異邦人の世界の一般的な宗教の教え〜福音書以降には聖書の最初の70%とは違う新しい教えや新しい記念日、聖書の最初に書かれているものとは違うものが書いてあるという錯覚誤解をして
聖書を読んでいるのではないでしょうか?
自分の目ではっきりと1つ1つ確かめながら聖書には何が書いてあるのかを確認して読む事をしないとならないのです。
聖書に書いてある神の教えは100%モーセの五書に基づくもの
であり、福音書以降、使徒2章以降、パウロが書いた書簡の中にも、諸外国で教えていた内容も100%モーセの五書であり、
彼らが祝っていた”神の定めの祭り”はシャバット、新月、春と
秋の祭り、過越、仮庵の祭りである事がはっきり記されているのです。
聖書にはクリスチャンの世界で教えられる様な西洋宗教が創作した教えや実践は実は1つも記されてはいないのです。
自分の宗教体験、西洋宗教の教えを元に考えると1世紀の人達は
昇天以降皆十字架のネックレスを身に付け、キリスト教会と言う建物に日曜日に集い献金を席上で集め、ロックバンドやコワイヤでプレイズを歌い、モーセの五書とは違う教えを聞いていたと考えていませんか?
1世紀の人達は昇天以降もイエシュア信者もそうでない人達も
ユダヤ人の会堂にシャバットに集い他の人達と共にモーセの五書、預言書を朗読していたのです。その事実は使徒以降にも記述されているから聖書の中で確認出来ます。使徒13:14,27,42,44,
15:21,16:13,17:2, 18:4 コロサイ18:4, ヘブル4:9
1世紀の人達はほぼほぼ100%のイエシュア信者はユダヤ人
でした。彼らユダヤ人信者達が身につけていたのはタリート、家の戸口にはメズサを付け、シャバットや祭りを祝い、男の子が生まれればアヴラハムの割礼を授け、エルサレムの神殿に詣でていた。モーセの五書に書かれた神の教えを変わらずに生きていた事が福音書以降には書かれているのです。パウロも同様に神殿が彼の生活、信仰、教え、教育の拠点であり、パウロのエルサレムのパリサイ派の拠点に、諸外国の信者達から様々な質問状が寄せられていたのです。それら質問状に対するパウロの回答がパウロの
書簡として保存され、それらが聖書として認定されたのです。
それが1世紀当時のパリサイ派の教育方法であり、手紙で遠方に居る教師にトラーの知恵、日々の生き方の質問をし教えを求めた、それが当時のパリサイ派の教育であったのです。もちろん会いに行ける距離に住む人は直接パウロに会いに行ったのです。
聖書には、西洋宗教の日曜日礼拝や、クリスマスやイースターを祝っている記録など1つもなく、モーセの五書とは違う教えなども無いのです。ましてや神の言葉が破棄された、無効になった、意味が無くなったなどの教えも誰一人唱えないし、教えられもしないし、聖書にはその様な教えは一切書いていないのです。それどころか神の言葉に人が一点一画でも手を付ける差し引く事をする場合にはどんな刈り取る結末があると警告がされているのか、聖書を読めば分かると思います。申命記4:2、12:32、
箴言30:5−6、黙示録22:18-19,
空想の世界=自分の体験の西洋宗教の教えと、聖書に記述されている内容が異なる!と言う事実をまず捉え把握し理解してみれば
良いのです。
永遠不変の神の言葉の事実のみから聖書を読み直してみれば良いのです。伝統の教え=宗教の教えに染まって考えてしまうと聖書に書いてある事実が目の前に書いてあっても事実が覆い隠されてしまい、聖書に書いてある通りに読み取れなくなってしまっているのです。聖書には安息日=第七日目=神が第七日目に止まられたからその日がシャバットであると書いてあるのを、日曜礼拝と変換し読み間違えそう結論づけているのは、その様に初めから
異邦人の世界では聖書の記述をいとも簡単に人の教えで曲げて
読み続けているからである!と言う重大問題にまず気がつくべきなのです。
聖書に書いてもない事を、聖書の記述を注意深く確認もしないまま、あたかも神が神の言葉を変えた様に語り続ける教えに対し
多大に違和感覚え、異議申し立てしたいのです。なぜならそれは聖書に書かれている真実ではないからです。そして不真実な発言はイスラエルの神に対する偽証であり冒涜であり、他者に対して間違った情報=偽のイスラエルの神像を発信し続けている行為だからです。
小学生でも教科書に書いてない事をあたかも書いてある様に勝手に読み変えて良いと学校で教師にそう教えられているのでしょうか?書いていない言葉を書いてあるが如くに読めば誰かその間違いをはっきりと指摘するのではないでしょうか?聖書に書いてあるけれど、こう読み変える、読み直すと教えるのは西洋宗教の教えの世界だけだと思います。
当然の事、基本的事実をまるで無視する教えの世界なのです。
西洋宗教の教えを知らない人が、聖書を書いてある通りにそのまま読めば安息日は第七日目と記されている事は説明しなくても
書いてあるので理解出来るのです。彼ら聖書に登場する人達が
祝っている祭りはシャバット、新月、過越であり、仮庵である事は内容を知らなくてもそうはっきりと聖書には書いてあるから
そうであると認識出来るはずなのです。異邦人の世界で1900年近く起きている問題は聖書に書いてある事実記述を完全に無視して聖書に書いていない事=人の教えを主張し続けている事!と言う不思議なトリックに引っかかっている事に気が付か無いまま
集団トリックにかかっている事なのです。
神が創造された記念日は全てイエシュアを表すものであり、
神の言葉はどの部分も全てイエシュアのDNAであり、イエシュアの業を表すものであり、地上で実現する預言的祭りを網羅するものでもあるのです。
イエシュアが処刑されるずっと以前、出エジプトの出来事を読んでも、その出来事の意味はイエシュアの業、贖いの業、それらが”過越”の祭りで表されずっと祝い続けられて来て、エジプトから贖い出された事実を覚えて皆で祝う祭りである事を理解出来ると思います。
屠られた子羊とは、エジプトの鴨居に塗った子羊の血であり、
それはイエシュアの永遠の中からある贖いの血である事を表しているものなのです。同じ実態、同じ真理。天にある見えない現実
を地上で表す影であるからです。
イスラエルの神の暦は、神の祭りで司られものなのです。
季節=神の定めの日、モアデイム=祭りです。
春、第一の月の15日、この日が過越です。これが一年の最初の
神の祭であり、それ以前に週の第七日目を祝い続け神の祭に繋がると言う神がデザインされ創造された定めの日なのです。
イスラエルはエジプトで必要以上に長く滞在し、ヨセフ亡き後、奴隷としてイスラエルはエジプトに住み続けてしまいました。
エジプトはイスラエルの住まう場所では無いのです。
なぜ?そこではまことの神=創造主に繋がり生きる事が困難な場所だったからです。エジプトと言う地名は、ミツライム。
狭い、苦しい、悲しみなどと言う意味を持つ言葉です。奴隷として、本物の神=創造主に仕える事が出来ない、本物の自分を生きられない、神の定めの記念日も祝えない、偽物の神々と偽の主人=エジプトの王に仕えて生きていたのです。
私達一人一人の人生も実際にエジプトと言う古代の地に住んでは
いないけれど、エジプトで表される”奴隷状態”罪の奴隷、この世の価値観の奴隷、本物の創造主=イスラエルの神を知らないと
言う状態は全く同じ奴隷であったと言うのと同じ事なのです。
スタートは過越!贖い出され救われた人はもれなく個人個人が
人生の中の”過越”の祭りを通過しているのです。
奴隷であった人達が”イエシュア”子羊の血で買い取られ贖われた
事実は子羊の血で表そうが実際にイエシュアの処刑で表そうが
実態中身は同じ事実を人に教えているのです。
贖い〜代価を払い買取る事です。奴隷従属していた偽の主人へ
代価が払われ、所有者が移行する事、それが贖いです。
この代価は奴隷自身は支払う事の出来ないものです。
これは一方的に神が与えているものであり、人は自分の努力や能力により贖いを手に入れる事は出来ないのです。だから行いで義とされると言う考えは、贖いの性質に全くそぐわない教えであることは理解出来るでしょう。人は贖いの事実をただ神から受け取るだけ、それが信仰により義とされた事実であるのです。
この一連の贖い、そして罪からの救いは過越の祭の一連の出来事で教えられているのです。実際に出エジプト、紅海を神が割って
イスラエルと異邦人を安全に逃れさせた歴史の事実の中で、
水を潜り贖い出され救い出された事実を教えているのです。
この出来事は近隣諸国に知れ渡る事になるのです。神は贖いの業
婚姻契約を与える儀式をひっそりと暗闇で行いませんでした。
天と地を証人に世界へ同じ福音を伝えるため歴史上でも皆が知る
重大イベントとしてこの預言的祭り、出来事を行なっているのです。
聖書の暦の第一の月の15日が”過越の祭”の始まりの日です。
過越の祭の時にイエシュアが処刑された事など、私は聖書を読んでいても点と点が繋がらず以前はピンと来ませんでした。過越に処刑された事と、出エジプトの過越、鴨居に塗られた子羊の血、全部同じ意味であるなどと言う事は分かった様でまるで理解していませんでした。
なぜなら過越の祭の意味を知らないし教えられもしなかったからです。神の祭りは預言的祭りであり、地上でも全て現実に成就するものでもあると言う事さえも見えないままでした。
もちろん過越の祭など一度も祝った事もなかったからです。
神の教えは実際に生きて参加して学ぶものなのです。思想や概念を学ぶのではなく、全て実際に生きる事で学ぶのです。
異邦人クリスチャンの中で過越の祭の意味を知っていた、実際に祝ってもいると言う方がどれくらいいるのでしょう?
イースターやクリスマスは世界中のどの人も知っています。異教徒でもそれらを祝います。でも、イスラエルの神のオリジナルの定めの日=記念日、祭りなどクリスチャンでさえ、学ばない、
聞いたことも見たことも実際に祝ったこともない。イエシュアが地上にこられた時祝われていたのは、宗教の記念日ではなく、
イスラエルの神の”定めの日”=祭りなのです。
聖書に書いてある事を実践しない、それが異邦人の教えの世界です。宗教文化を伝統で継承しているのでそれが聖書の教えだと
思っているのですが、1世紀、それ以前聖書の登場する人達は、
モーセの五書に書かれた教えを生きてそして神の定めの祭りを
祝っていたのです。誰一人西洋宗教文化伝統の儀式や行事は
行なっていませんでした。
1世紀聖書に登場する人達が十字架を身につけ、クリスマスリースやツリーで家を飾り付けをし、そしてイースターにはイースターエッグを作り、イースターエッグハンテイングをし、パイナップルの乗ったポークハムローストを料理して食べたなんて言うのは聖書の教えの中に無い世界なのです。
全ては異邦人の宗教文化の世界を考えているだけなのです。