世界に流通する無数の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

キリスト教と一概に言っても一括りには出来ない様に、

メシアニックやユダヤ教と言うグループ、又は古代の人達が理解

していた神の言葉=トラーに関しても、現代では大分異なるものになってしまいました。

異なる内容であるのは、神の言葉の内容が変わったからではないのです。歴史の経過の中で、人が神の言葉の教えに人の考えた

思想を付け加えてしまったからです。それがなになに教と言う

宗教と言うものなのです。神の言葉は宗教では無い、神が伝える人間の生き方を神が人に理解出来る人間の言葉で伝えたもの

至極シンプルな事実があるだけです。

 

クリスチャンが言う様に、異邦人とユダヤ人は別とか、神の国には、なになに教とかなになに宗派とか、人種、性別、職業別、役職別、身分別で区切られて、分別されているとでも神が言って

いるのでしょうか?その様な教えを宗教はしていますが、実際は神の家族はその様な区別などないシンプルに神の家族のメンバーであるのです。

 

1つ1つ神の言葉の事実と人が創作した教えの違いを聖書から

知り、紐解いて見ないと見えない世界があります。

キリスト教=プロテスタントでも3万〜6万くらいの違う

グループが存在し、教皇をトップにする階級制で一枚岩に見える

カトリック=ユニバーサルでさえ200以上のグループがある

そうです。カトリックの土台となるローマ教は4世紀に出現し、

プロテスタントに至っては、16世紀以降に出現しました。

それまではその様な宗教は存在などしていないと言う事実を考える。

今現在聞かされるクリスチャンだけ先に天に軽挙されるなどと

言う思想も19世紀以降ダービーが言った教えです。

そんな聖書解説、教えは聖書記者の誰も知らないものです。

 

それ以前に聖書に書かれている登場人物達はモーセの五書を否定する新しい教えの西洋宗教の教えなど1度も耳にした事もない、

それらの教えを実践した事もない、誰もモーセの五書を廃れた

教えだから破棄せよ!などと聞いたこともない、その事実から

だけ考えてみれば見えて来るのです。

 

聖書の中に書かれている人達が生きていたのは100%モーセの五書のみであり、他の宗教の教えは存在しませんでした。

1世紀当時のユダヤ人の世界では、ラビ達が編み出した口頭トラ

ーと言うものがありましたが、それはモーセの五書に書かれた

教えをどの様に生きるか?であり、神の教え=モーセの五書を

捨てて否定して違う教えを伝えていたのではありません。

そんな人は存在していないのです。

神の言葉を神の意図通りとは違うズレた事を教えていた下りは

福音書にも書かれています。モーセの五書に無い教え、手洗いの

儀式を食事前にしないとならないとか、シャバットに畑に入り

落ち穂を摘んで食べる事はしてはならないとか、その様なズレた解釈があってもモーセの五書に反する教えを生きていたのでは

ないのです。

 

同時に、イエシュアが教えた教えも100%モーセの五書、

神の意図通りの解説をした!と言うだけなのです。

神の教え=モーセの五書を否定する教えなどイエシュアはしていない、するわけがない、イエシュアの使徒たちも、パウロも

誰一人モーセの五書に敵対する、反する別の教えなどしていない

聖書に書かれた事実に目が開かれない限り、人が編み出した教え

反モーセの五書=新しい時代の新しい教え、新しい聖霊などと言う宗教の教えに神が伝える真実が覆われたままになってしまいます。

そして、現代のユダヤ教の中でも色々あります。キリスト教と

同じで自分の属するグループのラビの教える事、言う事を聞く、自分の属するグループの牧師、上の声に服従する、

この性質は同じです。

ユダヤ教の世界では、神の言葉を曲げているのではないのです。

神の言葉をどう生きるかの解釈の中での違いがあるのです。

それが逸脱している部分では、結局人の教え=宗教になってしまっているのです。

キリスト教の教え、教理の世界では、神の言葉を様々に変形しています。

例えば、あるクリスチャンは、神の言葉は変わりませんと言いながら、でも2000年以降の今は人の意見で神の言葉、教えを

選択し、又は変えても良いのであると教えています。ある人達は、古い教えに戻る事は、神の恵みを台無しにする態度であり、イエシュアがされた業を無駄にするのであるなどと教えています。

神の言葉に古い新しい別の教えなど存在しない!永遠不変、同じ内容、同じ福音、同じ救いしか書かれていない!と言う事実さえ

見えていない所から、人の創作した教えで勝手に神の言葉を変えて定義しているだけなのです。

それは聖書ではない人の編み出した思想そのものなのです。

 

超正統派ユダヤ教のユダヤ人が着ている黒装束の独特な服装は、神の教えではなく、ヨーロッパに住んでいたユダヤ人達が19世紀に神殿が崩壊の嘆きを表した色、黒を着ると決めただけです。

あるグループの制服と同じ。ユダヤ教の中にも、異邦人は”ノアの法則”だけを生きれば良いと言う教えをしていますが、その様に

異邦人に対する区別された神の教えなど存在しない、モーセの五書には書かれてもいない単なる人の創作した教えです。

ノアの7つの法則とは異邦人は、偶像礼拝、神を呪う事、殺人、姦淫、不品行、盗み、生きたままに動物から取られる肉を食べてはならないと言う7つと、そし司法で司られている正義を守らなくてはならない、それらだけで良いと言う教えです。

 

そのグループはそのグループが考えるメシアが居てそのメシアを信じているのです。でもそれはタナックに書かれたメシア像とは異なります。時代ごとにそのグループに預言者が与えられていると言う思想なのです。もちろんイエシュアではない別の人です。バルコクバの乱では、ラビ アキバがバル コクバが救い主だと主張したのですが、その人も聖書に書かれたメシアではありませんでした。そして、今メシアニックやヘブルルーツなどと聞きますが、それぞれのグループでも信じている内容は違うのです。

あるグループは、異邦人はユダヤ人とは関係ありません、

異邦人はトラーを実践しなくて良い、そしてユダヤ人と交わらないで下さいと言うグループがあります。

その教えも皆人が考えて言っているだけであり、聖書に書かれた

通りの永遠不変の神の言葉ではないのです。

こんなに様々に多様化された教えが存在するのです。

ある教えは聖書とは全く関係の無い教えです。

それぞれのグループが編み出したそれぞれの教え=イズム=

人の思想が混ざった教え=宗教です。

神の言葉は1つです。神の言葉は時代により、人種により変形などしません。もし聖書からイスラエルの神の性質そして神の言葉は神の性質と1つである事を理解するなら、その様な分裂思想は

聖書に書かれている真実ではない事を、聖書から容易に理解出来るのです。

そして、パウロの書簡でも分かる通り、神の教え=トラーに

書かれた適用は、神の伝える真理は変化しません。

でも、正しい事でも、時と場合により適用を誤れば人をつまずか

せてしまう事が書かれているのです。

 

箴言25:20 心の痛める人の前で歌をうたうのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢をそそぐようだ。

27:14 

朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。
鬱の人に励ましてはならないと教えられるのも、それと同じです。励ましは良い事ではあるけれど、その人の状況に対して相応しく無いことをしては無意味であり、返って傷つけてしまう。
ヨブの友人達の正しい発言も全く同等で、あの時のヨブの状況には不適切な時に相応しく無い助言や言葉をかけた事がずれたのです。
神の言葉は時代により人種により変化しません。適用の方法は
神の教えの真理の中、範囲内では様々多様であるだけですが、
神の言葉の基本を人間の意見で曲げる事が可能ではないのです。
神が伝える真理は永遠であり、神が定義する罪、義、聖別、救い
贖い、恵み、祝福、愛、etc etc etcは永遠不変なのです。
パウロのローマ14章での助言は、神の教えを曲げてそれぞれの
意見、考えに基づいて勝手にやって良いと言う話ではない事を
書きました。下矢印
 
異邦人の世界、その他での大問題は、神の言葉が変わったと言う
教えを通して神の永遠不変の言葉を曲げて世界へ伝えている事なのです。
そして、全ての人が神の言葉を神の伝えている意味通りには
知っている訳ではないのです。
古代でも現代でも、個人個人の理解により違いがある、でも神は
永遠不変の神の啓示=言葉=同じ教えをエデンの園から伝えている事実があるのです。
異邦人の世界は、時系列上で全てを考えるヘレニズム思想ですが
聖書で語られている世界は、”永遠の中に全て完結”している事
書かれています。完了の業=永遠から存在する神=イエシュアを
通して全てが存在していた。そしてそれが地上に現れ出たのが
創造の6日間です。そしてイエシュアの完了の業も最初から用意
されていたのです。それを地上で証拠として証明して下さったのが2000年前です。
だから、2000年前に初めて完全なる贖い、救いが出たとか
使徒2章で初めて聖霊が降って来て人の内側に住んだと言う仮説は、聖書での事実ではありません。シナイ山の出来事の方がもっとすごいインパクトのある出来事であったのですから。
 
そして、古代のユダヤ人達は、タナック=トラー、預言書、諸書
の中に書かれているイエシュアを知っていたのです。
ここでも全員が同じ理解をしていたのではないです。神の言葉の真実を知り、神が伝える通りを理解していた多くの人が存在していたのです。
どうして現代の多くのユダヤ人達は、タナックに書かれた救い主を知らないのでしょうか?それには理由があるのです。
それは、異邦人=西洋人=ローマ教が作った教え全てに対して
抵抗している!!と言う事実を知れば見えます。
クリスチャンが赤と言ったら白、クリスチャンが丸と言ったら
四角と言う、全部反対を言う態度があるのです。
どうしてだと思いますか?ローマ教の作った教え=神の教えを否定し、そして、偽のメシア像を伝えるその宗教の教えに対して
断固として抵抗、敵対しているからなのです。
マルチン ルターが晩年に書いた反トラー、反ユダヤ思想、
”ユダヤ人と嘘”と言う書の中に、”うなじのこわい民、ユダヤ人が
皆殺害されるのは神のみ旨である!”などと書いて、ホロコースト勃発のアイデイアと火種をヒットラーに与えた様に、その思想
から異邦人の語る”メシア”は、ユダヤ人迫害をするリーダーであると考えているのです。しかもユダヤ人はキリスト殺しなどと
西洋のクリスチャンが言うのですから。その様な誤解を与える
宗教の思想、聖書には無い教えの弊害を本当に考え直さないと
ならないのです。
だからメシアが書かれている箇所を、違う風に解説する=クリスチャンの教えに抵抗して、そして週のトラー朗読の時に付随で読む預言書の箇所の例えばイザヤ53章の様な箇所は読まない。
そして、メシアは第二神殿が崩壊する前に来なくてはならない
箇所など、違う解説をするのです。
ダニエル9:25−27、ネヘミヤ、エズラ、そしてハガイ。
エルサレムの第二神殿の建物と神殿の城壁を修復し直す事、
そして、聖書にはメシアは第二神殿が建てられた後、そして第二
神殿が70ADに崩壊される前に来られなければならない事実が
タナックには記されているのです。
 
聖書ではない教えの数々が世界へ伝えられてしまったのです。 神が伝える事実だけを、聖書から見つけ出し、疑問に思い、真実を追求する。これが大事な事なのです。
 
続く