聖書の中に記されている神が人に伝える様々な教え。
それらは、エデンの園から出て来た人達の歴史の中で起きた
様々な事件や出来事を通して伝えられる、ナレーション形式、
物語形式で記されています。それらは偶然にそこに書かれているのではなく、神の目から厳選された1つ1つなのです。
人間的な目から見て重要だと思う事件、出来事ではなく、神が
選び出した特別な人物、特別な出来事を通して全人類に同じ教訓を教えているものだからです。人のズレの本質から生まれる問題人の問題の根本中心は、神の似姿そっくりに造られている自分を疑った所から始まりました。神から与えられた正しい自己像の
崩壊。そして正しい関係の崩壊。神と人との間に存在しない隔たりが生じ、人と人との間も同様に越えられない溝〜相手の本当の姿が見えない世界へ飛び出して壁が生じてしまった。
大元は夫婦の亀裂、家族の分裂です。
その原因は蛇の嘘を信じて頭脳に取り入れた事で起きてしまったのです。だから神の言葉ではない人の教え、半分嘘、半分本当と言うそれら真実と不真実の混ざった教えがどれほど人に取り危険なものなのか、聖書の最初にクリアーに記されています。だから神の言葉を塗り替え否定する教えは遺伝子組み換えのごとく危険なものなのです。神の真実ではないものを肉体に頭脳に取り込む危険。
神の家の代表として”イスラエル”と言う国民を選び出しその神の
大家族イスラエルの長子がイエシュアであり、全世界の人類は同じイスラエルの神=イエシュアを通して1つの家族に引き寄せられる事が最初から最後まで同じ内容で記されています。
福音は1つであり、救いの方法はどの時代もどの人種にもたった1つの手段しかないものであり、それはイエシュアを通して以外誰も父の元に来る事がない、イエシュアを通して以外誰も新しく生まれ変わる事がない事実がある通り、歴史のどの時点でも同じであり救いが2000年前に初めて有効になったなどと言う異邦人が考える仮説は聖書とは何も関係の無い人が考えた教えなのです。
なぜなら、モーセの五書、預言書、諸書には最初から救い=イエシュアが教えられ書かれており、どの様にして人は神に近づき、和解、軌道修正するのかその方法=同じ方法がモーセの五書の中では詳しく書かれて教えられているのです。神の家の中での一連の出来事、コバン=捧げ物、天から神が下された火だけで焼かれる捧げ物、様々な事を通してイエシュアのされた業、そして私たちが神に完全に受け取られている事実を表している事が記されているのです。どの人種、どの時代も人が元に戻る、元の自分を取り戻す、神の元に戻る方法、それはイエシュアを通して以外それは可能ではないからです。古代は生贄で一時的に許された、
2000年以降はイエシュアの贖いの血で許されると言う教えは
”子羊の贖いの血”はこの世の礎が築かれる前から存在している!と言う神が伝える永遠の事実を無視しているから見えないだけなのです。しかもエルサレムの神殿でコバン=動物を捧げる事が出来た人は全人類の中のほんの一握りの人でしか無いのです。
エルサレム神殿周辺に住んでいる人、もしくは祭りの時に都上りで徒歩でエルサレムに行けた極少数の限られたユダヤ人や異邦人のみ。0.000000001%にしか満たない人しか与えられない、一時的な仮の許し?そんな教えは聖書には記されてなどいません。
福音に原始版も進化も変化も無いのです。福音、救い=イエシュアを通して新しくされる意味を神の言葉〜トラーから理解していた人=残りの民、理解していない人=霊的な目が塞がれていた人達の違いがあるだけなのです。救いはどの時代もどの人種もアクセス制限、有効期限、開始日時限定など無いのです。
聖書に書かれている内容は時系列ではなく、永遠から永遠の中に行ったり来たり事実が語られている内容でもあります。
西洋哲学=時系列上に肉の目から考える場合には、永遠の中から
完了の業を語られている神の教えは見えてきませんし理解も出来なくなってしまいます。だから、異邦人の世界では2000年前に初めて救いが有効になったなどと言うイスラエルの神が語る
聖書の世界とは全く違う別の次元の話を編み出し続け語り続けているのです。福音は救いの方法は初めから1つで同じであり、
最初から有効であり、それは神の救いの業、完了の業は永遠の中に全てが完了、完結、終了しているからです。神が全ての業を
6日の間で完全に終えたから第7日目に止まった!と言う一言にも凝縮されているのです。付け足す業何も無し!になった、完全無欠の状態が出現したからです。太古から語られた同じ福音と書いてある通りです。預言者を通して同じイエシュア、同じ福音が語られ、モーセの五書、預言書に諸書に書いてある同じ福音同じイエシュアが終わりの時代に実際に書いてある通りに地上に証拠として肉体を取って現れ出て下さった。聖書に書いてある通りの内容を現実に証拠として見せて下さった。救いの中身の実態は
何も変わらない。神は永遠から永遠に存在しイエシュアは神で
あり、何の変化移りゆく影もないからです。
聖書を読んで行くと、同じ出来事が並行して書かれている事に気が付くと思います。内容がコンパクトにまとめられています。
それは広い敷地土地がないので、狭い土地に上へ上へと建物が建てられて行くのと似ています。DNAの様にぎゅっと凝縮されているのです。それを紐解いて行くとどこまでも永遠に繋がる神の
教えになっている事に気が付くのです。だから同じ箇所を読んでも以前には全く気が付かなかった事を新しく気が付いたりするのです。
創造の最初のナレーション。そしてノアの洪水の一連の出来事も創造の最初を繰り返す内容と重なり記されています。
そして、親が行なったズレ=罪を子も同じように繰り返している
同じ性質、内容の事件などが並行して書かれています。繰り返し繰り返し同じ教え知恵、訓戒を教え続けているのです。
創世記12章でアヴラムがエジプトのパロに妻サライを妹だと
言った事と、イサクが26章で同じく妻リベカをペリシテ人の王アビメレクに、自分の妹だと偽った事など親が犯した罪と全く同じ性質の出来事が記されています。親の罪を子も同じく学習し繰り返している。人は周りの罪、ズレをもれなく見聞きし学習してしまうものです。
人は戸口に忍び寄る罪を収めない限り、周りが犯すズレを同じ様に影響を受け自分の内側に取り込み学習してしまう。今の世界の様に自分の思考、好みで生き方を選ぶ、神のデザインされた婚姻を破壊すると言うその様な罪は、確実に社会を滅ぼして行くものなのです。その様なズレた生き方は第一に命が生み出されないものだからです。物理的にも霊的にも死を意味するものです。
ローマ帝国が滅びたのも同性愛が大きな要因でした。
人の生まれつきの考え、肉の目からでは神が何を重要視し大事にし人に教えているのかと言う事は理解出来ないものですが、
神の言葉=教えに忠実に立って神の言う意味を捉えると神が人に
伝える内容は100%どれも”イエシュア”そのものであり、どの箇所も人が捨てたり無効に出来ないものである事に気が付けます。
神の言葉は全部揃ってワンセット=エハッド=一体です。
人も神の言葉で造られ肉体も精神も霊的にもどの部分も削除付け足し不可能であるのと同様、神の言葉は人が切り張り出来る様な
性質ではないからです。
DNAのどの箇所を破損してもオリジナルのデザインが正確に現れ出て来ないのと同じ事なのです。
神はどうしてそれほどまでに神の創造された”わたしの定めの祭り”=記念日=モアデイム=季節と訳されている神の指定した特別な記念日を代々永遠にガードし祝い重視し生きよと言われたのでしょう?
神の記念日は100%全て福音の中心、イエシュアそのものであり、イエシュアがされた業であり、預言的祭りでもあるからです。そしてそれらは神と人とが関係の中に存在する”印”である
記念日と神が説明しています。
人は神の創造された暦の中を生きて、神が創造した神の定めの時祭りを生きて、イエシュアを通して贖われた人、新しくされた人をどう生きて成長し、新しい人の現実を再所有し続ける旅路を
地上で生きるのか、神の記念日を通して教えているからです。
新しくされた人として成長するには、神の暦の中、神が特別に
自分特注にデザインされたレッスンプランを神からキャッチし
その中で教えられる事にはっきり気が付き、自分がその問題と
向き合い対処する事、それがなくては成長はないからです。
私は以前、救われたら自動的に聖霊により自分の中身が変化するのだと教えられてそう考えていましたが、聖書にはそんな事など書かれていません。しかもパワーのすごい聖霊を得た人は自動的に色々変化すると本気で信じていました。人によりレベルの違う
聖霊が存在すると言う考えたら非聖書的な人の作り話を信じて
いました。
神は唯一でありどの名で呼ぼうと同じ神=同じ聖霊=エハッド=
一つ以上で全く同一一体の神しか存在しないのです。人により
内容が違うイスラエルの神=聖霊など存在しない。ガソリンの量や濃度とは違うのです。聖霊に満たされるとは神の支配の中に
完全に入る!バプテゾー=浸される=神とぴったり同一になると言う意味で書かれているのです。だから神の言葉=声を聞かないならそれは自分が自分を支配し神に支配されている=聖霊に満たされている状態ではないと言うのはシンプルで単純な事実なのです。
新しくされている事実〜完了の業はイエシュアが一方的に成し遂げて下さる以外に方法がないものです。
でも新しくされた人は、新しくされた後新しくされた事実=神の
似姿、性質に沿った生き方に軌道修正し生きて実践し練習し続け
成長する事が聖書には書かれているのです。
その部分を無視、端折れば成長も変化も望めないのです。
どんな世界でもある分野を習得しようとすれば、皆鍛錬を積み
訓練され、そして熟練して行く、それがプロの世界です。
主にある成人として成長すると言うのも同じ事なのです。
成人として成長するのにプロセス、過程があるのです。
主の性質=神の似姿を実際に生きて身につけるのか付けないのか
その部分は全く素通りされて語られる事は少ない。
練習する人は上達して行く。練習を怠る人は上達しない。
簡単に理解出来る世界です。新しくされた人を自覚し神の教え
性質を生きることに徹すると決めて生きる人は成長するのです。
でも聖書にはそれが書いてあるのです。
自動的に自分が変化するなどと言う教えは聖書の教えとは全く違います。あり得ないでしょう。スポーツでも料理でもどんな事でも、やり方が書いてある教科書を読んだら上手になる、技術取得出来るなんてあり得ないでしょう。実際にやってみて初めて自分のものになって行くからです。そんな当たり前の事を当たり前に考えられなくなるのが宗教の教えの世界なのです。
この部分は自分の意思決定で生きる以外誰も他者や神さえも
自分の頭脳を操りコントロールする事など出来ないからです。
神は人に選択権を与えています。神は人の頭脳をリモコン操作などしないからです。
自分の頭脳は自分で意識的に変える。詰まり主と共に死んだ自分は葬られて、新しい命に移行したけれど、その新しい命を生きる旅路に実際に自分が参加して生きない限り新しい人としての変化などあり得ない!望めないと言う事をパウロもずっと話しているのに気が付くべきだと思います。
その深い内容がモーセの五書に書かれているのであり、40年の荒野で神の声を聞く訓練に失敗した最初の世代は全て荒野で死に絶えたと言う厳しい結末があるのです。
どうしてでしょう?神の目から見る事を学習しないままだったからです。
続く