パウロの書簡、そして福音書〜黙示録の書の性質をもう少し
分かりやすく表現したら見えてくるものがあると思います。
前に書いた様に福音書〜黙示録は、100%純粋にタナックを
解説している性質のものです。教科書で例えれば、教科書が本体であり、それ以外は全て教科書を説明する付録、付随、後書きであるのです。教科書があり、参考書があれば、参考書は教科書の
内容を書き換えたり、違う解説が書かれているものではなく、
教科書に書かれている内容に忠実にかつ分かりやすく要点をまとめて解説しているものです。
福音書以降もそれと同じです。もっと詰めて言えば、モーセの
五書が聖書の全ての中心、土台であり、預言書も諸書もモーセの五書を解説する付属品なのです。簡単に言えば、諸書,詩篇、
箴言、ダニエル書、又は歴史書どの箇所もモーセの五書に書いてある知恵を生きる事、そしてイスラエルがたどった歴史モーセの五書を捨てて生きる代償=これは全人類、どの時代にも同じ教訓同じ神の永遠不変の教えなのです。
そして、預言書も同じです。モーセの五書に書かれた生き方=
神の子ら、神の国の生き方を捨てる代償、神の言葉を捨てる事は危険、破壊に向かう事、神の教えからずれた状態を生きている事から、神の契約に書かれた詳細を生きる事に戻る警告が預言者の人類への警告なのです。
パウロ達、福音書以降の箇所を書き記した人達は、タナック=
モーセの五書、預言書、諸書を書き記した預言者達とは異なる
役割、性質がある事実にまず開眼されたら理解出来ます。
モーセの五書は、モーセを通してイスラエルの神が婚姻契約書の
形で、人の生きる詳細の全て、神の家族とされた共同体の生き方をナレーション形式で、イスラエルの通った歴史を通して、
申命記に至っては当時の中近東に存在した宗主国 /家臣条約に
沿った形式に則り書かれた契約書であるのです。その内容は、
婚姻契約です。契約書の中に書かれている用語が婚姻に関する
言葉だからです。だから聖書の最初から最後まで書かれている
言葉の定義は、婚姻に関する言葉で表されているのです。
愛、許し、娶る、不貞、姦淫、恵、憐れみ、全ての定義はモーセの五書の中に書かれている内容で一貫して変わらずに貫かれているのです。
聖書に書かれている神の言葉が変化しないから、聖書のどの箇所も同じ意味、同じ定義の婚姻契約に関する内容が記されているのです。神の保証、約束は変わらない。人が神との契約内容を破っているだけです。
宗主国 /家臣条約=スゼリアン/バサール条約とは、宗主国=大党
と家臣国=小党の間で交わす条約です。大党は、恩恵、保護、
軍事的保護そして小党に土地を与えます。そしてそれに対応して
宗主は家臣を所有している、家臣は宗主に属する存在である。
宗主は家臣に経済的恩恵を与え、忠誠を家臣に誓うのです。
家臣は他の宗主には仕える事は出来ない、ただ一人の宗主に仕えるのです。
そして家臣がこの条約=契約の内容に違反する行為をするなら、
刈り取るべき代償が伴うのです。
これとそっくりそのままがモーセの五書に特に申命記では完全なる契約書として記されているのです。
最初に、神と人との関係が記されているのです。神が誰であるか、神の子らが誰であるのか解説しているのがそれです。宗主=神が自分に属する民に対する保証、約束を宣言しています。
そして、神の民がどの様に生きるのかの詳細が記されて、それに
反する生き方をするならば、刈り取るべき代償=祝福を失い、
国を追われ、痛み苦しみを通して神の契約の生き方に戻る緊急性
に気が付くと言う大変な代償=訓練を強いられると書いてあるのです。イスラエルは契約を受け取った代表者であり全世界に神の国の子らの性質の生き方を生きて伝える地の塩、世の光の役割を与えられているのに、その生き方から離れる場合には、本来の
役割=塩気を失いその代償として様々な困難に遭ってやっと
目覚めると言う歴史を辿って来たのです。
前置きが長くなりましたが、聖書の最初の箇所に全てが書かれています。福音書以降に書かれている内容は聖書の最初の70%
タナックを解説している性質のもので、特にモーセの五書の短い解説をしているだけです。
詰まり、聖書の最初の70%に書かれた内容は、モーセの五書
が土台であり、モーセの五書を解説している内容であり、預言者モーセが直接神から聞いた内容を文字で記してあるものなのです。
ヨシュア記以降、歴史書や詩篇、預言書は全てこのモーセの五書に書かれた内容をイスラエルの歴史を通して、諸書は、トラーに書かれた知恵を生きる事、預言書は、モーセの五書に記された
生き方から離れている人達への警告!が中心。預言書は未来預言
が書かれているのはほんの数パーセントなのです、
モーセの五書を神の国の子らの生き方が書かれた教科書と考えれば、福音書以降は聖書の最初の70%に付随する参考書に過ぎないのです。イエシュアがモーセの五書に書かれた人間の生き方の完全版を地上で生きて見せた!それが書かれているのです。
もちろん福音書以降も聖書ですが、タナックに書かれた事が事実で存在し、モーセの五書に書かれた教えだけを使徒達は語っていて、タナックに書かれたメシア、イエシュアが地上でモーセの五書を神の性質通りの人間の姿で教え、生きた内容が書かれているだけなのです。
書かれているだけ〜詰まり、福音書以降には、タナックの様に
聖書の土台となる様な教えの詳細が書かれているのではなく、
聖書の土台である教えの後書き、短い付属の解説としての役割を果たしているのです。
これを事実をよくよく考えれば見えて来ます。
預言者の言葉〜全て聖書になっている。使徒達の書簡〜タナック
の短い解説である。教科書に書かれた内容=絶対であるのです。
参考書=教科書に書かれた絶対不変の内容を全部は書かずに、短く端折って解説しているのが福音書以降、この違いが分かれば
見えて来ます。
1世紀の人達、聖書の中に書かれている福音書以降の中に登場する人たちは福音書〜黙示録の存在さえも知らない、読んでもいないと言う事に気がついて下さい。
もちろん、パウロの書簡などそのグループに当てられた書簡を
読んだ人は居ましたが極々少数の人数です。
聖書=福音書以降が書かれている間は、パウロでさえ、福音書も
読んではいない事実があるのです。
福音書以降の聖書記者は100%タナックだけを語っている!
と言う重大な事実、聖書を理解する鍵となる真実に目覚めれば
見えます。
エペソの箇所を書いていますが、エペソ人へと言う言葉は、
最初の年代の写本にはどれも記されていません。
どの様に記されているかと言うと、写本にはこう書いてあります。
エペソにいると言う箇所は、この様に記されているのです。
< >に居るキリストイエスにあって忠実な生徒達へ。
詰まり、これは回覧、回勅、パウロがグループの代表へ回覧と
言う形で送り、鉤括弧がしてある箇所にグループ名をそれぞれの写し書きした書に入れて送る。そこから様々なグループへ書写して渡すと言うものであったのだと言う学説があります。現代の様にメールSNS、パソコンでPDFで書いて無数にCC転送するなど無い時代、印刷もなければ、コピー機、カメラもない時代です。
詰まり、一文字一文字人がパウロの書いた手紙を書き写す事で
しか、書写が出来ないのです。グーテンベルグが15世紀に印刷機を発明するまで、書物は100%全て手書きである!特定の人
しか聖書を読めない、所有出来ないと言う現実があるのです。
ユダヤ人の世界では、タナックは存在し、パウロの様な訓練を
受けた人達はタナックを丸暗記して、ユダヤ人の会堂で所有されるトラーの巻物を毎週朗読し、そしてユダヤ人男性はトラーを
丸暗記する教育を受けていたのです。
日常の中に神の言葉が根付く浸透している環境がずっと存在しているのです。
聖徒たちと言う言葉で分かる通り、タナックにはメシアを通して
贖われ救われた人達をクリスチャンとは呼んでいません。
クリスチャンと言う言葉は、1世紀に出現したあだ名=ニックネームだからです。イエシュアが来られる以前の古代も同じ方法=イエシュアを通して信仰により救いを受け、聖霊を内側に得ていた、同じ1つの救いの方法、同じ福音を知って生きていた人は
エデンの最初から、今に至るまで存在し、その人達を聖徒、又は残りの民と聖書では呼びクリスチャンと言う1世紀に作られたあだ名では呼ばれていないと言う事実を知れば、1世紀に初めて
メシアを信じると言う人達が現れたのだと言う誤解に気が付けると思います。
エペソは当時ローマ帝国の商業の中心的都市であり、250000人の人口があり、地中海や小アジアから多くの人がこの都市にビジネスで入っていた環境にあったのです。
アルテミス神が中心の宗教ですが、様々な神々、宗教がはびこっていた地域です。
50以上の神々、女神、ゼウス、アフロデイト、アスクレピウス、
アポロ、ディオニュソスなどの神々信仰がありました。
アルテミスが最も信仰されていた神であり、この女神の命令で、
一年に一度この女神を讃えるためにオリンピックが開催され、
この地域では当時の金融システムではオカルトが行われたりと、
異教の神々の教えにどっぷり染まった地であったのです。
この書簡はパウロの最初のローマによる投獄中に書かれたものであると推測されています。
パウロが書いている内容は100%モーセの五書に書かれた神が
人に伝えている神の似姿に創造された人の生き方に基づき様々な
アドヴァイスを書いている、その事実からのみパウロの書簡を
読まないとならないのです。
パウロはモーセの五書を否定したり、モーセの五書に書かれた
教え以外の新しい教えなど編み出してなどいません。教科書=
タナックに書かれた解説、そしてそれぞれの地域に生きている人達の実際生活の中での問題に対する対処をトラー=モーセの五書に書かれている知恵からパウロは解説し伝えているだけなのです。
エペソ2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、
わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
良い行い=神が伝える意図通りの思索、行動の事です。その生き方の詳細はモーセの五書に書かれているものなのです。
その生き方に根付く、イコール神の似姿、栄光がその人の生き様を通して環境に現れ出る、認識される、地上で神の性質がその人の生き方から現れ出るからです。
異邦人クリスチャンの世界では、礼拝と言うと、何かの儀式を
したり、神への賛美であると考えますが、それは神への表現の
ほんの一部であるだけなのです。
聖書に書かれた礼拝の本来のヘブライ語で書かれた意味は、
エデンの園の最初から書かれています。エデン=喜び=神の与えた環境=園を管理し耕す事、人の生きる、行動の全てを表している言葉なのです。労働を表す言葉、アヴォダ。神の性質に造られた人の行動の全て、食べる事、飲む事、日常生活の行動の全ての事です。何をしていても神の意図通りにそれらを生きる事、
楽しみもレジャーも全ての全てが神の前の礼拝なのです。
神の意図通り、神がデザインし創造した通りを生きる事、
それが本物の礼拝の意味なのです。
特別な事を礼拝 worshipと考えますが、1秒1秒、自分の全ての
思索、行動が神の創造にぴったり=み旨通りを生きる事、それが
神の前の礼拝であると聖書には書かれているのです。
続く