神の言葉を捨てたら神が伝える聖別からずれる罪などには絶対に気が付けません!!!これは人間の中にある一般の良心とか
道徳心とは全く関係のない領域を神が教えているからです。
大体神の言葉を無視、無用、捨てると言う意識を持つ事自体が
ズレ=罪=エデン=神の中=神の思索から飛び出している証拠
です。
聖別の意味を神の言葉、教えから理解する事は、神の言われている意味を知らないと理解出来ません。いわば上級者編。
でも中身は誰でも簡単に理解出来るものなのです。
基本、神が伝えている事をまず素直に受け取る事。そして聖別が
命に匹敵するとどうして神が言うのか神の言葉から知る事。
それには、何が汚れで何がきよいと神が伝えているのか知る事。
〜〜〜するなかれ 〜〜〜すること と書かれてあればそれは
それらは神の創造された神の性質通りに造られた人間の生き方
そのものであると理解する事。
〜〜〜するなかれ〜あなたは〜〜する様には造られていません。
それは人の生きる全ての領域に関して、何に於いてもです。
食べる事、飲む事、新月、祭りに関して、これらはイエシュアの
命そのものを生きる内容なのです。礼拝とは、日々生きる普通の
行動であるのです。ヘブライ語ではそう書いてあるからです。
何をしていても神の栄光を表す、つまりあなたの行動そのものが
神の前の礼拝であると認識すれば良いのです。
神に造られた通りを生きること、それがアヴォダ=神の前の本物の生き方、礼拝です。
礼拝と言うと何か特殊な宗教行事、賛美や祈りやパフォーマンスを考えてしまいますが、それはほんの一部の行動、表現に過ぎないのです。
神が伝える聖別を教える根本的な教えを教えている、レビ記を
読むとそれが理解出来ます。
〜〜〜するべし〜あなたは〜〜〜する様に造られています、
神の性質通りを生きる、それがあなたの本当の本来の性質
エッセンス、神が造られたあなたそのものです!と書かれているのです。神に創造されたあなたはどう造られているのか?何を生きる様に造られてそれをどう生きるか?と言う神の言葉に対して
律法と言う聖書に書いてない言葉で神の言葉を表現解説してしまっているので、聖書に書かれた言葉とは違う概念、固定概念、
発想を異邦人の中に植え続けてしまっているのです。
言語の意味を知るだけで聖書に書かれていることが一般に異邦人の世界で語られているそれとは大分かけ離れて違う事を発見出来ます。
ヘブライ言語では神の言葉をさして律法などと言う言葉では一度も表現されていません。律法とかLawとか言い続けるから、
違う概念を刷り込み続けてしまうのです。
神の教えは、全てトラー=教え、インストラクションと言う言葉でしか書かれていません。
もちろん神の国の憲法には法律に関する事は書かれています。
人の生きる上でルールが無い世界、それは無法地帯=危険地帯に
生きると言う事なのです。誰でもそんな単純な事は理解出来る。それぞれの住む場所にルールがあったらそれは呪いの律法だ〜
捨てよ!なんていうのですか?その思想はずれている、
狂ってるのです。様々なルールは互いのシャロームを保護するため、人の安全、喜びが破壊されない生き方であると理解しないと
真実は見えてきません。西洋宗教の教えの世界は神の言葉に敵対せよ!神の言葉に反する意識を刷り込み続けている!これは
1世紀後半からずっと西洋教父たちによりされて来てしまった
大きなずれ=罪なのです。神の言葉に敵対する行為は実は、
神ご自身=イエシュアに敵対すると言う行為だからです。
人の意識の中にはずれたイスラエルの神像と神の言葉に対する
根本的なズレがあるのです。
モーセの五書はイスラエル議会の憲法だったのです。
本当に人の教えとは神の伝える真実を覆い隠す妨害であり、
不適切な翻訳は神の言葉の意味を全く反映しません。
聖書の言語に無い翻訳や造語=律法、旧約聖書、新約聖書、
教会、破棄された廃れた教えetc etc etc etc
その裏にある本当の言語の意味が全く見えず真実が覆い隠されている言葉です。言葉とは意味があり、そのものの実態を表すもの
であるのに、実態、本質を全く反映しない翻訳、造語がたくさん
あるのです。
神の言葉に聞かない人には全く理解出来ない世界、それが神の
伝える聖別の教えだからです。神の聖別は人の命を保護し守る
ものです。肉体的物理的霊的ぴったり一枚岩、同じ内容が語られているのです。どの領域でも神の禁じられている事に足を踏み込んだら必ず
汚され害、損失を受けるからです。
神が創造された神の定めの日、神が”わたしの記念日”と宣言された祭りの日は”レビ記23章”に完全版として記されています。
民数記28−9章、出エジプト12、13、23章 申命記1631章にも繰り返し書かれています。
神の創造された記念日は永遠に変わらず、代々永遠に祝われるもの、イスラエルの神との関係にある印として神の子らに与えた
記念日である、イシュアに属する人は全て永遠に祝う祭りである、イエシュアの業、福音を網羅する預言的祭りでもあると神が伝えているのです。一旦西洋宗教=人間が編み出した教えの混じった創作宗教、神学、教義、儀式、西洋人の記念日や教えを全て削除、リセットして聖書に書いてある通りに読み考えてみる事をお勧めします。
レビ記では1章〜22章は、”場所”に関しての聖別、場所〜人も場所です。神ご自身を=ハ マコム=The 場所と呼ぶように、
神の住まう場所=神の宮、神の臨在が住まう場所=神の宮、
神の子ら=人そのものが神の住まう場所だからです。あなたの中にイエシュアが住まうと言うなら、その住まう場所は聖別されて
いる状態でなければならないのです。
そして、”神の時”=定めの時、神の記念日に関しての時に関しての聖別がレビ記23章に記されているのです。
人間が勝手に考え決めて定めた日を聖別=人間定義で聖別された日、それらは聖書では聖日とは呼ばれないものです。
聖日、主日礼拝と異邦人クリスチャンの世界で語られているのは、それらは2世紀以降異邦人教師達、ローマ皇帝が考えて決めた、人間が宣言した人間が勝手に決めた聖日であり、神が創造され宣言し人に伝える聖別=神の目的通りに取り分けられた日ではないのです。これは正真正銘、神が人に伝える事実なのです。
神の伝える真実ではない事を人間の教えにアレンジして、あたかも神が人に変形して教えを伝えたかのごとくに語り続け、聖書に記されてもいない神の聖別の定義を人に伝えるのはやめなくてはならないのです。神の声=警告を理解し聞くひとは理解したら即座にやめるはずです。神に逆らう、神を”虚しく、空虚、虚偽”を
世界へ伝える、唱え、伝達し行為だからです。
”神の名=神の実態、神の言葉を、みだりに唱える=虚しく=意味、無意味、虚偽、無効として人に宣言、人に示して生きてはならない”と神が言われる言葉、声の下に来て耳を引っ張り神の
声の中で神の言われる通りを素直に聞けば真実に目覚める
聖霊が神の言葉の事実から真実をはっきりと自覚させて下さいます。
ショファー=角笛の音の意味、吹き方の動画も載せているので
見て下さい。

伝統的にこの日に食される食べ物。
丸いハラのパン。王冠を意味するものです。
王の到来=イエシュアの再臨を表すものです。王の王がやがて
地上に再び来られエルサレムから世界を神の教え=トラーにより
統治し、世界の人全てが神の教えを生きる時代に入るからです。
