲間で神の言う通りに
この日をガードし祝う事をする人達は破壊されない。
もし家族がしっかり同じ意識で繋がっていたら、神のデザイン通りのしっかりした絆が出来てくる。。
シャローム バイト=欠けのないシャロームの家を築く事が
出来て行くでしょう。少なくとも神の言葉を知り、意識して生きる人達が家族の中にいることは幸いなのです。
神の声=祭りのショファーの音を知る人は幸いと神が伝えている
からです。
 
続く