エペソ2章 ユダヤ人と異邦人は1つ神の宮 同じ天の共同相続人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と

称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

 

この箇所であなた方=異邦人に対してパウロは話しています。

肉の割礼=アヴラハムの契約の割礼をユダヤ人なら生後8日で

男の子に授けているのが普通だからです。無割礼=異邦人には

その様な神の教えが伝わっていない理解していないからです。

神の子、イスラエルの家族の一員となる事、神が一方的に与えた義である事実、代々に渡りその事実は変更にならない事を、子孫を継承する男性臓器に付けて目に見える印で与えられたのが

アヴラハムに与えられた割礼です。

勘違いしやすいのは、ユダヤ人は自動的に割礼を受ければ義とされていると言うのは神が伝える事実ではありません。

ユダヤ人も異邦人も時代に関わらず救いの方法は同じであり1つ

しかないのです。福音は1つで同じ。信仰によりイエシュアの業

を受け取り義とされる、それ以外に救いを得る手段は人には与えられていないからです。

割礼と言う目に見える体につけられた印を男の子が大きくなって初めて気がつくのです。自分で決意して受けたのではない。

親から知らない間に付けられていた。親の信仰=神が言われた

通りを親が自分にしてくれていた。努力して手に入れたのではない、無償のギフト=恵。

そして割礼を受けた意味を学ぶ、契約の中に加えられる恵みを

与えられている、神に義とされている実態は、個人個人が信仰により受け取る以外にない!と言う事実も変わらないのです。

目に見える印、日々見て”神の子”である責任を負う立場にある事を日々自覚するために、神は様々な目で見て認識し思い出す印を与えているのです。信号機を見たら、赤、緑、黄色と言う色を

見ただけで即座に理解出来る様に、神の教えを目に見える印を見てすぐ思い出す様に神はデザインしているのです。

神はまことに賢い教育ツールを人に与えているのです。神の教えを捨てることは本当に損失、愚かな行為でもあるのです。

異邦人は神の契約を知らない者である事をパウロがここで書いています。

 

2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

 

イスラエルの様に契約を与えられた代表者=アヴラハム=全世界の民族の父の子孫が大家族の長子として契約を受けた人達は

メシアを知っていたけれど、異邦人は神の教えを知らないから

メシアも知らなかった。ここを2000年前地上にイエシュアが現れて初めてユダヤ人もメシアの事実を知ったのではない!!!

と言う重要な事実を元に読まないとならないのです。

イエシュアが来られて初めてメシアを知ったのではないからです。パウロが1コリント15:2ー4で話している事は、全て

タナックに書かれている事実を話している事に気が付いて考えれば真実が見えます。

 

1コリント15:1 兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。

 

福音とは福音書以降に記されているのではなくて、100%

タナックに福音が書かれているのです。福音=イエシュアの完了の業、子羊の血=贖いの代価で買い取られている事実を信仰で

受け取り義とされる実態は永遠の中から既に用意され存在して

いる、”あの福音”タナックに記された福音=イエシュアの話を

パウロがしている事実だけに立って聖書を読み直せば永遠の真実が見えてきます。パウロは福音書を読んだことがない、パウロが

聖書と書いているのは福音書以降の使徒の書いた書簡では無く、

預言者が書いたタナックのみを指して語っている事実だけに立って考えて下さい。

 

15:2 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉=タナックに記された神の言葉、教え

固く守っておれば、この福音によって救われるのである。

 

パウロが、聖書、言葉、み言葉、戒めetcと話している内容は全て100%タナックのみを指して話しているのです。

 

15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

ここに書いてある通り、聖書=タナックに書いてある通りにと

パウロは話しているのです。

 

古代のユダヤ人は救い主が地上に来られるまでメシアを知らなかったのではなく、タナックを通してまだ見ぬイエシュアを知っていたのです。アヴラハムもまだ見ぬイエシュアの来られる未来の日を楽しみ喜んだとイエシュアが説明されています。

 

ヨハネ 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。

そしてイエシュアもタナックに書かれた神の言葉通りを生きて
いる証言をしています。
 
8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、
その御言=トラーに書かれた神の言葉を守っている。
 
2000年前に初めてユダヤ人もキリストを知ったのではなく、タナック=トラー=モーセの五書、預言書諸書に書かれている
キリストを知っていたのです。

もちろん全部のユダヤ人が同じ様にタナックに書かれた救い主を

同じ様な度合いで理解していたのではないのです。残りの民=

聖徒達=神の目から見る通りをする頭脳に割礼のされている人達神の言葉の中で神が伝える真実に気が付き知って生きていた人達は永遠からあるイエシュアの贖いの業の事実をタナックから知っていたと言う事です。

異邦人達はタナックを生まれつき知らない、自分の文化や家庭教育の中にも無い。異邦人はユダヤ人達からタナックに書かれた

契約=モーセの五書に書かれた契約の内容に縁が無い!と書かれている意味はどう言う意味でしょう?

契約の中に生れつき加わっていない異邦人=契約を直接与えられたイスラエルの民では無い、神の教えを聞いた事もない、そして契約=トラーを知らない人達であったから、創造主〜まことの神を知らないで生きてこの世での本来持つべき希望もない、神との関係にも無い人達=異邦人であったと書いてあります。

 

2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

 

あなたがた異邦人は、以前は、神から遠く離れて生きていたけれ

ど、今や同じメシア=唯一の救いの方法=同じ福音で語られた

贖い、イエシュア=子羊の屠られた血で買い取られた事実を

神から受け取り、神に引き寄せられ近いものになった。

この”近い”と言う言葉は、ヘブライ語では、腹の中、引き寄せる

と言う意味の言葉、そして、生贄と言う言葉に訳されている

”コバン”と言う言葉にもつながっている言葉です。

イエシュアの血の代価で神に買い取られ神の中に引き寄せられた事を表している言葉でもあります。

 

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ

14-15節、この様な箇所をクリスチャンが完全に誤解して読み込みしている良い代表例でもあるのがこの箇所です。

ユダヤ人と異邦人はエデンの園を出た後、人類は分裂して、2つのグループでした。それが1つになると書いてあります。ユダヤ人と異邦人の間には1世紀当時超えられない壁が存在していた事は何度か書きました。

 

ペテロでさえ異邦人に対して、隔ての壁を作るその様な偏見を

持っていた箇所が使徒10章に記されています。

ユダヤ人の当時の口頭トラー=モーセの五書の中に書かれた教え

に関する解釈や適用をユダヤ人ラビ達が解説したもの=戒めの律法=モーセの五書の事ではないのです。

その中で神の意図とは違う教えもたくさんされていたのです。

その中の1つが、ユダヤ人になる改宗儀式を行っていない異邦人とは関わりを持たない、付き合ってはいけない、食事もしないと言う教えです。

使徒15章にある様に、異邦人は神の教えを知らない、イエシュアを信じますと言った後も、神の教えを知らないので異教の神々の神殿に入り、トラーに書かれたいる禁じられた方法で動物を絞め殺し、汚れた動物や血を食し、そして神殿娼婦と交わる様な事をしていた事が書かれています。

その様な汚れた行為をする人達=異邦人と考えていたので、

ユダヤ人は異邦人とは一切交わりをしなかったのです。

異邦人に対して敵意があったと書かれています。異邦人も然りでしょう。

 

パウロが14−15節で書いているのは、ユダヤ人又は異邦人の中にあるその様な隔ての中垣=人の教えの規定=戒めの律法を破棄した!とパウロが説明しているのに、異邦人クリスチャンは

神の教え=モーセの五書=トラー=律法をイエシュアが破棄した!と完全なる読み違えをしているのです。神の言葉を神が否定しない、神の使徒も神の教え=言葉、トラー=モーセの五書を

否定した教えなどしないのです。

教科書とは違う解説を参考文献としての役割である使徒の書簡の中に書いたなら、それは聖書ではなくなるのです。

 

2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と

和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

 

イエシュアの贖いの血=永遠からある贖い救いの事実で、神の家族は元の通り1つ家族、1つ体、1つの神の宮となる。

異邦人もユダヤ人も隔たりがない。ユダヤ人も異邦人も同じく

全ての人がズレてエデンから飛び出たので、どの人も漏れなく

同じ方法=イエシュアを通して信仰により義とされた事実受け

取り、神と和解させられたのです。

そして互いの中にある敵意も主と共に死んで葬られた事実が書かれているのです。

この様に異邦人もユダヤ人も1つと書いてある、それはタナック

にそう書いてあるから、パウロがそう解説しているのです。

聖書の事実に基づけば、デイスペンセーション神学の様に、ユダヤ人と異邦人を別物の2つのグループに仕分けて考える様な思想は聖書の思想、神のデザインされた人間の性質と全く異なる異教徒思想の教えです。

人の関係の中で別々、関係ない、分かれていると言う状態は人には違和感があり傷をもたらすものです。それは神のデザインに

反してズレているから傷、悲しみ、寂しさをもたらすのです。

誰でもそれは生活の中で体験しているのです。仲間外れ、関係無い、無関心、無視し合う状態、別々、これらは神のデザインとは

異なるのに、どうして人間は神が伝える事実とは違う2つ別の

グループ、異邦人、ユダヤ人、天と地で別の場所を治める、

父=ユダヤ人に与えられ、イエシュア=異邦人に与えられたと言うそんな人間の創作話を信じる事が出来る方が不思議なのです。

 

 

続く