神の定めの祭り 預言的祭りの意味 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2022年、来週の日曜日9月25日の日没に聖書の暦の第七の月の1日になります。この日は神の定めの日、ショーファー=

角笛を鳴らす日であるとイスラエルの神が人に伝えている日です。

神の教え、神の言葉、神ご自信は永遠不変であり、神の教えは

どれひとつ一点一画、今も何も変わっていません!と言う神が

人に伝える事実にはっきり目覚めて聖書=神の純粋な言葉を読み直し、神に聞く=聖霊に直接聖書から教えられる!と言う事に

戻ると見えます。人の教え=神の言葉は終わりありきの様な思想

を信じ聞き続けるなら、神の伝える真実に目も耳も塞がれ続けた

ままになってしまうのです。

 

春の祭り、聖書の暦の第一の月の15日、過越から始まる一連の祭りは、イエシュアの業、地上に最初に来られた業、永遠の中にある贖いの業を地上で表された祭りでもあります。そしてどの時代もどの人種も性別職業立場に何も関係なく、皆同じ贖い救いの業を、神の定めの祭り、預言的祭りで表されるイエシュアのされた業を辿る道のり〜それが信仰による人生の歩みであり、信じる人は誰でも同じ道筋を辿るのです。

もちろん内容は違えど、イエシュアにより贖われた事実=奴隷状態=エジプトから贖い出された、子羊の血で贖い出され、死が

自分を過越た事は、イエシュアに繋がる人は誰でももれなく同じ体験をするのです。それが神のデザインだからです。人は神の時=暦の中を生きる様に造られ”あなたの齢=生きる日数は数えられている”とある通りなのです。

 

過越の小羊の血で贖い出され、奴隷状態で何も分からないまま

生まれ変わる体験をした。でも新しくされた命を生きる事を神の教え=言葉により教えられる人生の旅路=それがイスラエルと

少数の異邦人が体験した荒野の40年で表されているものです。奴隷であった自己像を脱ぎ捨てる、神の言葉に聞いて生きる訓練=荒野=神の声だけを聞き分ける場所に連れ出された。

そして頭脳に割礼を受ける=神の目から見る通りを見る訓練に

成功した人達は約束の地を所有し、神の国に生きる事に定着する。神の国は神が指定する通りの生き方をする人で構成される。神の国に汚れを持ち運べない。神の国の実態を人が汚してはならない。神の国を神の目的通り=聖別された状態で生きる人で構成されるからです。だから神は神の選び出した国が異教の神々の教えやシンボル、慣わしで汚される事に断固拒絶し続けている事は聖書を読めば明らかに分かる事です。今も同じです。今は何でもあり、なんでも自由になったと言う教えは、神の教えに真っ向から反した聖別の意味をまるで無視する人の創作した思想なのです。神のものでは無い別物に変身してならない。別物の教えと

混ざり合い、神の性質に生きる事を妨害され別物に汚されて生きてはならない。イスラエルの神に属さない要素は全部捨てなくてはならない。

神の教え=言葉を捨てる様に教える宗教の教えは、神の言われる

言葉教えに真っ向から反抗反逆しているものなのです。悪霊は神の言葉が大嫌いです。なぜなら、言葉=神ご自身でありパワフルで闇は光に直面する事を嫌うからです。

 

過越、荒野の40年を過ごした最初の世代で神の目から見る通りを学んだのは、たった二人だけでした。ヨシュアとケラブです。

 

ヨシュア1:6 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、

わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。 

1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセが

あなたに命じたトラー=モーセの五書=神の教えインストラクションをことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。1:8 このトラーの書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、

ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、

あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しく

あれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。

 

神が神の教え=トラーから右へも左へも外れてはならないと教えているのに、2000年以降は自分の判断で勝手に生きよ!などと聖書のどこの箇所に一体書いてありますか?いい加減人の思想と聖書をイエシュアを信じる人は区別、識別出来る成人に成長しないとならないのです。他者を誤りの教えに導いて、宗教の教えで汚染してしまうからです。

 

民数記14:6 このとき、その地を探った者のうちのヌンの子

ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、

14:7 イスラエルの人々の全会衆に言った、

わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。

 

<ヨシュアとカレブは、神の目から見る通り、神が約束された通りを告白しています。巨人を見て=肉の目から見て怖気付いた

他の10人とは違う発言をしました。>

14:8 もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。14:9 ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。

約束の地を所有する。地上で表される神の国に住まう。

神の国は神が伝える通りを生きる人で構成されるものであるけれど、それは今の所完全には成就されていません。

 

再臨再臨と異邦人クリスチャンの中で度々話題になる内容ですが、再臨を表す神の定めの時〜祭りが聖書に記されている事に

気が付いていますか?そして再臨=預言的祭りをリハーサルを

しながら待つ人たちは不意打ちに合わないと書いてあります。

神が特別な業をされる時と神の定めの日は密接に関連しているからです。

最初の到来〜過越の祭り=イエシュアの処刑は過越でされ、再臨以降は秋の祭り、ヨム テルア〜ショファーを鳴らす日、大贖罪日、そして仮庵で表されているのです。

 

聖書には全て預言的祭り=神の定めの日、祭り=イエシュアの業

を巡り神の言葉が記されています。そして救われた人個人個人の

人生の歩みも、神の定めの日を巡り表されているものなのです。

イエシュアに出会って救われたと言う場合、聖書に照らし合わせると、同じ過越、同じシャヴオート=同じイスラエルの神の同じ唯一無二の婚姻契約にユダヤ人、異邦人共に加えられた事実、そして神の国の民として成長し世界へイスラエルの神=イエシュアの実態を生きる生き方を示す事、そして人生の最後は元の場所に戻る!命のサイクルはこれを繰り返しているのです。

世界全体は、最後はイエシュアが世界をエルサレムから統治する

時代=オラームに入り、世界は神のトラーを生きて、神の定めの

祭りを祝う様になると聖書には預言されています。

 

異邦人の世界で語る様な神学=デイスペンセーション神学、

地上ではユダヤ人が父なる神と婚姻し統治し、天はクリスチャンがジーザスと婚姻し天を統治し、神の教え=トラーとは無関係に生きるなどと言う創作の教えは神の国=聖書には存在しない教えです。

全ての人は神の似姿=神の性質を生きる〜それが誰も主を知ろう!と言わなくても皆神の教え=神の性質を生きる事を腹の底から知って生きる時が来る!と預言しているのがエレミヤ31章の再更新される同じ契約であり、それをイエシュアが過越の最後の晩餐で言われたのです。

 

詩篇などを読んで、祭り、記念日、定めの日、神の造られた日を

楽しみ喜ぼう!とは全て神の定めの日=特別な祝宴=祭りに関して書かれているものなのです。私は全く気が付かず、特別な祭りの日を賛美し喜び祝い歌っているものであるなどと全く気が付き

ませんでした。

 

詩篇118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。

この日=過越の祭りを喜び祝っているのが詩篇118の”この日”

ハ ヨム= The Day=過越の祭りの日の事です。

 

聖書の中には西洋人が作った宗教の創作祭りの話などは書かれていないのです。

神の定めの日とはレビ記23章に書かれた聖別された神の定めの日=記念日、それが正真正銘の神が創造された代々永遠に祝われるべき神の記念日!であるのです。

 

詩篇81:1 われらの力なる神にむかって高らかに歌え。

ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。

81:2 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。

81:3 新月と満月とわれらの祭の日とにラッパを吹きならせ。

81:4 これはイスラエルの定め、ヤコブの神のおきてである。

 

詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。

主よ、彼らはみ顔の光のなかを歩み、

89:16 ひねもす、み名によって喜び、あなたの義をほめたたえます。

詩篇に書かれている”喜びの声”とは、神の祭りを知らせる角笛の音の事です。特に第七の月の1日目は、角笛を鳴らす日です。

神の声を告げ知らせる。”テルア”角笛の音は神の声になぞられて

いるものです。過越の後のシャブオート、シナイ山の出来事も同じです。

イナズマ、雷のとどろき。天から神の声が直接聞こえたのです。

 

神の声=言葉を聞いて生きる人は幸いである。イスラエルの神の

名=神の実態性質を生きて、神の義を世界へ光り輝かせる、地の塩、世の光は幸いである。

 

89章15日の”祭りの日の喜びの声” ショーファーの音の意味を

体験的に神との関係の中、神の定めの日を祝い生きる事で知っている人達は幸いであると書いてあるのです。

 

大事な神の記念日を異邦人の世界では捨て去る様に、忘れ去る様に教えられて来ていますが、神の中では神の記念日は永遠に

祝われるべきものであり、1世紀イエシュア、使徒、パウロ、

ユダヤ人、異邦人共にレビ記23章の神の定めの日、シャバット

新月、祭りを祝い続けていたのが聖書の真実なのです。

神は人間が作った宗教の教えや、記念日を祝え、重要視せよなどと一度も人に伝えていません。

ローマ帝国とそして西洋人教父=反ユダヤ、反モーセの五書思想を信じるそれらの教師により、神の言葉を捨て去る様に教えられ

ユダヤ人から完全決別、決裂し独自の新しい宗教の教えを作り出し、聖書とは異なる教えや、記念日、儀式の実践を編み出した、

それが西洋宗教の歴史の事実なのです。

聖書を読み直せば、そこに書いてあるのは100%生粋のヘブライの世界=イエシュア=ユダヤ人の長子である方が伝えた、

父の言葉=モーセの五書以外に聖書には他の教えや宗教創作の記念日など1つも記されてはいないのです。

世界は最後には”神の御名”は一つになり、神の記念日も同じく

神が創造されたものを祝い、宗教の教えでバラバラに分裂されて

いた神の子らも1つになる。異邦人、ユダヤ人共に同じイスラエルの神=イエシュアを通して、同じ神の言葉、同じ神の記念日を

祝う日が来ることが聖書に預言されているのに、いつまで分裂した、聖書とは違う教えにしがみ付く必要があるのだろう?と

気が付けば良いのです。

 

長い伝統で語り継がれてしまった異邦人の世界の宗教の教え。

それらは聖書とは全く関係のない教えであり、部分的には聖書の

真理であれど、神の言葉を否定する教えが土台であると言う事は

イスラエルの神の教えとは全く関係の無い宗教の教えであると言うシンプルな事実に聖書から気が付く必要があるのです。

 

 

続く