聖書に書かれている事実、内容は、世界で伝えられて解説されている異邦人世界の伝統の教えと異なる事実が満載です。
ネット上で一般に語られている教えは、メシアが地上に来られる
前は、神殿で生贄を捧げて罪を許されていましたが、イエシュア
が来られ以降完全なる”生贄”が捧げられたので、それらはもう
不必要なものとなり、終了になりましたと教えています。
その考え、教えは聖書とは異なる事が、聖書には記されているのです。
まず第一は、動物の血は罪を消さないと最初からはっきりと、永遠不変の事実前提が神の言葉で伝えられているからです。動物の捧げ物は罪の赦しのための仮の手段としてイエシュアが来るまで捧げられていたのではないからです。レビ記を読む前提が最初からずれている!と気が付いてください。
聖書の事実からだけ考えれば見えると思います。ヘブル書も使徒の書簡以降の内容も、全て100%タナック=モーセの五書、
諸書預言書のみを指して話しているのです。使徒以降は福音書を
土台に話しているのではないのです。福音書も100%タナックだけを指して話している事実だけに立って聖書に書いてある通りの内容を正しく読み取れば見えます。
そして、イエシュア昇天以降、70ADに神殿が崩壊されるまで
1世紀の使徒、パウロ、そしてユダヤ人、異邦人イエシュア信者、そうではないユダヤ人も全て神殿で同じ様に生贄を捧げ
そして、神の記念日、シャバット、祭りを祝っていた事実があるのです。昇天以降、最初の神の祭り=シャヴオートももちろん
神殿の中で祝われた記録が使徒2章にあるでしょう。
シャブオートを、シャバットを祭りを祝うと言う事は祭壇に動物の捧げ物がされているのです。その事実からだけ考えて下さい。
神の教えの一点一画どの箇所も変わっていない!と言う永遠の
事実があるのです。そして、現在は神殿が無いのでレビ記23章に書かれた一連の儀式が行う事が出来ない!未来にイエシュアが
地上に来られ、エルサレムからイエシュアが世界を統治する日が到来したら、神殿は同じ様に神の子らの交わりのお手本の世界の中心であり、同じ機能をし、イエシュアが天の地上の大祭司として全てを治めるのです。
神殿でされた全ての儀式、祭壇の周りで行われていた事=これから未来にイエシュアが再び地上に来られて地上の神殿で同じ事が
なされる、それらは仮の罪の赦しのためではなく、イエシュアがされた業を、目に見えない実態を教えるものです。神の前に真っさらに新しくされている事実、神の性質からズレて罪を犯したり、人を傷付けたり、人との和解をしたい、神との和解をしたい時に、それらの全てを動物の血を通して、天に永遠に存在する贖いの事実を地上で五感を通して、目で見て、手で触れて、動物の焼かれるBBQの匂いを通して、フランキンセンなどの香りを通して、音を聞いて、神が教えるイエシュアにより贖われている事実、私達が神の中に義とされて受け取られている実際に体験するために与えられた学習ツールであるからです。
誰でもスッキリ罪の罪責感から解放されたいでしょう。
その様な軌道修正、謝罪、和解をしない限りほっと出来ない。
レビ記を読む前提が最初からずれているのです。ずれている=
仮の罪の赦しのために動物が捧げられていたと言うずれた考えです。聖書は最初からその様な事は伝えていません。
考えれば分かると思います。罪を犯したり、人を傷つけて関係が
壊れたり、そして不正を犯したことで罪悪感がある時、神の前に
持ち出して、人に謝罪して、これらを清算し、赦しを得て、再び
日の下に正しい関係に戻りたいと人が思うのは、ずれた状態が
本来の性質とは異なるから苦しむのです。
その状態をどう修復するのかの詳細がレビ記に書かれているのです。神殿の祭壇の前で神の前に持ち出し、コバン=生贄と訳されている本当は”近く”と言う意味の捧げ物を通して、イエシュア=子羊の贖いの血で神に人に近く事が出来る清算が支払われている事実を再確認する、それを教えられているのです。
この性質の1つ1つを今も実生活の中で神の前で、そして人との関係の中で修復が出来るのです。神が伝える方法で修復する。
神の目が見ている通り神と事実を確認する。それがホモロゲオ=
告白と訳されている言葉の意味なのです。
それが神の言葉の適用なのです。
イエシュアの完了の業は永遠の中から完成されている、完結している事実は聖書の最初から記されて人に伝えられているのです。
第七日目に神が止まった!全ての業を終えたらか!と書いてある
のです。全ての業=イエシュアの完了の業は永遠からあり、
それが人のために与えられている事実が記されているのです。
歴史の途中、2000年前に初めて、贖い、救い、赦しが与えられたと教える西洋宗教思想は聖書とは全く異なる事を伝えてしまっているのです。
エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
人が地上に物理的に創造され現れる前、永遠の中、私達は神の中に存在していた、神が私達を永遠の中から選び出したと摩訶不思議、理解不可能な事実が記されているのです。
シャバットの安息=止まる、安息=休み、ぴったり心地よい状態生き方は、永遠から与えられていて、エデンの園に存在していたのです。創世記2:15にある言葉で表されています。
"主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。"
この”置く”と言うヘブライ語は、聖書で語られる安息の中心に
繋がる性質の言葉です。神がそっと大事にエデンの園の中に人
を置いた。安息=ヌアフ、ノアの語源と同じです。
人は神の中にあるヌアフ=ぴったり心地よい状態に生きる様に
造られたと書かれているのです。その状態とは?神の性質通りに
生きる事でその状態が保存され保持、継続されると言う意味です。だから神の伝える人の生き方を知らない場合、この安息=
ヌアフが破壊されてしまうのです。異邦人クリスチャンが呪いの
律法と言う神の言葉=モーセの五書に書かれた言葉、神の教え
インストラクションには、この”ヌアフ”安息、人の生き方、
イエシュアの中に憩う生き方の詳細が記されているのです。
神の言葉を捨てるから、人が人を破壊し、ずれた生き方をし、
宗教の教え=タバコの煙が混じった様な純粋な神の言葉、教えでは無い人の教えを生きて、窮屈になり、息苦しく、偽の自己像を生きて、人と比べ競い合い、人が作った違う目標やゴールに駆り立たせれてしまい疲弊するのです。
ぴったり心地よい、どんな状態?肉体的にもぴったり心地良い
状態、ぴったりの枕でちょうど良い固さのベッドに休む、
ちょうど良い温度、エデンの園の中に涼しい風が吹いて心地よい
状態、人工ではなく、天然の澄んだ純粋な美味しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ時の様なあの心地よさです。神の言葉は人の
中=エデン=自分の存在に涼しい新鮮な風、冷たい美味しい水を
飲むような生き返る事実を与えてくれるのです。
ヘブル書は、モーセの五書、諸書、預言書の中に書かれた安息に
付いて語っています。聖書に書かれた永遠不変の事実からだけ
考えてる、そうすると神の言葉=聖霊が神の言葉で書かれた意味
を教えているのです。
安息に入ると書いてある通り、エデンの園から、イエシュアの中に存在する事、その安息の中に生きる事を教えられているのです。2000年以降に突然安息が与えられた!救いが現れた!と考える思考回路は聖書に沿った教えや考え方ではないのです。
ヘブル3:11そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。
18また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
<不信仰であった状態は、モーセの五書に、歴史書に、諸書に
様々に記されています。その箇所を学ばないで、不信仰の意味
は見えないのです。不信仰=神の言葉を信じない事です。
神の言葉は永遠である!と言う事実を、神の教えを聞かないで
人の教えを聞いて、モーセの五書は廃れた!と考える、その様な教えは不信仰そのものの教えである事に聖書の記述の事実から
気が付けると思います。聖書に書かれた不信仰とは単純に神の
教え=トラーに書かれた生き方に逆らう事!それが不信仰の聖書の定義だからです。>
4:1それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
3ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることが
できる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、
はいらせることはしないと、誓ったように」と言われている通りりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
イエシュアの完了の業は永遠から存在し、物理的にこの世界が
出現した時、イエシュアの完了の業は最初から完了して存在している!と書いてある通りに理解出来れば、2000年前は、
2000年以降はと言う、神の永遠の完了の業が変化すると言う
異邦人の教えは聖書ではない!と読み取れるはずです。
書いてある通りに聖書を読んでみない事には、聖書に書かれた神の永遠不変の真実はその様な違う読み込みをする頭脳には決して
届きません。
5またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
6そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
<シャバット=第七日目以外の日のことを語られたはずはない!
とはっきり書いてあります。>
9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
安息=ヌアフ、ナファーシュ、聖書に書かれた安息は、神が伝えるシャバット=止まる日で表されるているものなのです。
神の完全なる完了の業からだけ生きる!神のデザイン通りを生きる!
安息日=日曜日、週の第一日目!などと聖書のどこにも1度たりとも書いていない事実を聖書の記述から今日まず発見して下さい。
10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
止まる日=第七日目。神が第1〜第6日目で全ての業を終えて
第七日目に止まった通り人も止まる様に神に教えらている、
その事実を受け取る人、無視する人、気にも止めない人、それぞれがそれぞれに神の言葉に対しての意識、態度が違うだけで神の言葉は永遠不変!神は人が主張する様に、コロコロコロコロ教えなど変えないのです。永遠不変!と言う神の言葉を信じるか信じないかそれはあなた次第です!と言うその違いがあるだけです。
11したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
<不従順とは、ヘブライ語では神の言葉を神の言う通りを、
神の声の中で神の言葉を聞かないと言う意味なのです。>
あなたは神の言葉=本物の羊飼い=イエシュアの声=言葉を聞いていますか?それとも神の言葉を変形させる、部分否定する又は今は必要のない破棄された神の言葉と伝える異邦人、ローマ帝国
の宗教が作った教えを聞いていますか?と言う問いを神の言葉だけに対峙して考えれば聖霊が永遠不変の真実で純粋な神の言葉から真実を教えて下さいます。
Shabbat Shalom