神の永遠不変の言葉を理解するために | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

海外では養子を家庭に迎える事は至極一般的な事であり、その行為に何の闇、影も無い、養子に来た子供にも年齢に応じて自分がどこから来て誰の子でどうしてその家の子供になったのかと言う事を包み隠さず話すのも一般的です。

しかも白人家庭にアジア人の子供が居たり、髪の色や肌の色が

違う子をもらったりするので、養子である事は見た目にも直ぐに

分かります。

日本では養子縁組の事実をその子供にも周囲にもひた隠しにすると言う様な養子縁組は暗いもの、人に知らせたく無いものと言う意識が以前にはありました。現在では日本でも大分その様な意識は変わったのではないかと思います。

 

日本でもよくある話ですが、養子として来た自分がある時その家の子供ではなかったと知る事があります。自分の戸籍謄本を見たりする機会に遭遇する時です。本当の親は誰なのだろう?と自分の実の生みの親を探す旅路を通る人達が居る事をドキュメンタリーを見て知ります。全くの事実を知らされないで真実を知る場合には、混乱するでしょう。

自分は誰?自分の親は誰?どこから来たの?と自分のルーツを

真剣に考え始める。

その様な感情と同じく、ヘブライ語オリジナル原典聖書に書かれた内容は、生粋の100%モーセの五書=神の永遠不変の言葉

教えであった!!!と言う神が主張し教えている当然で当たり前である事実を聖書の記述に基づき初めて知った後、”本当の親探し”の旅に出る人の気持ちと全く同じになりました。

”何が本当?本当の親の実態はどんなお方?”と言う気持ちです。

でももう真実は分かった!神が伝える永遠不変の言葉は、人が

主張する、変化する教え、変化する神ではなかったのだ!と言う

確信の根拠は神の言葉に明らかであり、何を探り続ければ良いのか手掛かりが最初から与えられているからです。聖書=トラー、預言書、諸書、それに付随する福音書〜黙示録は100%モーセの五書を土台として書かれているものである!と言う永遠不変の事実があるからです。

求めよ!そうすれば与えられる。探し続けよ!そうすれば見つかる!神の言葉を探求し続けよ!と神が伝えている、神の言葉を知る=神ご自身の実態に遭遇する、対面する体験する事だからです。

それは人がどんなにうまく解説しようとも、神の永遠不変の

真実な言葉を覆す事など出来ないからです。オセロのコマのピースの様に、ほぼ黒で埋められていると思われる事が最後には全部白にひっくり返ると言うことが起きる。最後は全て正しい位置、正しいものとして認識され現れ出ると言う事が起きるからです。

 

永遠不変の真実な答えは”神の言葉”の中にあるから、親探しをする人達、個人戸籍、出生記録に関する役所に保管されている情報は開示出来ませんと言われ真実を知る事を阻まれる様な事は無いのです。

神が人に真実を伝える為に口頭だけではなく、文字として人に

神の言葉=トラー=契約=教え、インストラクションを与えたのです。そして永遠不変の証明、神が伝える救い贖いが天の中で

永遠の中に完了しているけれど、言葉だけではなく証拠として

人類に証明するために実際にイエシュアが地上に来られたのです。

しかも神と人の関係はこの”契約書”を土台として成立し

そして保証され守られているものなのに、それを人間が改ざんし

手をつける様な行為が神の前に愚かであり自分に対して危害を加えるものであると言うことはクリアーな意識で考えれば理解出来る事なのです。神の与えて下さった婚姻契約を捨てる、破る、削除する行為は、婚姻証明書を破棄する、破る、捨てる、婚姻の

実態、中身を生きる事を無視し、放棄する行為である!と言う

事実があるのです。神の提示する婚姻関係を生きる事を無視したイスラエルに対して、裏切り、不貞、姦淫したと神が言及しているのです。婚姻関係の実態を生きる事を無視する、その行為を

異邦人の世界では1世紀後半から、推奨し、違う教えに変えて

別物に変化したもの、西洋人が作った宗教の教えに変えてしまったのです。

”蛇の声”は神の言葉、教えを破壊せよ〜と最初から言っているのです。どうしてでしょう?そうすれば人を破壊出来る、神との

親しい顔と顔を合わせる本物の関係、実態、実質から引き離す事が出来るからです。だから宗教的な要素を生きる場合に、主よ主よと言いながら、遠く遠く隔たりを感じている、放蕩息子の兄の様に冷たい関係を感じている場合が多くあるものです。

それは神の中に神の言われる通りに留まる事が何か見えない、

それは神の伝えている意味を理解していないから、親しい実態に入る関係にどう入ったらよいのか分からないからです。

神の言う意味が分かれば、そんなに難しいものではないのです。

 

昨日シャバットの学び交わりの中である人が質問しました。

昨日の箇所はイスラエルの”憲法”に匹敵する内容が書いてある

箇所を申命記から読んだからです。16章〜21章。

そして、アメリカも建国時は神の教えを土台とした国を建設しようとしたのではないのですか?と言う質問がありました。

それぞれの国は、それぞれの都合や人の利益でルールを作る、

自分達の都合の良い様な教え、ルールを付け足すものです。

神の前に神の言う通りに正しく生きたいと願う人達も、もちろん

存在していたのですが、神の教えのどの箇所でも曲げるならその行く末は今の様な状態になったと言う事なのです。

そして中途半端な教えを中途半端に悔い改めるから見えない。

悔い改めとは100%神の言葉に戻り生きる行為だからです。

宗教や人の教えに戻ったら何の意味も無い悔い改めになってしまいます。何を生きたら良いのか分からない、気持ちは神に向いても、実際には何をどう生きたら良いのか?神の言葉に照らし合わせて軌道修正しないなら、それは可能では無い。

軌道修正〜神の言葉を否定する教えに照らし合わせたら、

神の求める本物の軌道修正はできないからです。

 

おぞまし過ぎて余り書けない内容ですが、その様に神の教えを

改ざんする教えが人の中に常に入り込み続け、彼の国は偶像礼拝の一途をたどっているのです。

もちろんその中に残りの民は居ますが少数派です。

モレク神に自分の子供を捧げている、偶像礼拝の真髄です。

神の為に犠牲になると言う意識、その究極は自分の一番大事なもの命に匹敵するものを神の前に差し出す、捧げる事です。

この意味を正しく理解する必要があるのです。神の前に全てを

捨てます〜捧げます〜と言う教えは麗しく聞こえるようで、

偶像礼拝の真髄だからです。神が与えられた命をフルに生きる!

それが本物の生き方であると聖書には書かれているのです。

一番大事なものを犠牲にする事、そがまさに偶像礼拝の性質なのです。そして子供達の人身売買、おぞましい性犯罪に利用されてしまう。これら全てモーセの五書に警告されている内容です。

以前から同じであった、世界は腐敗している。それらがあからさまに見えなかっただけなのです。上にある権威が腐敗している。

それは、1世紀当時の神殿に仕える大祭司も同じだったのです。ローマと祭司が結託し、人からお金を搾取する甘い汁を吸い、

大祭司が贅沢極まりない豪華絢爛な豪邸に住んでいた。今の時に起きている事、聞き覚えのある内容です。神の家が強盗の巣と

なっていた!とイエシュアがある時怒り爆発でそれらの腐敗を

叩いた下りがあります。

ブロックのピースが1つ外れるとそこから徐々に確実に崩れて

行くのです。神の言葉をどの部分でも否定し無視しないがしろにせよと言う教えは本当に危険である!と言う事に目覚めないとならないのです。イエシュアは神の教えの一点一画でもないがしろにする様に教える人は天の国で全く無意味で軽い存在になる!

と警告している言葉に注目しないとなりません。

モーセの五書終わりありきの空想思想神学を土台に考える場合には聖書に書いてある神の言葉は通じなくなるのです。

ラザロのたとえ話でイエシュアが警告した、モーセの五書を今

信じない人には、何を言っても決して通じない!超えられない壁隔たりが生じていると言う代償が付きまとうと警告しているからです。隔たり=神との関係の隔たりを表しているのです。

パウロが西洋宗教と言う新しい教えを教えた!と言う嘘偽りの

伝説の解説を全部削除し、パウロが何者なのか、パウロは何を

教えて生きていたのか?聖書に記された真実通り以外の聖書には記されていない伝統の教え、自分の考えなど他者へ決して伝えてはならないのです。

問題は聖書を語る場合に、それらが聖書の教えではない!と言う

事実に全く気が付いてないと言う事が大問題なのです。

 

ヘブライのヘブライ、パリサイの中のパリサイの子とパウロが

表現したその意味はモーセの五書を生粋に生きていると言う

パウロの表明である!とパウロの言葉からパウロが言った意味を

1世紀当時の人達が理解していた通りに読み取り、パウロの解説は100%モーセの五書に基づいたものであり、パウロのどの

言葉もモーセの五書を否定などしていない!と言う事実から読めば、パウロの語っている内容は見えて来ます。

その時にあたかもパウロがモーセの五書に反している内容に見える内容はこの様なものではないかと思います。”割礼”=改宗儀式に関して、又はパウロが日曜日礼拝をし、そこで献金を募っていたなどと誤解する箇所、イエシュアの語ってもいない言葉”全ての

食べ物はきよい”などと言った箇所やペテロの動物の幻を食規定が破棄されたと考えている事、割礼や食べ物の教え、そして異邦人の中で伝統で継承されている日曜日礼拝にシャバットや神の祭りが変更されたとされている、又は以前は動物の血で罪の許しがされ、昇天以降は完全版なるイエシュアの贖い=子羊の血で完了し、それまでの教えは仮で廃れたのだなどと考える。

そして神の古い箇所の教え=聖書の70%は終了したと言うそれらが異邦人信仰の中の土台、根底にあります。

でも神の言葉、神の口から出た教え=聖書の中にはそんな事は

1つも書かれていないと言う永遠の真実を聖書からはっきりと

確認していますか?もしくは、神の言葉が変化した証拠、事実が

聖書には書いてあるのでしょうか?と言う問いが残るのです。

日本人なら家に入ったら玄関で靴を脱ぐと言う事は当たり前で

疑わない行為でも外国人には分からないと言う事がある、

土足で家の中に入る事が普通な人達には、家の中に入る時には

靴を脱ぐと言う事を教えられなければ分からないのです。

それと同じ事が言えるのです。当たり前にそうであると考える事は、その文化、教えの中に居ない人達に取って理解出来ないと

言う事です。

現代の異邦人、日本人が聖書を読んでも、書いてある意味通りに読んでいないのは、翻訳であると言う事、書いてある言葉が何を意味しているかの情報が欠落している事、そして異邦人が作った教えに妨害されているからであり、そして自分の中にない遥か昔の古代の世界、2000年以上も前、それ以上前から語り継がれ教えられていた世界の文化、教えの情報、背景を知らないから

見えないだけなのです。

 

空想、仮説、人の教えと言う前提、自分の中にある考え、21世紀現代に語り継がれた異邦人の世界の伝統の教えや神学、仮説の前提、土台を通して聖書を先入観たっぷりで読んでしまうので、

書いてある内容を誤解し曲げて、聖書に書いてない意味に変換して読み続けているのです。そして、言語だけさらっと読んでも

そこに記されている言葉が表している深い意味や内容は空想だけでは見えないものです。だから聖書を正しく理解するには、

手引き=教師が必要とあるのです。

導き手が無くてはどの様に理解出来ようか?なのです。

だから普通はそれぞれの分野を学ぶために学校〜教師選びを

厳選してやっているのです。それと同じ事が言えるのです。

聖書だけは例外!聖霊に教えられれば何の情報も手引きも要らない!などと考えていたら、それは完全に的外れな思想なのです。

信仰を持つと一般常識が通じなくなると言われるのはそう言う事だと思います。もし聖霊に導かれれば聖書に書かれた言葉が分かると言うなら試しに何の手引きもなくヘブライ語、イタリア語、英語などの外国語を学んだらどうなるか実験したら良いと思います。

 

続く