10の言葉を巡りヨムキプルの日迄、神の子ら個人が全体が全て
共に考え神の教えに戻り生きる軌道修正をする日々の中にいます。神の時〜暦は神が造られて人は神が作られた時の中を神が
意図する様に生きると言うシンプルな事実が記されています。
神の言葉は全部繋がり1つで丸ごとシャローム〜神の教えの
完全版になるのです。神の言葉に差し引き付け足しするなかれ!
とあるのは、人が神の言葉=DNA=青写真を作り替えたら、
神の意図する通りの意味、教えが現れ出て来なくなってしまうのです。
神の言葉=教えを神が紹介している冒頭に、他の神があっては
ならないと書いてあります。その前に何と書いてありますか?
出エジプト 20:2 「わたしはあなたの神、主であって、
奴隷の地から導き出した〜神ご自身が命の代価を支払い偽の神々=主人から切り離し、私達を買い戻しそして奴隷状態で生きていた偽の場所、偽の生き方、偽の神に仕えて偽の自己像を生きていた奴隷の家から贖い出したお方である事を紹介しています。
これはイエシュアに救われて新しくされた人全て、同じ体験を
通過しているのです。
その以前に、創世記の最初には、神が全ての主導権、権限、
神の中、神の考えの中からこの世界の全ての創造物が発している事が書かれています。
神以外、誰も持たない権限、神が中心、神だけによりこの世界が創造され出現した事実を考えてみるのです。
私達人間もそして他の被造物も、自己発信自己願望、自己リクエストで”私を造って下さい、生まれさせて!”と神に頼んだのではなく、神の考えだけ!神の中にある意図、計画考えで私は生まれた!知らないままそうなっていた!そしてこの世界の全てが物理的に出現したのは神だけの考えによる、アクションによりそれらがなされた!と言う事実を考えて行くと見えてくるものがあります。
被造物の誰も何の権限がない、創造に関係ない!創造は神だけによるものであった事。気がついたら生まれて出てきた!
ただそれだけです。
そして世界の全ては”人間”のために造られた事が書いてあります。
人がこれこれする必要があるからそうなったと言うのではなく
全部が神の側一方的、神の考え、願望、それらが創造の根拠の
全てなのです。
そして神が創造された全ては、神の考え、意図通りに造られたので神が考える通りに機能するのが自然、理に叶っていると言う事を理解すれば見えると思います。
人の本質=神の性質、似姿に造られているので、神が創造された材料から様々な事を作り出す事が出来ます。
そして全ての創造は、”言葉”により出来ているのです。
設計図は言葉です。それが数字であろうが文字であろうがコードであろうが、音符であろうが、現実に創作物が現れるための
青写真は全てどんな形態であれ”言葉”なのです。
そして、人が生きるのは、自分が希望して生まれたからではない、神が永遠の中から、この世の礎が造られる前から選び出されたから生まれて来たと書かれています。
人間はその人の願望や選択やニーズがあったから生まれたのではない。選択の余地なしに気が付いたら生まれて来て、生きていた
と言うのは100%どの人にも同じです。
誰か自分から頼んで生まれて来た人が歴史の中に1人でもいる
のでしょうか?いませんよね。全部は神がイニシアチブ、神の側
で決めて、願望して、そして選び出されて生まれて来た、その
事実しかないのです。だったら神しか人にどう生きるのかを伝えられる存在はいないのはクリアーな事実です。人は自分勝手に
あれこれ神の言う事に逆らい行動する、それらは神のデザインに逆行する無知で的外れな生き方です。
宗教の教えとは、”なになにせよ〜〜〜なになにすべからず〜”と言う掟リストを生きる事なのです。これは神の言葉の本質、
エッセンス通りを知ると、宗教臭い教えと神の純粋な言葉〜人を生き返らせる力=聖霊の源から出るものとの本質的な違いが神の伝える言葉の事実からはっきり見えて来ます。
神の言葉は、神が創造した”人達”がどの様に生きるのか、神が
創造したエッセンス、デザインを人に教えて聞かせているのです。シンプルでしょう。
神が創造した人達の性質、生き方を神が人に伝えているのにそれを律法〜呪い〜面倒〜恵のない生き方、うるさい!どうでも良い今は人間が判断して自由に生きれるのさ!それらの思考回路は
肉の頭脳、肉の目のまま、神が何を人に教え伝えているのか神の言葉の本質を全く理解しない、生まれつきの頭脳で、神の言葉を宗教の教えのごとく聞いている状態なのです。
自分を造られた方が今も直接神の言葉で自分に語ってくださる、私の本来の生き方!を教えて下さっているのです。奴隷から贖い出し、もしあなたが神の性質通りを生きる事に徹するなら、世界の中で王の最高の宝として世界に高く掲げる!と言っているその意味が全く頭脳に響かない、人の教えと言う別の顔が神の顔を覆い、神の真実で純粋で人を生き返られる教えを伝えて下さっているのに、その声が全く聞こえず遮られている状態になっているのです。
わたし=神が造ったわたしの性質通りの人はこれこれを生きる様に造られている、これこれはわたしの性質とは反する要素なので、これこれを生きるのはわたしが造ったあなたの性質、デザインではありません!と伝えているだけなのです。
神の教えを紹介する冒頭に、ヘブライ語では”あなたのために!
わたしの顔の上に別の顔を置いてはならない!”と言う重大警告
があります。別の顔とは何ですか?
人間が考え出す教え〜宗教に変化した神の言葉です。
今でも日本は顔にマスクを付けて目から下の顔の部分を覆い隠してその人の人相表情が全く見えなくなっていますよね。
本当に異常な世界です。狂っている。人間の正常な関わりの世界を妨害されているのです。人は人の顔を見る、向き合い生きる様に造られているのに、それを妨害されているのです。
笑っているのか、怒っているのか分からない。しかも目から下の鼻や口顔の輪郭が見えないとその人がどんな顔をしているのか
さえ分からないでしょう。
わたし〜神の顔=実態、神の性質とは異なる別の実態=人が考えるイスラエルの神像や、イスラエルの神の教えを、わたしの顔の
上に置いてはならない!と言う警告は顔マスクと同じ効果です。
神の言葉を覆い隠し、削除したり、神が言ってもいない事を言ったなどと解説する=神の言葉は永遠不変であり、最初からわたしの顔=実態を覆い隠す教え=神の言葉を否定したり、軽く取り扱い、人間が勝手に神の言葉は終わりだとか、これはユダヤ人だけの教えだとか、異邦人には今は関係ない教えになりましたとか、イスラエルの神が言われる事とは真逆な別の教え=神の言葉を
勝手に塗り替え勝手に神の代弁するそれらの教えの全て。
それが別の顔と言う意味の言葉で書かれているのです。
顔マスクの様に、神の言葉を部分的に覆い隠して別の教えを
乗せたら、神の伝える真実は伝わらなくなってしまっているのです。
神の警告、教え、イスラエルの神が創造した人間はどう生きるのか?と言う神が説明する教え=トラーを捨てたら迷い出るのです。
出エジプト20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
自分のために、自分が刻む像=人間が人間の手により考え出した礼拝や神への近づき方や、神の言葉を変形する教え、それらの
ものを作りだしてはならないと言う警告です。
全部最初の警告と繋がっています。
神の言葉を遮る、人間の教え=顔マスクを神の顔=言葉の上に
置くと、神の本当の実態が見えなくなり、神との隔たりの距離が出来ます。なぜなら、イスラエルの神は、モーセの五書の中で
どの様に神との関係を持つのか、どの様に神に近づくのか、
神が伝える聖別とはどんな内容意味詳細なのか、神が伝える罪とはどんなものなのか、人はどう生きるのか?生きる詳細の全てがその中に書かれているからです。神の言葉に聞かないと言うのは神が伝える神の創造した人の生き方を知らない、神から聞かない=神の言葉を学ばないなら、それが別の顔=人の思想や宗教の
思想で神の前に勝手な生き方をする事に導かれてしまうと言う
警告です。
神が創造した人間、神が代価を払って偽の神々から贖い出し買い戻した人達、その人達はエデンの園に居たオリジナルの人間=
イエシュアそっくりの性質を生きる事を神の教え=トラー=
モーセの五書の中に記しているのです。
それらの教えは、エデンの園からずっと口頭で伝えられた同じ
教えなのです。
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
この教えも全部最初と繋がっています。1つの真珠のネックレスと同じく全部1つのヒモ=神の教えの性質で全てが繋がっている1つ1つの真珠の玉は、神の教えの要素をここで短く解説しているものです。
その10の内容がモーセの五書全体で解説され、そして神の教え
からズレて生きた神の子らの歴史、代償など、諸書や預言書に
書かれているのです。
英語のプレイズで、この詩篇95章を歌いましたが、
"come let us worship and bow down"とあります。
日本語でも同じ様な賛美があると思います。
詩篇95:1 さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。
95:2 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。
95:3 主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。
95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
95:5 海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。
95:6 さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。
95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
この中でまず”王”とあります。王とは聖書でよく聞く言葉です。
王の王主の主などと普通に皆が使う言葉です。
神は人が分かる内容の言葉を使い説明しています。
神は王、イエシュアは王、ダビデ王の家系に生まれる王、
救い主とありますが、王とは何ですか?
異教の神々の異邦人の世界の王と聖書に書いてある王とは違う事
をまず知っておいて下さい。
イスラエルの王は、神の教え=トラーで正しく民を導き、トラーを教え、イスラエルの王国を統治する役割があります。イスラエルの王は民の必要を供給する責任があります。イスラエルの王が神のトラー=神の言葉通りに国を統治したらその時代にはイスラエルには平和が続いたのです。
そして神の前に偶像〜高き所=偽の神々の教えを全部撤廃した
王はたった二人だけでした。
この解説は又の時にしますが、イエシュア=イスラエルの神は
王として表されています。
続く