ヨム テルア=角笛を鳴らす第七の月の1日、2022年は
9月25日の日没から次の日の日没までがその日でした。
イスラエルの神の教え、仰せ、記念日は永遠不変です。
全て7が中心です。シャバット=第七日目、一年を締めくくる秋の祭り第七の月1日=新月、そして神の祭りは春、秋で7つあります。
完了の業=イエシュアの業を表す祭りでもあるからです。
7=完全無欠、完璧、欠けがない状態、シャローム。
神殿の中に置かれる金のメノーラ。7つで1つとして繋がっている。金は不純物がないものであり、そして7つ、ユダヤ人と異邦人が合わさり丸ごとワンセット=シャローム=完全無欠の状態になれると言う事を表しているものでもあります。
分裂ではなく1つ。7つの支柱は1本の金で繋がり出来ている。
絵画的教えです。人の教えは分裂=2つ別のグループとして教えますが、神が伝える真実とは全く違うのです。
異邦人もユダヤ人もお互いが無くてはシャローム=欠けが無い
状態にはなれないのです。一体とはかけてない丸ごと。
主にあって一つとは、神の中に全ての人がやがて1つになる事。
聖書に登場する人達、預言者達、そしてイエシュア、使徒、
パウロ、1世紀のユダヤ人と少数の異邦人、諸外国にいたイエシュア信者達も人種に関わりなく皆全員神の定めの日の祭り=レビ記23章で神が代々永遠に祝われるべき”わたしの記念日”と神の
口から直接紹介された祭りを祝っていた事が聖書には記されて
永遠に覚えるべき記録、証拠として残されているのです。
神の口から出た教えを個人個人がどう受け止めるか、それが異なっていると言う事だけです。人間がどう神の言葉を聞き、どう受け止め、どの様に信じ行動するか?それは人の側の問題なのです。神に言われた通りを生きるか、それとも神の言葉を軽くあしらい、人間が編み出した宗教の伝統を実践し続けるのか、又は人の教えに聞き入り、それらは今はあなたには無関係な教えですよと言う声の方を取り、神の言葉を退けて信じて行動するのか?
その判断は、宗教の教えや伝統の実践に照らし合わせて考えるべきではなく、神の言葉=聖書から真実を捉えて理解し行動を決定するものなのですが、それをしていないだけなのです。
ヨムテルアから大贖罪日に向けての今の時期の10日は、神の
言葉に照らし合わせて神の子ら全員が軌道修正=悔い改めをして過ごす日々なのです。神がそう言われたからです。
神の言葉に異議申し立てする挑戦心がある場合、”主よ、なんでそんな事する必要あるの?そんなの古い律法の教えでしょう。
私は神の恵を無駄にしない生き方をします。それに日々悔い改めてますから、私に取っては不必要、無用な教えです!”そう言う態度、発言は神の御前=顔=言葉に照らし合わせればどう言うものに映るのでしょうか。
神の言葉を正しく理解していないからその様に考えるのです。
イエシュア=イスラエルの神に贖い出され救われ神の家族とされた人は、1つ神に1つ家族として元の生き方=神の似姿の人が
エデンの園で神の教え=実態を生きる事に戻るのです。
全ての人は同じ婚姻契約の実態を生きる事に招かれたのです。
イスラエルは神の言葉を伝える代表としてまず選ばれたから、
イスラエルと言う大家族の苗字が書いてありますが、聖書=トラーには異邦人もユダヤ人も同じ家族とされた事、神の1つ教えに生きることが書かれています。それをパウロもエペソ2章で解説しているのです。異邦人〜婚姻契約からイスラエルの神と何の関わりもない、神の教えと何も関係のない生き方、神の言葉から遠く遠く離れて生きていた異邦人。神の教え=トラーの生き方を全く知らなかった人達もイエシュアを通して、今や同じイスラエルの神の大家族となり同じ祝福、天の相続を同様に受け継ぐ神の家族の1員になったと書いてあるのは、そう言う意味です。
1つ同じイスラエルの神の家族は神が伝える同じ1つの教え=
婚姻契約=トラーに書かれた教えを生きて、同じ記念日を祝う様に神の口から直接伝えらたのです。今日も同じ永遠不変の神の
変わらない教えなのです。
人間の教え=イスラエルと異邦人は別の教えを生きて、別の記念日を生きるのだ!などと言う、神の言葉を虚しく、虚無にし
虚偽の教えを全て捨てて、それら非聖書的教えを世界へ伝えるのを全部やめて、そして神が伝える通りの事実=聖書に記された
事実だけを世界へ宣言し生きる事に戻らないとならないのです。
10の言葉は1つとして全部繋がっています。聖書の内容のタイトルが10の言葉で表されているからです。
そして神の言葉は全部丸ごとて完全なものであり1セット。
だから異邦人の世界で語る様なここは無効、ここは異邦人には
要らない教え、今は関係のない恵みを無駄にする呪いの律法に
戻るなかれ!などと言う解説が、神の言葉=聖書とは全く関係の
無い人の思想=哲学、人造神学教理であることは神の言葉から
明らかなのです。
あなたのために!あなたのためにわたし=イスラエルの神の顔に別の顔=別の教えを置いて、神の伝える実態を覆い隠してはならないと最初に重大警告として人にさとしています。神は神の教え言葉を別の教えですり替える様な事は決してしてはならないと
今もこの時もはっきりと教えているのです。
それはあなたのために!私達人間のため、神が怒るからとか
不愉快だからやめろ!とかそんな事ではなく、私達が神の伝える通り、本来の要素を生きることを剥奪されないために!神の伝える教え=言葉以外の他の教えに聞き入ってはならない、詰まり
神の言葉を退けて、人間の教えで神の言葉を覆い隠す=わたしの顔の上に別物の顔=偽の神像、偽の自己像、偽の教えを置くなかれと警告として伝えているのです。
神の言葉を呪いの律法律法、廃れた古い教えで恵のない生き方
に戻るなかれ!などと唱える意識、教えは、神の顔を覆い隠す、妨害そのものです。だから神の声=本当のイスラエルの神の実態に触れる事がないまま宗教=混ぜ物添加物満載の教えに聞き入ってしまってもそれらが神の教える事なのだと本気で信じているのです。混ぜ物、添加物の中にも本物の教えが入り込んでいますが
添加物、遺伝子組み換えと混ざると不純なものになってしまいます。部分的には真実はあるけど、それらが添加物=混ぜ物の教えでスポイル=台無し、損なわれる、腐ってしまう。
宗教の教えが具合が悪くなるのは、それらしくて自分の要素=
神の似姿にマッチしないものだからです。
聖書だけに戻ればちゃんと書いてあるでしょう。ヘブライ語の
表現は耳を引っ張って、神の声の下に来て神の声の中で神の声を
聞くと言う表現ですが、日本語だと耳の穴をかっぽじいて聞きなさいとありますね。偽の教えで耳を塞がれないように!です。
イスラエルの神が創造された世界の全ては神の言葉で造られ、
物理的に現実に現れ出ました。人間は神の似姿そっくりに造られたとあります。人間が神の創造物の中で一番神の性質をそっくりそのまま映し出す存在として創造されたと書かれているのです。
だから神の伝える言葉=性質通りを生きるならば、神の性質通り天の現実が地に現れると言う事が起きるのです。神の似姿の人が神の性質を生きるとそう言う事が起きるからです。
これをサタンは何としても妨害したいのです。
神の言葉で造られた人間、私達は神の言葉=DNAで綴られ出来ていて、そして神の口から出る一つ一つの言葉=トラーにより人は生きる!と書かれている!その言葉を神から素直に受け取り信じ生きるのか、それとも神の教え、招きを拒否するのか、だから
人の教え=宗教の教理、神学、人の語る思想に照らし合わせてはならないのです。神が言われる通りを生きるのが人間本来の生き方である事を神の言葉から理解する人は神の言葉を何より尊重し神の声を聞くのです。祭りの角笛の音=神の声=神の言葉を聞いてそれを内側から知る人は幸いであると言う事になるのです。
10の言葉の2番目も最初の警告と同じ内容で別の側面を教えて
いるものでもあります。
出エジプト 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
自分のために刻んだ像。人は神の創造したもの、それが人間の
姿であれ動物の姿であれ、神の造られたものに似せて像を作っているだけです。
自分のために像を作ると言う事をイスラエルもエジプトでやって
いました。それがシナイ山で婚姻契約を受け取る時にも引き続きやっていたのです。それしか知らなからです。自分達が慣れ親しんで培って来た考え、やり方で本物の神に近こうとした、拝んだそれらの行為は自分が中心=自分の考え=自分が刻んだ像を通してであり、神が伝える方法で神に繋がる事ではないのです。
像=偽物の教えとも繋がります。人の思想、人の手が作った神像、イメージ。偶像礼拝とは偶像を作る、拝むと言う事だけではなく、自分の考え=方法=自分の考えで刻んだ神像を通してイスラエルの神に近く行為でもあるのです。イスラエルの神は神が言われた通りにやって!!!とずっと人に伝えているのです。神しか人が神にどう近づけば良いのか人に伝える事が出来るお方が
他にはいないからです。それを人間が勝手に作り変え続けているのです。
イスラエルは金の子牛を作り、イスラエルの神を拝んだのです。
しかも、神の祭り!を祝おう!と書いてあります。
神の祭りを彼らはどこで知っているのでしょう?モーセも神の祭りを祝うために荒野に戻らせてくださいとファラオに懇願しましたね。聖書には祭りを解説する内容が何も詳しく最初に書かれていませんが、それらはエデンの園から教えられていたのです。
聖書の最初に”第七日目”をシャバット=聖別された日として
祝う!この中に全ての神の定めの祭りが凝縮されているのです。
それはどうして分かるのか?人の生き方は同じ。福音は1つしか存在しないからです。
全ての業は6日の間に完成しているからです。
だからエデンの園を出ていきなり何の解説もなく、アベルとカインが捧げ物をしている下りが書かれています。
な〜んの細かい説明も無しです。どうして彼らがその様な事を
理解して行動したのか?神が神にどう近くか、捧げ物=コバンの意味=イエシュアを通して神に繋がる事を神から直接教えられていたからです。彼らが神から口頭で聞いていた同じ内容を、文字で解説したものが、モーセの五書です。モーセの五書全体で初めて文字として記され神の教えが書かれる事になるのですが、神の教えは最初から全部同じ完全、口頭で人に伝えられて来たのです。
だからアヴラハムも子羊の血、イエシュアの贖いの業を受け取り聖霊を内側に受けていた。そしてまだ見ぬイエシュアの日を見て=霊的な目で見て知り喜び楽しんだと書かれているのです。
ヨハネ 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を
神に伝えられた事、イエシュア=救いの内容を聞いて、信仰によりアヴラハムは神の言う、まだ見ぬ事実を信じて受け取ったことが書いてあります。見ずに神の言葉の通りを信じる人は幸い。
福音は2000年前に突然現れ、教えられたのでは無い、最初から同じ福音なのです。それをどの時代も、どの人種もその個人が
理解していたのか、いないのかの違いだけなのです。そしてアヴラハムが神からトラーを聞いて理解していた様に、”イエシュアの日を、未だ見ぬ日を見て喜んだ”とある通りに、神の言葉を理解し、イエシュアにある命を同様に内側に受けて生きていた人達=残りの民はどの時代にも存在して現在に至るのです。何も違わない。なぜなら福音は1つ、救いの方法は1つ、イエシュアを通してでなければ誰も新しく生まれ変わり父の元に戻ることは出来ない!からです。
続く