わたしの定めの祭り | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記 1:14 

神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分けしるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

 

2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

 

レビ記23:1 主はまたモーセに言われた、

 23:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、

ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。

これらはわたしの定めの祭である。

23:3 六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の

安息日である。

 

聖書の至る所に神の記念日〜定めの祭りが記されています。

そしてこれらがどれほど重要なものであるのか、神ご自身の口か直接人に伝えています。

イスラエル〜イスラエルの神の子らの苗字=代表である家族の名です。イエシュアに連なる人は異邦人だろうが宦官だろうが、

人種性別職業立場問わず、誰でも同じイスラエルの神の婚姻契約に加えられた人であると聖書には書かれているのです。

それをパウロはエペソ2章で分かりやすく解説しています。

イスラエルと聞いて、自分は日本人だから関係無いと言うなら

あなたはイエシュア=ユダ族出身である救い主と何も関係のない事になります。神との関係にある証拠はシナイ山で与えられた契約だけを元に証明されるものだからです。それ以外神と繋がっている事実を証明するものは無いからです。神の家に連なる人は神が提示する生き方に賛同する事を表明した人のみで構成される、それがイスラエルの神の本物の家族だからです。

 

私は14年前まで、聖書を読みながら目の前に書いてあるのに、

書いてある意味を知らないままただただ読んでいました。

と言うのは、聖書に書かれているのは、福音書以降は別の教えであると信じ込み、そして福音書以降にシャバット=安息日と書いてあればその意味は、自分が体験していたクリスチャンの日曜礼拝なのであると勝手に解釈し、祭りとか、過越、仮庵と言う言葉を読んでも一体何を意味するのかも全く分からないまま、又その記述に何の関心も湧かず、ただ本当に字面を読んでいただけでした。

聖書に書いてある重要な事に関して何も考えていなかった。

キリストは罪のために死なれて、自分は許された、このあたりの教えばかりを強調されるだけで、それ以外の事を深く学んだり

聞いたりすることもなかったのです。ましてや今の様にヘブライ語で書かれた聖書の中身について知る術もなかったからです。

でも言語の意味を知れば、もっと深く理解出来ると言う事は分かってはいましたが、その中核を、核心に届く教えを教えてくれる教師がいない、聖書の中身をヘブライ語で紐解ける知識のある人がいない、誰も周りに私が知りたいと思う事を教えてくれる人がいなかったのです。それが現状でした。

過越って何?仮庵って何?安息日て何?

モーセと書いてあってもそれらがトラー=モーセの五書、

父の教え=聖書の中心、土台、全ての教えが網羅されている書であるなどとも考えもしませんでした。何も分からないまま、途切れ途切れに、人の話を聞きかじる様な中途半端な学び。

何年経っても神の教えや言葉に対して何も理解の進歩も大した

変化も無し。自分流や人が解説する自己流の教えばかりを聞いて

いました。詰まり聖書を利用して作り出した誰かの教え。

 

西洋宗教の教えだけを普通に聞いていただけなので、それらの

教えが聖書であると疑いもなく考えていたのですが、聖書に書いてある聖書とはどの箇所でもそれらはモーセの五書、預言書、

諸書のみを指して語っているのであり、福音書以降も100%

聖書の部分と一点一画面どの言葉もどの内容も、どのコンセプトもどの概念も相反する教えなど書かれておらず、100%モーセの五書の短い解説であると言う事実にさえ気がつかずに読んでいました。

しかも、イエシュアが解説している内容は、100%モーセの五書であるなどと夢にもつゆにも思わず、イエシュアは新しい教え

を唱えて人を縛り付ける呪いの律法から解放する新しい教えを人に伝えていたのだ〜などと言う異邦人創作の教えを信じていました。

さて、聖書に書かれている意味だけに戻り聖書を読み直せばそこに書いてあるのは100%古代ヘブライの”父の教え”=トラー、モーセの五書に記された創造主が造られた創造主のDNA=似姿

そっくりの人間がいかに生きるのか?が書かれたものです。

 

これから一年の終わり、締めくくりになる秋の祭りがやって来ます。神の定めの祭りはとても重要なものであり、イエシュアに連なる神の民の”印”でもある祭りなのです。イエシュアや聖書に登場する人達は異邦人含め何を祝っていたか自分の目で確かめて

聖書を読むべきです。今年2022年は9月25日日曜日が

シャファーを鳴らす日になります。神の創造された記念日は全て預言的祭りです。この事実に気がついていますか?私達はイエシュアの再臨を神の祭りを祝う事で準備させられているのです。

全てリハーサルです。だから不意打ちはないのです。

 

同時にこの時から新しい農業の時期がスタートする季節でも

あります。イスラエルではこの時を”ローシュハシャナ”と呼びます。ローシュ=かしら、頭、ハ=The シャナ=年です。

 

この間イスラエルで3年ぶりにヘブライ語の暦を買いました。

イスラエルは9月から暦が始まります。他の国は普通1月ですが

秋を新しい年、新し農作業の開始時期、新しい年として又は

次の1年モーセの五書を読む新しいサイクルに入るスタートとして考えているのです。もちろん聖書の暦は春が第一の月です。

面白いですね。秋の仮庵が一年の最後の祭りであり、新しいサイクルが始まるのです。

神の記念日は全部イエシュアの業を表す預言的祭りなのです。

私はこの事実に実際に祭りを準備し祝い始めて実践し続けて行く中で初めて気が付きました。祭りの意味と実際に準備し祝う中ではっきりと神が教えている内容を学習出来る様に神がデザインしているからです。

祭りに使われる様々なもの、食べ物、その他諸々、全て福音の

中心を教えるものなのです。そして仲間が多ければ多いほど、

準備の中で学ぶ事も多くなるのです。

そして毎年毎年様々な事を教えられ続けて行く。

それが神のデザインした祭りの醍醐味なのです。

それは実際に自分でシャバット、そして過越や仮庵を祝い初めて

やっと徐々に徐々にその祭りの意味、どうしてその祭りがあるのか?永遠の続く深さ広さ、福音の中心である事を知って行ったからです。それは毎年毎年繰り返す中で理解が深くなって行く。

誰でも実は理解出来るものなのです。

でもやらない人には何がなんだか見えない世界なのです。

 

実践の無い信仰は虚しいです。聖書の世界は全て動詞、行動の

世界だからです。神は思想や哲学を人に伝えているのではなく、

実際に新しい人=イエシュアの復活の命に授かった人達が神の

実態を日々の中で実際に生きる事で本来の自分を生きる実習、

習得をして行く事を教えているからです。神の教えは思想ではなく、全て日々の生きる事、行動に直結するものなのです。

そして神の定めの祭りシャバットや、祭りはとても重要な福音の

中心なのです。

最初に神が聖別を人に教えたのは、神の時=シャバットを通してです。神が7日目に止まられた、神が6日の間創造の業をして

その作業を終え止まったから第七日目に人も止まる。この事実を

人がどんなに捻じ曲げても変える事は出来ない事実です。

神がされた通り、人は神がされたと同じ様に生きよ!人は神の

性質に似せて造られたからと神が人に伝えているのです。WWJDと唱える人は、唱える意味と実態=行動を一致させなければならないのです。

人の教えに沿った自分よがりのWWJDは神の前には全く意味のないものであり、それこそが神の教えではなく宗教の教えを生きると言う事だからです。本当に意味がない。

主を信じてま〜すと口先で言うだけで、実は何もイエシュアが

伝える命の実態を生きてません〜と言うならば、それは虚しい、

画餅の嘘ものの生き方になってしまいます。

どうして人は神の言葉を退けて、それぞれが思う所を今勝手に生きて良い時代になったのか?それが本当の自由なのだと考えているのでしょう?今の世界が伝える自由の定義とそっくり同じです。自分の思考、趣味、傾向にあった好きな生き方=自由。

でも神が伝える自由は、罪に縛られない、神の義を生きれる本物の自由の事を人に教えているのです。自分の好きな様に好きに選択して生きる、それならそこらへんの新興宗教と全く同じです。

 

異邦人の世界は思想、西洋哲学を強調する世界ですが、聖書の

世界は”あなたは何を生きていますか?”がその人の行動で示されカウントされるのみの世界なのです。イスラエルの神の性質を

生きるのか?神を愛すると言うことは神が伝える生き方を喜んで選択し実際に生きる!神の言葉を退けて生きる!それが神を愛する事であるなんて世界は聖書には書かれていない世界なのです。

でも異邦人の世界では神の言葉を退けよ!と言う非聖書的な教えを教え続けているのです。とても破壊的で恐ろしい教えです。

直接には聖書は神の言葉と信じますと言いながら、実際の取り扱いは全く違うのです。

神の言葉をないがしろにする、捨てる、無用と教える、そして

聖書など学ばない、読まない、聖書に何が書いてあるのかさえ

知らない。その教えはどこから出たのですか?

エデンの園の蛇の口からです。

聖書の最初の部分=呪いの律法と教えられれば、それら律法に敵対するのは良いことだ!と考えていました。

でも無知な私はその最初の部分に何が書かれているのか本当に

分からなかった。不思議なトリックです。教師を選びたくても

選ぶ事が出来る?なんて事さえ気がつかず、いやどこにその様な教師がいるのかも知らなかった。皆教師なら正しい教えをしているのだろうと疑いもせず信じてましたが、蓋を開けたら、聖書に書かれている本当の意味を言語から知るだけで、どれほど宗教=人の教え教理や神学で神の言葉の真実が塗りつぶされてしまった教えを聞いてきたのか、はっきりくっきり明確に見えて来るのです。

翻訳では見えない、いや翻訳でも神の言葉は永遠不変と書いてあるのに!どうしてその事実が見えないのだろうと言う盲目の世界なのです。

だから盲人が盲人を手引きなど出来ないと言うのはそう言う事

なのです。一緒に穴に落ちていても落ちているとも気が付かないからです。

正しい導き手が必要なのです。それは聖霊!と言うならば、

それだけでは無理があります。あなたが外国語を学ぶ時に教師、手引き辞書、様々な資料が必要なのと同じく、聖書に書いてある事を書いてある通りに知るには書いてある通りを知る教師が紐解いて教えてくれる事がまず必要なのです。聖書に書いてある意味通りを知り、始めてそこから真実が永遠に広がって行くからです。聖書とは違うことを教えられたら、神が伝える真実には決して繋がっては行かないからです。

とにかく神の言葉を否定する思想を持つ人に学べば、その様な

永遠不変と神が伝える神の言葉とは違う、不真実で曲がった教えを自分の頭脳の中に取り入れ刷り込み継承してしまうのです。

 

 

続く