1世紀の時代、イエシュアが来られた後も救い主がイエシュアで
ある事を認識出来ない人達も含めてすべて、その当時一番の問題にされていた点は、イエシュア信者であろうがなかろうが、
モーセの五書を生きているのかいないのか?が一番重要な関心事であったのです。パウロが使徒21章でかけられていた嫌疑は
神のトラー=モーセの五書に違反した教えをしているのではないか?と書かれている通りです。
そして、モーセの五書=神の教えを生きているのか?と言う問いの中でも、彼らが考える、彼ら1世紀当時のユダヤ人の間で
伝統的に語り継がれた”口頭トラー”の教え、ルールに沿って生きているのか、そうでないかが重大問題だったのです。
イエシュアと議論している人達は、彼らの伝統の教えや言い伝え
そして彼らのルールに則ったやり方に沿ってるのか、そうでは
ないか?が論点の中心であり議論が繰り広げられ、イエシュアが
モーセの五書=トラーに書かれた教えの真髄を直に語ったので、イエシュアの解説解釈が彼らユダヤ人達の当時の教え、解釈、
やり方とは違うのでイエシュアに対して大いに向っ腹が立ち、
この新参者の教師、イエシュアを救い主として認識出来ない人たちは、イエシュアを潰してやろうとまで考えたのです。
イエシュアを神であると認識しない、人間が神に対して神の言葉の権威を塗り替え挑戦している良い例が福音書に書かれているのです。それと同じく、神の言葉は終了、破棄、意味無いものになったなどと言う異邦人の主張もイエシュアと議論していたユダヤ人と全く同様な思考回路なのです。神の言葉に対して人間が物申す、神の言葉を判定し仕分けている、人間が神の永遠不変の言葉教えを塗り替えている冒涜行為に気が付いて聖書を読み直す。
現代でも同じなのです。既存の教え、伝統の教えや実践であるのかどうかだけが照らし合わせ判定の基準になってしまい、それが一番大事になっている。それらが、聖書に書いてある永遠の真実かどうか?などと聖書の事実から決して検証し考え確認する作業もない、余地も無い、宗教の世界の教えを巡り歩いてしまっているのです。
1世紀当時支持されていたトラーの解釈、生き方、それらが
純粋な神の言葉、教え=トラーとは異なる教えや解釈でも、伝統で長年定着した馴染みある教えをしない場合に、それが神の教え=トラーであっても違反、異物だとしたのです。
その様な下りが福音書にも書いてあります。
1 イエシュアの弟子たちがシャバットに畑に入って落ち穂を
拾った行為はシャバットを違反とした当時のユダ地方の人達。
でもユダ地域の人はその様に考えて実践したのですが、ガリラヤ湖周辺に住んでいる人達はシャバットでも畑に入って落ち穂を拾って食べると言う事を普通にしていたのです。その行為は神の教えに反するものではないからです。シャバットの真髄を理解しない人達が、するしない掟リストを編み出す。本末転倒の教えであるのです。この違いがわかれば事実が見えます。自分の住んでいる場所、所属するグループが実践している教えとは違う、
イコール神の教えに反していると考えてしまう思考回路です。
これは1世紀の人達ではなくても現代、今の時代の異邦人、自分の住んでいる所で、自分の集うグループとは異なる教えや実践をする場合に、それらの教え、実践が異物であると考えるのです。
もし自分の隣の家の人が1世紀の聖書に登場する信者達、イエシュアや使徒、パウロ達の様にトラーに書かれた教えを実践して生きていたら、その人達を古い終了した律法主義の教えに固執し恵みを捨てた律法主義者であると即座に判定しそう考えませんか?
聖書にそう書いてあるのにも関わらず、聖書にはモーセの五書を
生きた人達=聖徒、残りの民、イエシュアに属するものたちの
生き方しか書いてないのにも関わらず、福音書以降には別の教えが記されていると最初から誤解して聖書を読んでいるのです。
聖書には西洋宗教の教えや西洋宗教が作った記念日を祝っている記録は1つも記述などされていません。
トラー=父の言葉=神の教え、インストラクション=モーセの
五書が聖書に書かれた永遠不変の純粋な神の教えであるのにも
関わらず、異物と考えるているのです。その理由は聖書ではない西洋宗教、異邦人が創作した伝統の人間の教え、自分の中にある固定概念、先入観から全てを考えてしまっている代償なのです。
考えてみると分かると思います。例えば自分の家の隣近所に居るイエシュア信者は自分達をクリスチャンとは呼ばない。なぜならクリスチャン=西洋宗教の教えは、モーセの五書を生きる必要はない、実際に生きる必要無しと教え、聖書とは異なる教えの違う実践しているからである。トラーをイエシュアと同じ様に生きる
人達は、西洋宗教の教えを人に教えたり、実際に生きていない、実践などもしない。
彼らは純粋な神の言葉を聖書に書いてある通りに、イエシュアや弟子たち、1世紀当時の人達と同じ様に生きている人達は、西洋宗教の教え=神の言葉は廃れたと言う教えを神の言葉であるなどとは微塵にも考えていない、日曜礼拝やキリスト教会には参加せず、彼らは家庭で金曜日の日没にシャバットを迎える晩餐を祝い土曜日にはユダヤ人と共にヘブライ語のモーセの五書、預言書などを丹念に学んでいる。もちろん福音書以降も読み学ぶ。何で
彼らは廃れた教えとクリスチャンの世界で教えられている聖書の最初の箇所70%をそんなにまで熱心に読み学び続けるのか?
それらは廃れた教えなのに無駄な事ではないのかとさえ考える。彼らは古い律法に戻る恵みを捨てているのか?など考えいぶかしく思う。最近隣の家に男の子が生まれたので、アヴラハムの割礼=ブリットミラと言う儀式を行い、皆で祝宴をしていた。
アメリカでは割礼をするのは病院でするのが一般的であり、医療機関で割礼しても聖書の中にある教えの割礼と繋げて考えては
いない。
そして、レストランでは、鱗のない魚、甲殻類など、又はレビ記
11章に記されている人間の食べ物として造られていない動物は人間が食するものでは無いと神が伝えているのでそれらを彼らは食べない。エビたこイカ貝鰻なまこフグなど、それらを食べれない不自由な人達と考える。いや食べられる食べ物の方が断然多いのに。マグロ、サーモン、ヒラメ、タイ、カンパチ、鯖、アジ
イワシ、ホッケ、イクラ、鱗のある魚なら何でも食べられる。
ビーフもラムもチキンも、ビーフステーキ、ハンバーガー、
フライドチキン、北京ダックも食べられる。日本人でも犬、蛇、ネズミ、馬が食べられなくて不自由で気の毒などとは考えないのに。すべては自分の中にある固定概念生活習慣、食習慣、自分が基準とする考えで全てを考え判定しているだけ。
だから、アメリカでイースターの晩餐で定番のポークハムローストなど彼らは食さない。現代ではベジタリアンと誰かが言えば肉を食べないのだね〜と普通に受け入れられるのに、肉、魚の中で、神の言葉が教える通りのものだけを食べていると言えば、
どう言う訳か訝しく思い、偏見の色眼鏡でそれらの特殊な行動をする人達を見てしまう。
律法主義?ベジタリアンに対しては健康の為にやってるんだねと理解を示すのに、聖書=神の言葉、教えが伝える聖別の意味、
根幹を表す教え、食規定を生きる人に対してどうしても偏見の目窮屈な生き方をしている人なのだと判定してしまうのだろうか?
聖別の根幹を表す教えは食の中、神の記念日の意味の中で教えられているのに、神の言葉の意味を理解しない場合には、聖別の
本当の意味はどこまで行っても通じない。
全て自分の中にある固定概念、先入観で考えているからだ。
彼らはシャバットを祝うだけではなく、過越の祭りを祝って
マッツア=種無しパンなどと言うものを食べる祭りをしている。彼らは4月の第3週目あたりに来る、春分の満月直後の日曜日、イースターを祝わず、毎年違う日程になる、過越の祭の7日間の週を祝い、種無しパンを7日間食べる。過越の祭の前にはパンだね除去の掃除などしている。種無しパンの7日間、その中で復活=新しい命にされている事を意味する”初穂”の日を彼らは祝う。
その時から7週間の間、穂=新しくされた人の実態を学び
考えて生きる7週を実践している。
過越から50日目には、シャブオートを祝う。ペンテコステ=
ギリシャ語と呼ばれる祭りであるが、この日をクリスチャンの
グループでも少し話題にし、触れる祭りであるが祝うと言う事はないのが普通である。
でも、シャヴオート =ペンテコステが過越、仮庵の祭りと同じ三大都上りの祭りであり同等に永遠に変わらない祭りであるとは異邦人クリスチャンは決して教えられないし認識していない。
神の記念日、シャバットや祭りを神が言う通りに祝うものであるとは全く考えていない。又はそれらはイスラエルだけやってれば良い記念日であるから関係無いのであると神の教えとは違う事を信仰に入った最初の時から教師や先輩からそう教えられてしまっているからだ。
シャヴオートの祭りを異邦人クリスチャンの世界では、聖霊降臨祭と聖書とは違う呼び名を付けて呼んでいる。聖書に書かれた
神が意味する祭の名は”週=複数”と言う意味のヘブライ語、過越から7週目を表す言葉であり聖霊が初めて降った日を祝うのでは無い。
この祭の意味は、シナイ山で初めてモーセを通して文字で書かれた神の契約書=トラーを神が与え、イスラエルと言う国民=神の選び出した国民、地上で神の国の実態を生きる事を世界へ伝えるために選び出された国民が誕生し、その国民に与えられた事を
祝う日である。そしてそれは異邦人であれ、同じイスラエルの神=イエシュアを愛する人達、神の教えを生きる婚姻関係に入る
決意をした人漏れなく同じ家訓を生きる事に招かれ、これら神の
伝える神の家を生きるすべての詳細を生きる事を受け入れます!と言う事に同意を表明した記念の日でもある。奴隷であり自分が誰か分からないままエジプトに居たイスラエルと少数の異邦人、神が支払った代価=子羊の血をもって贖い出され、買い戻された人は世界の全国民の中でイスラエルの神の宝として高く掲げられ、神の宝の民とされたと神が伝えている。世界へ地の塩、世の光として、神の性質を生きる事に戻る役割を与えられたからである。福音は太古からこのユダヤ人=預言者達を通して伝えられたとある通り、同じ神の教え=福音が最初から最後まで世界に伝えられ続けるためである。その事実は同じくイスラエルの神に繋がる決意をした異邦人に対しても変わらずにイスラエルの神からの
同じ婚姻契約書保証書でもある。
でもイエシュア昇天後2000年前のこの祭りを境に、歴史の中で別種の教え=モーセの五書が廃れ自分基準の判定で神の教えを仕分けて良いと言う教え、別種の祭りが出現したと異邦人は考え教え続けている。
だから聖書に記されている1世紀の人達の生きたトラー、神の教え、記念日とは違う西洋の教え、祭りをずっと実践し続けているのである。
神が神の教えや記念日を2000年以降変えたからでは無い、
人が神の教えや記念日を変えたからであると言う、それが本当の事実である。
でも彼らトラーを生きる人達はこの日を聖書通りの名前でしか
呼ばないし、聖霊が初めて人の中に降りてきたなどとは言わない。聖書にはそんな事は書いてないからである。聖霊は初めから
イエシュアを通して救いを受けた人すべての内側に住まっている事実が聖書には記されているからだ。
聖霊=神=イエシュアは最初から信じる人の内側に住まう事実が
聖書には書いてあると彼らはトラーから主張するからである。
秋になれば、ヨムテルア、イスラエルではローシュハシャナと
呼ばれる記念日を祝い、夕暮れに近づくとショファー=角笛を
鳴らして大騒ぎをしている。不可解な行為をする人達である。
そして大贖罪日には特別な記念日を祝い断食をする人もいる。
そしてそれが終われば、庭やバルコニーに仮庵を建て始める。
そして仮庵の祭りでは盛大に祝い1週間仲間の家を行き来して
祝宴を毎日する。賑やかに歌って踊って宴会している。
庭の仮庵に寝袋を運んで子供達はその中で寝たりしてキャンプ
気分である。10月31日のカトリックの祭り、万聖節も祝わない。なぜならそれは異教の神々の祭り、死者の霊を祝う祭りを
カトリックバージョンに変え、伝道のためにヨーロッパで使おうと考えて作った祭りだからだ。神は異教の神々の教え、習わし
風習、シンボルなどと交わる事を禁じているのでそれに参加しないのだが、付き合いが悪い、他の人達に伝道したり、交わる機会を逃しているなどと言われてしまうのがオチである。
続く