神は6日の間に創造の業をされ、第7日目に止まった事実は永遠に不変です。神がいつ創造の業をやり直しましたか?
神は第一日目に止まり休み、第2〜第7日の間に創造の業をし直したのでしょうか?
神が聖別した週一度の記念日はいつと聖書には書いてありますか?異邦人の世界で行われているのは、人が創作した教えや
記念日が伝統で実践されているだけなのです。
聖書に登場する人達は、誰一人現代の異邦人の世界で教えられている非聖書的教えや、記念日を知らない、生きてなどいなかった
事実を自分で考えてみれば事実が見えると思います。
全ての問題は、神の言葉を人間が変え、理屈を付けて別物の
教え=宗教を作り上げてしまった事なのです。
コヘレト7:29 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの
シャバットの大きな意味は、神の創造のデザインの性質と
直結しているのです。
シャバットとは停止する、やめる、止まると言う意味です。
神は創造の最初にこの第7日目を聖別したと言われました。
聖別と言う言葉が最初に使われたのは神の記念日=時に対する
聖別に使われたのです。聖別の意味は創世記〜黙示録に至る迄
同じ意味であり、変化などしません。神が聖別していないの日やその他のものに対して、人間がいくら聖別してもそれは神の前には全く意味のない、神の定義する聖別の意味が全く無いものです。
なぜなら、聖別と言う意味は、”神の目的通り神の上に取り分けた”と言う意味だからです。神が言って無い事を人が勝手に主張しているだけだからです。
エデンの園から神の教え=トラーは同じです。口頭で伝えられた神のトラー=教えを、シナイ山で初めて文字として与えられたのです。
それまでは個人個人が神から語られ続けたトラーを、シナイ山で新しく生まれた”国民”=イスラエル、その中には異邦人も混在する共同体=イスラエルと言う国民全体に対して語られ、イスラエルと言う代表の苗字で呼ばれる神の民=聖なる国民に対して、
神の国に生きる人の生き方の契約書=文字で書かれたもの、
永遠の保証、教えを神の国民に与えたのです。
10の言葉の中に”シャバットを覚え聖なるものとせよ”とあります。これは今無効だとクリスチャンは主張したり、安息日とは、
日曜日であると神の言葉を塗り替えていますが、とんでもない
誤解、神の言葉を否定する主張をしているのです。
イスラエルの神を愛する人は、神の語る教え=言葉を愛して生きると書いてあるのに、イスラエルの神の言葉を塗り替えて主張する行為は神に対する不遜、不敬、冒涜、罪である!と言う事に
気が付いてないのです。
シャバット=安息日=止まる日は第7日目であり、第1日目などと聖書のどこにもその様な変更は書かれていません。昇天以降は第一日目に止まり、2〜7日目を働くと聖書のどこに書かれていますか?書いて無いですし、日曜日礼拝に変更になったとクリスチャンが引用する箇所は全て日曜礼拝の話などしていないのです。本当にジャンク スカラシップの教えに覆われてしまって
いるのです。
使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
使徒20:6−7 除酵祭り=過越、種無しパンの1週間を祝ったと言う意味は、シャバット=第七日目もその週の中で祝った事実は明白です。それなのに、種無しパンの祭りが終わって、日曜日礼拝をしたなどと考えているのですか?全ては西洋宗教の教え
を考えているから、聖書とはズレた教理、思索で聖書に書いてない読み違いをしているのです。
週の初め=穂を数える週の初めの事であり日曜日の話などでは
ありません。しかもこの7節の”週の初めの日”と訳していますが
”日”と言う言葉はギリシャ語では入っていません。もし週の初め=日曜日であっても、それは日曜日は活動日だから、パウロたちが旅に出たと言うことになります。シャバットでは旅はしないからです。
もしこの日が週の初めの日であったなら、週の初めの晩がその日の始まりなので、この時は土曜日の日没になるのです。
土曜日の日没イコール週の最初の日が始まる時だからです。
それが聖書の暦なのです。現代私達が使っているグレゴリオ歴で考えたら聖書に書いてある事実は見えません。
1コリント16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
福音書以降でもシャバットとは、第7日目であり、異邦人クリスチャンがシャバット=安息日=主日礼拝=日曜日!と聖書に書いてある意味を勝手に塗り替え別の曜日、教えに塗り替えているのです。聖書に書いてある通りに読んでいない。聖書に書いてない
神の記念日は日曜日礼拝に変更になり、それ以外のレビ記23章の神の招集日は廃れてその代わりに、クリスマス、イースター、ハロウイン<カトリック>になったなど言って実践しているのです。
神に対して、人に対して偽りの証言をしてはならない!とあります。
神=メムラ=言葉=イエシュア=聖霊である事実を理解しないと
ならないのです。神の言葉を破壊する、神に敵対する行為です。
神が伝える”第七日目を聖別せよ!”とは意味の無いモノマネの
言葉を伝えているのでは無いのです。
この日第七日目聖別!この世界がどうして出現したのか?どこから来たのかの事実に全人類が気が付くため、全世界へ伝えている事実でもあるのです。神が全ての業を終え、第七日目に止まった!神が第七日目に止まられた通りに人も止まる!と神が伝える言葉をどうして遮りローマが創作した教えを生きるのが今は正統派と考えるのか?神の前に自分自身に問わないと見えてきません。
シャバットで中心になる考えが1つ1つ繋がって行きます。
神が全てを創造した!神が創造主、神が人を造られ、神が時=暦を造られた!神は神の記念日=モアデイムを司るために天体を
造られた!とヘブライ語では書いてあります。
神の言葉を無視する、付け足し、差し引きする場合には、神の実態を完全なる形で認めない行為である!と言う事なのです。
神が創造されたものは全て美しく、麗しく、人の命に繋がる、
喜び=エデンがあふれるものです。
それを人が破壊し、神の創造されたものを享受する事が出来なくなり、人が作った宗教の性質を生きる様に教えられてしまって
いるのです。
人が創作したものより、神が創造されたものは遥かに優れ、完全であり人を生かす命の源であるのです。
そして神が創造された人間の性質にぴったり沿ったものです。
それらを捨てる事、本当の自分に出会う事、神と顔と顔を合わせて出会う事を妨害してしまうものなのです。
人の教えは無用なのです。しかも神の言葉を遮る人が創作した
教えや記念日やその他宗教儀式は、遺伝子組み換え、偽物コピー
と同じです。
神の言葉に戻ろう!と言う本物の悔い改め、軌道修正が今問われている時代に入ったのです。
神からの贈り物 シャバット
Shabbat Shalom