真実であるのに、それらが真実では無いと考える人に対しては、
いくら真実である証拠説明しても始めから分かってもらえない、いや聞く耳を持たないため、事実を知ろうと言う態度がないから
通じないと言うのは今多くの人達が体験している思います。
真実の内容を嘘で覆い隠され、不真実が真実であると聞かされ
そう思い込む世界にはまったままになってしまうのです。
嘘は大きければ大きいほど騙されてしまう。
調べない人は騙されるの世界です。
実証されない、検証もされ証明もされていないもの、人が取り入れてはならないものを安全では無いものを安全と言い聞かされ続けそれを信じ、自分の意向や意思に関わらず強制的にある行動を強いられてしまう。人の尊厳、権限、意思、考えを剥奪する強制的な行為、人の考え、行動を支配しようとする世の中のプロパガンダ、闇の計画を知らない人達には、理解出来ない悪質な世界の闇が蔓延っているのです。目覚めている人は理解出来るのです。
だから知識の無い民は滅びると神が警告しているのです。
エデンの園に居た闇のものと同じ要素をずっと世界は聞き続け
生き続けてしまっているのです。
半分嘘、半分真実で人を本来の姿=神の似姿を生きる事から妨害する、支配する力。神のデザインを破壊し命を生み出さない人間関係、それを見たら悍ましく気色悪いと反応するのが当然なのに
それを大手でウエルカムする今の世界。
歯車が完全に狂っているのです。もしも神のデザインに反する事
をイエシュア信者達が受け入れる事を拒否したら罰せられると
言う世界が今ここに来ているのです。
それを拒否する場合狂った事を言う人と思われるのがオチなのです。神の似姿に造られた人に神の似姿にされているDNAを破壊し汚し、別物を自分の中に混ぜる危険と言う教えを全く理解していないからです。神のデザインを破壊する教え、生き方、自分を周りを汚し破壊して行くものです。霊的にも物理的に環境に害毒が排出されて行くのです。
食べ物規定、聖なるものは汚れたものを取り入れてはならないと言う神の言葉の意味をはっきり神の言葉から理解している人には理解出来る内容の世界です。一方的に流される操作された情報を鵜呑みに取り込み続ける、自分で事実を調べない、真実に基づき考えない場合にはどんな真実を伝えても何を言ってもまるで通じない世界があるのです。
人は何を自分の頭脳に肉体に取り入れて良いのか、何が人の頭脳に体に取り入れるのに相応しくないのか、神は最初から教え、
そしてその実態、エッセンスは変化などしないのです。
なぜなら、神は人を進化変化する様に創造されていないからです。
イエシュアがトラーをラザロのたとえ話で教えた内容と全く同じ世界です。
ルカ16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。
わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
西洋宗教の世界では、モーセの五書に聞くなかれ!と教えますが
イエシュアはモーセの五書、それに付随する預言書に耳を傾けないならば、神のトラー、モーセの五書を信じないなら、何を言っても無駄!とイエシュアが言い放ったその一言の中に凝縮されています。神の言葉を廃れた!と考える人には、永遠不変である神の言葉、教えなど跳ね返されるだけだからです。
本当に恐ろしい世の中になってしまったのです。
この箇所で書かれている5と言う数字はモーセの五書を表しています。これをヘブライ人が読めば簡単に理解出来ます。
日本人が数字の4は死を表す不吉な数字と誰もが認識するのと
同じく、5=モーセの五書です。モーセの五書を無視し聞かない
5人と言う意味で書かれています。
神の教えを無視する力、それは創造の最初からあるのです。
エデンの園の中、人類歴史の最初から蛇は神の言葉を曲げる嘘を人の中に放り込もうと試み成功した。神の伝える真実ではなく、蛇の嘘=それに聞き入り受け入れ取り入れ自分の思索の土台としてしまった!それが人類分裂破壊痛み嘆き悲しみに原因になったと理解すれば見える世界です。神の言葉を無視する事、それは
エデンの園でもその後でも現代でもずっと同じ結果が待ち受けているのです。イエシュアが処刑され昇天されたからなんでもあり
なんでもOkと考えるならそれは神が伝えた真実とは異なるものです。人はその人の生き方を刈り取る結末があるのです。その人の
生き方が自分に周りに環境に直に影響を与え続けて行くからです。平和=シャローム、天の現実、神のデザイン通りを生きる
環境を生み出す人は幸いとあるからです。人は神の性質を神の
伝える言葉通りに生きるのか生きないのかで違う人生を生きる
のです。
神の言葉を退けて蛇の嘘に騙された!と言う警告を常に考え続ければ良いのです。
それは既存の固定概念で考え、まさか信頼出来ると考える権威ある人々が悪事を企む事などする訳がないなどと安易に無条件に
考えるからです。又は教える人、教師が聖書に関して間違った事を言うわけないと考えてしまうものです。
学校の教科書で教師が教えることは全部正しい訳ではありません。世界は歴史の史実、科学の偽仮説、医学、宇宙工学その他諸々で語られる定番の教え、伝統の教え=真実では無い教えに固執しているだけで、不真実な教えは学校の講壇から語り続けられるのです。半分嘘半分真実、エデンの園の蛇の発言と同じ。
進化論を考えても理解出来る事です。真実に目が開かれていれば見える世界、嘘の教えを信じ込む場合には見えない世界があるからです。
そして長い年月〜19世紀近くに渡り教えられて来た事が嘘であるわけない!と勝手に始めから決めつけているからです。嘘か
真実かは伝統で継承され支持されたかどうかではなく、神が伝える言葉で伝えられている真実か否かだけが証拠なのです。
それと同じく、自分の目で頭脳で聖書に書かれた記述をそのまま読んでみて、何が書かれているのか位は細かく理解出来なくても分かるはずです。
福音書以降〜黙示録の中に書かれているのは100%モーセの五書の教えのみであり、別物の教えや別物の聖書に記されていない別の記念日を生きていた記録など聖書のどこにも記されていません。この事実が理解出来る場合、神の言葉の真実を知る扉を開く事にるのです。
異邦人クリスチャンはパウロはモーセの五書と違う教えを教えて
生きていたと完全なる誤解をしています。
パウロは日曜礼拝をし、クリスマスやイースターを祝い、モーセの五書に書かれた教えを捨てよと異邦人に教え、神の教え=トラーを否定する別の新しい教えを教えていたと考えていませんか?
それら全てが偽りの教えであり、全くの誤解なのです。
パウロは西洋宗教の教えや記念日など全く知らない、聞いた事も考えた事もないのです。そしてそれらの教えを一度も人に教えたり、実践した事などもありませんでした。
パウロがイスラエルで諸外国で日曜日ではなく、第七日目シャバットごとに会堂でトラーを教えている,神のオリジナル創造の記念日を祝った記録が聖書に記されているのです。その事実を書いてある通りにぜひ自分の目で確かめながら読んでみて下さい。
パウロはシャバットを祝い、過越や仮庵の祭りを祝っている。
パウロは使徒21章に記されている様に巷の噂でトラーを捨てて、割礼を捨てよなどと言うモーセの五書に反した教えをし生きていると言う噂を払拭するために神殿で何をしましたか?
100%モーセの五書を生きている証明する公にするために、
ナジル人の請願を動物の生贄を捧げて他の人数人としたのです。それは1日の出来事ではないのです。お金も時間もかかるものなのです。
パウロがモーセの五書を生きている、モーセの五書に反した教えや生き方をしていないための証明をしているのに、どうしてパウロがモーセの五書を塗り替えた別の教えをしていると主張し続けているのかその方が不思議です。この様な箇所はパウロがモーセの五書とは別の教えをしていると主張する場合には聖書通りの正しい解説や証明が出来ないのでその場合には違う教えや適当な
解説を作り出し編み出すか、またはこの様にパウロが明らかに
トラーを支持し生きている証拠が書いてある箇所には触れないで素通りするのです。
聖書に書かれた記述をまるで無視し、自分達の西洋宗教文化の
教えに則り神の言葉を退けて人が勝手な教えを創作しているのに過ぎないのです。
それらは聖書に書かれた内容から逸脱した空想の教えであり
やめなければいけない行為なのです。神が伝える真実を塗り替える冒涜であり人が神の永遠普遍性、永遠不変の真実を知る妨害を
しているからです。
パウロが過越の祭のマッツア=種無しパンの意味を1コリント7:5−8、11:20−34で解説しているのです。過越の祭りを祝う意味、種無しパンの意味新しくされた人として生きると
言う意味を過越の祭の時にしているのです。
永遠不変に変化しない神の祭の時にパウロが解説し書かれているその様な箇所を何も疑問にも思わず、別の解説に変形させています。
この箇所は月の最初の日曜日に行われる聖餐式の話をしているのである、イースターと言う祭に昇天以降は変更されたのだなどと聖書に書いてもいない事を考えていると思いますが、パウロや
1世紀の使徒たちは西洋宗教の教えや変形された儀式など知らないし、そんな教えは頭の中に全く無い!と言う前提から読まないと見えません。
この箇所は過越の祭の晩餐の話をしているのです。
月一度の西洋宗教の儀式の話ではないのです。
一つ一つ誤解した読み込みを正して、聖書に書いてある意味通りをまず知らないとならないのです。
パウロが1コリント6、11章で話している内容は、過越の祭の一連、7日間、又は過越の祭の準備を含めて、この話を、復活の命を生きる事を説明している事実も理解しないとならないのです。
過越の祭りを迎える準備、過越の祭りの7日、種無しパンの教え
その中にある復活を意味する、初穂を祝う日など、それらイスラエルの神がオリジナルに創造した祭の中には完璧な教えが搭載
されているのです。人が神の祭りに手を加えて変形する必要はない、してはならないのです。
パウロは西洋宗教の教えなど知らなかった、考えもしない思想であった、日曜礼拝イースターもクリスマスもパウロは知らないし、それらの記念日を1世紀の人達は誰も一度も祝ってもいなかった事を知る、そしてそれらの記念日は異邦人が西洋宗教と言うものを作り出して創作した教えであり記念日である事実をはっきり理解すれば、聖書の真実と歴史の途中で伝統で語り継がれ実践されている人間が編み出した思想や教えの違いを聖書からはっきりと知る事が出来る様になります。
続く