神の声に聞く 秋の神の定めの祭りを準備して待つ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

長い年月1900年近く異邦人の宗教の教えの中で伝統で語り

継がれ実践して来てしまった宗教の教え、儀式、記念日の数々。

 

それらは聖書=神の仰せ=教えとは全く関係の無い歴史の途中で人間が後から作って神の教えに付け足した教えであり、部分的には聖書の真理であれど、基本的には神の言葉を否定する教えが

土台であると言う事は、イスラエルの神の教えとは全く関係の

無い宗教の教えであると言うシンプルな事実に聖書から気が付く必要があるのです。

 

神の仰せは、寝ても覚めても何をしていても神のトラー=教え

インストラションを思い巡らせガードして生きよ!だからです。

異邦人の教えは、神の言葉は無効!今は無意味な律法、廃れたと

教えています。神の言葉は1体です。全てイエシュアを表しています。人間の生き方を神が伝えているものです。それらがどんな教えであろうと、神のシャバットや祭りに関してであろうと1つ

であり繋がっておりどの部分も削除する事は出来ない。

DNAの遺伝子を組み替えたり変形する事と同じになります。

神の教えや神の記念日を変形すると言う行為は、神の伝える実態=イエシュアの本当の実態が現れ出てこなくなる事だからです。

 

サタンは神の言葉を最も、忌み嫌い拒絶しているのです。

神の言葉を直接には攻撃しないで、トリックを使います。

どんなトリックでしょう?エデンの園でアダムとエバを騙した

方法と同じです。半分嘘、半分本当と言う混ぜ物の教えのトリックを使って人を騙したサタンのカラクリを知れば良いのです。

 

ある部分は聖書の真実、ある部分は聖書では無い人が創作した偽の教え!添加物複合物人間の創作の教えが神の言葉の中に混入し混ざった混ぜ物の教え=宗教の教えが蔓延してしまって現代に

至るのです。だから何万と言う宗派、何万と言う様々な別種の

教えや実践、そして聖書では無い人が作った儀式や宗教の記念日を異邦人は聖書である!と固く信じて実践して来ているのです。

 

今週25日の日没には、神の定めの日がやって来ます。

ヨム テルア。告げ知らせる日です。何を告げ知らせるのですか?イエシュアが再び来られる事!この世界に最後の審判がもたらされる事、そしてイエシュアの中に住まう、イエシュアがエルサレムから世界を統治する時がやがて訪れる事!

ショファーを鳴らすと言うことはどんな時にするのでしょう。

戦争を知らせる時、緊急事態を知らせる時、又は新月、祭りの時、そして王の戴冠式の時などに角笛を鳴らしました。

 

聖書では角笛とは神の祭り=神の定めの日に密接に関係があるものです。

特に仮庵の祭りを迎える秋の祭りの最初、聖書の暦の第七の月の1日は”ヨム テルア” 叫ぶ日。神の定めの日、王の到来、統治を世界へ伝えるために神の子らがショーファーを通して世界へ告げ知らせ、叫ぶ日です。角笛を鳴らして世界へ神の統治を知らせる日でもあるのです。王の戴冠式でもある。

 

神が神の子らに神の祭りの到来、王の到来を告げ知らせるリハーサルをずっと地上でする様に教えているものです。

神の声に聞く。ショーファーの音は神の声を聞くことになぞられられているのです。神の声=角笛の音を聞いてその意味を知っている民は幸い!と書いてある通り神の声をないがしろにし、無視して捨て生きる民は幸いではなく不幸である!と言う事が聖書には書かれているのです。

 

そして、その日から神の子らは個人個人だけではなく、神の民

全体で軌道修正をします。軌道修正=テシュヴァ=悔い改めと

言う翻訳用語をクリスチャンの世界では使いますが、軌道修正の

本当の意味、どんな事を実際にする事だと聖書には書いてあるのでしょうか?

神の教え=トラーからどれほどかけ離れてずれた生き方をしていたのか1年を振り返り反省軌道修正する。神の言葉=トラーの

教えに戻り生きる軌道修正、それを聖書では悔い改めと聖書には書かれています。

 

悔い改め、悔い改めと言うとそれらしくても、では一体悔い改めとは実際には神の教えではどんな行為をする事なのか不明で漠然としています。

何をどう悔い改めてこれからどうするのか?自分の生き方の中で何を変えるのか?が本当にぼやけているのです。元の教えが見えないからです。神の言葉を捨てると言うことは”指針” ”手引き”

絶対的基準の神の教えを捨てる事なのです。

 

的外れ=罪と訳されていますが、的=神の教え=トラーに当たらないズレた生き方、生き方=方向性です。神の教えの中心にぴったり当たらない生き方は、的にいくら近く見えてもそれは同様にズレた生き方であり神のみ旨では無いと書いてあります。

 

ボーリングのアレーにボールを投げたらピンにぴったり当たる

路線にボールが転がって行かないとそれは的=ピンを外したボールの投げ方です。2、3本は倒れるかもしれないけど、他のピン

的を外すのです。

的に命中する事、的に当たる=目標にぴったり焦点を当てる=

それが聖書で伝える道の事です。道=神の言葉で表される生き方の事です。ヨレ言う言葉は、秋の仮庵の当たりから長い長い夏

の後初めて雨が降ります。雨の無い時期が終わり降る時、カラカラに乾燥した大地を叩き割る雨の事を言います。

”打つ” 当てると言う言葉と同じです。神の教えの的に当たる道、神のトラー、的に当たる生き方がヨレでもあるのです。

絵画的教えです。神の種=言葉が植わり成長し御霊の実を付けるには、神の言葉を理解する頭脳=神の言葉で打たれて柔らかくされた大地=頭脳が必要なのです。

大地=頭脳=神の言葉=種がしっかり植わり根を出し、芽を出す

頭脳を耕し軌道修正する事、これが神の教えが語る、聖書の本当の悔い改めの意味です。

神さまごめんなさいと口で言う事、これから宗教伝道活動に熱心になります、献金たくさん捧げますなどと誓う事、そんな事を

言ったりやったりする事が聖書で言う悔い改めでは無いのです。

 

神が求めていることは人が宗教の教えに邁進することなどでは

ありません。神が創造された人間本来の生き方をすること!!!

宗教活動を想像していたら神の教えは見えません。

人間が作った宗教の教えを生きる事と神の言葉=神の性質の本来の姿を生きることは全く関係が無いからです。もし人が神の性質=トラーを生きていたらそれだけで周りの人々を生かし潤します。生ける水=イエシュアがその人の生き方から環境に現れ出て人に影響を与えるからです。その事に注意を払うべきであり、

宗教活動に熱心になる事などと考えていてはずれてしまいます。

 

1サムエル15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事=聞いて生きる事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従う=聞く=シャマ=神の言葉、インストラクション=トラーに聞き生きることは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。

15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

 

神の言葉に背き捨てる、命に匹敵するズレ=罪であり、占い、偶像礼拝の罪と同様であると神は言われています。ではどうして異邦人の世界では神の永遠不変の教え=言葉=トラーを捨てよ!

無効だ!無意味!終了!などと言い続け世界へその様な教えを伝え続けているのでしょうか?聖書=神の言葉に照らし合わせると全く辻褄が合わない教えであることは一目瞭然なのです。>

 

これから10月4日火曜日の日没に大贖罪日もやって来ます。

この日に伝統的に断食をします。断食は神の仰せでは無いのですが、大贖罪日を過ごす時どうして貧しい人が自分達の間にいるのだろうと考えろと神は言われました。それは分け与えない人がいるから!富を独り占めしている人が居るから、人を顧みない生き方をしている人達が居るから貧しい人が居ると言う答えに辿り着くのです。神の教え=トラーを皆が生きていたら貧しくて食べられない人は居ないはずだからです。人の生活で一番実感するは、食べられない!命を支える食物に欠く、空腹を味わう体験する事が基本的な欠乏を体験する事であり、だからその痛みを同様に

体験し顧るために大贖罪日には断食をするのが伝統になっています。以下は神が望む断食の本質、生贄=コバン=神に近づく本質はこれであると教えています。

全て100%預言者はモーセの五書を引用し人に伝えていると言う事実だけに留まり神の永遠不変の教えだけを考えて下さい。

 

イザヤ1:16 あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、

<悪=神の意図からズレた全てです。それらはモーセの五書に

詳細が記されています。だからモーセの五書に何が神の教えとして書かれている事を学ばない場合、神が定義する罪の本当の意味は理解出来ない様になっているのです。>

1:17 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒めみなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。

1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たとい

あなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。

1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

 

イザヤ58:4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、

いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。

きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。

58:5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人が

おのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを

断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。

58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。

58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。

58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、

神の定めの日を尊重し、神の伝える通りを実際に生きる事!

とイスラエルの神が人に伝えています。人が作り出した勝手な祝い勝手な礼拝、これらを神の側では結局受け取る事はないことは明らかに神は人に伝えています。神が言う通りをして!それが神からの仰せであり、それが人のデザイン、成り立ち、要素で

あり神の子らの姿だからと伝えているのです。人間が作り出した勝手な礼拝や儀式や記念日など神の前には、何の意味も無いからです。自分よがり、自分が中心、結局人間が神になり代わって仕切っているから神の教えを退けて人造のもので神を拝む。出エジプトして直後、エジプトで学んだ異教の神々への礼拝でイスラエルの神を同じ様に礼拝する、金の子牛でイスラエルの神の祭りを祝ったイスラエルの罪と同じ。神にとりそれらはありがたくも何とも無い、いや嫌悪憎悪すると書かれています。その結果3000人のイスラエルが死んだのです。神は厳しい?いや神は偶像礼拝混ぜ物の礼拝は絶対にダメである!と人に教えているのです。

イスラエルの神から離れる要素を生み出す危険だからです。>

 

続く