神の啓示に人は手を加えられない シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

どの国に住んでも、どんな人種でも人のニーズ、性質は全く同じ

である事を実際に体験をします。主が造られた人間は、神がデザインした通り以外を体験する、又は人間関係の中でズレた事をされたら同じ様に痛みます。年代、性別、人種や立場に関わらず

人に親切、助けを与える、心にかける行動をする、それらはどんな国の人でも同等にトヴな体験をする。

社会的立場が上の人にだけ敬意を払うのではなく、人が人であるから、どの人にも同じ様に敬意を払う様に神の言葉を人に教えて

います。神の前に全ての人が同じ存在だからです。

逆に、冷たくされたり、無視される、ひどい言葉をかけられたら

不快になるし、傷付きます。これはどんな人種でも同じです。

神の性質に造られた人の性質とは異なる取り扱いや関わりをされたら、それらはずれているから傷つくのです。

 

人種により時代により人のDNA=神が造られた人間の設計図の

基本的な構造が違うなどと言う事は無いのです。

進化もしなければ、変化もしない。設計図内の中で様々な違いが

あるだけです。髪の色、目の大きさ、肌の色etc etc その様な違いがあっても人間の構造は同じです。

その事実と同じく、神の言葉も永遠不変で変化なし。人が進化

変化しないから、神が伝える人の生き方の詳細も変化しない。

罪や義、救い、贖い、福音の内容も進化、変化しない!

シンプルな事実が聖書の最初から最後まで同じ意味で貫かれて

書かれているのです。

 

国や文化により様々な仕来りや、習慣の違いがありますから、

その文化の中に入ってその国の様々な事を知ると、日本では普通にする事がその国の人にとっては少々奇妙、変と言う事はあります。それらはその文化の中で形成されて来た人間が作った仕来りや習慣であるだけです。

神が人に伝える教えの全ては、神が創造された人間の生き方の詳細を伝えているものなのです。神の教え=言葉を知らないと言う事は神がどんな方であるかよく分からない=自分想像の神像を生み出します。そして実際にどう生きるのか分からない。

これを異邦人の世界でふんだんにやり続けて来ました。

創造主に対して、怒りの神、怒りの時代、呪いの律法などと言う

教えを異邦人はしているのです。こんな思想こそ、聖書に書かれた神の性質を塗り替えている教えであり、その様な思考回路からイスラエルの神を考え、神の言葉をこの様に曲がった思想から

考えている証拠でもあります。聖書に書かれたイスラエルの神像とは違う神像を信じ世界へ伝え続けてしまっているのです。

これらの教理はイスラエルの神が伝える神像とは全く異なる神像を異邦人は編み出して勝手に人に伝え続けているのです。神の

啓示=神の言葉に手を付け始めたら偽の教えが編み出されそれらに拍車がかかるのです。もちろん聖書に書いてある内容を直接は

曲げられない、いや翻訳では書いてある言葉を別の言葉にすり

替えたり、聖書に無い言葉を付け足したり、又は意味合いの違う言葉で表したりその様な事をして、読者に神の言葉が語る事実とは違う印象を与えている箇所が多くあるのです。

神の言葉自体を曲げられない場合、書いてある意味とは違う解説を付け足しして、人間の思想を人に伝えてしまっているのです。

神が神の言葉は永遠に堅く立つ!と説明しているのに、異邦人

クリスチャンの世界では、2000年以降は神の教えが変わった!と言い換えている、その矛盾にさえ気が付いていない。

なぜなら、イエシュアが来られたのは呪いの律法を破棄し、呪いの律法から人を解放するためだ!などとパウロの書簡の内容を

完全に読み違いをした教えだけを聞いているからです。

なぜその様な読み違いをするのか?聖書の最初の部分を原典言語で書かれた意味通りを知らない、学ばないからと言う単純な理由があるからです。神が伝える言葉の意味通りを受け取る側が正しく捉えて聞いていないと言う事が問題なのです。

神は人が生きるのに必要な事の全てを神の言葉で預言者に伝え、

預言者達は神の言葉を文字として記しました。

預言者の代表がモーセです。モーセの五書に書かれた神の口から出た教えは永遠不変で永遠に変わりません。

でも異邦人クリスチャンの世界では、聖書に書いてある通りには

解説していない事柄が多くあります。その1つは、聖書の最初の箇所は福音書以降を理解する手がかりになるだけの用途、福音書以降こそが最高の神の啓示であるなどと言う教理、これらは神の言葉に書かれた意味を理解しない場合にそう考えるのです。

 

神が伝えている事柄の真理は奥が深いですが、そんなに複雑な事

を言っているのではありません。

神が伝える通りを聞くと言う態度があれば、まず理解出来ます。

 

でもそれには、その時代に書かれた言葉を文化背景の中で正しく

学び知ると言う作業は必須なのです。古代に語られた言葉、概念を今現在の自分の文化の色眼鏡を通して誤解して読んでしまう事

を避けるためです。

そして不思議な事に神の言葉は永遠に深く広がっている事を

発見します。なぜなら、私達は被造物であり、永遠無限の神を

自分の頭で全部理解など不可能永遠をかけて神との関係を築いてい行くだけだからです。そしてこの地上でも生涯をかけて神の顔〜実態を追求して行くのです。

神の顔と言うテーマは聖書の中核になるコンセプトなので今は

置いて置きます。

 

今の世界のフェークニュースは、意図的に真実を隠し、違う事を

伝えると言う目的がありますから、自分で正しい情報を掘り出さないと見えません。特に誰かの発言が即座に削除されたりする

場合、それらは臭いと気が付かないとならないのです。

もちろん異邦人クリスチャンは真実を語っている!と考えているのでその様な思想を語るのですが、その裏にあるものは聖書では

無い教えなら、それはエデンの園を這うものが人の口を通して

半分嘘、半分本当を語っている事に気が付かないとならないのです。実はそれが一番厄介で撤回するのに困難な堅く根付いた問題

であるのです。信じる者の口から神の言葉を否定する教えを語らせる、神が神ご自信の言葉の一点一画面でもどの箇所でも否定すると言う主張は、その裏にあるもの、出所は、イスラエルの神ではありません。

まず聖書を一度も読んだ事がない真っ新な状態の前提で聖書を

読み直してみれば、何が書いてあるのか書いてある通りだけを

認めれば、理解出来ます。神は禅問答の様な人が理解出来ない事

など書いてないからです。

未来に起こる出来事の詳細の全貌は見えない、そしてそれが実際に起きてから分かる事がありますが、それはどうして前もって

これこれあれこれになると伝えないのか理由が分かります。

全て予め人間が知っていたら、人は神を信頼しなくても良いと

言う事になるからです。個人の人生でも今があるだけです。艱難の時代に”あなたを守ろう”と書いてある通り、人は艱難を通る事が預言されています。何がどうなるか分からないけど神の救助、助けを信じる。

神は神の深い所にある考え、思索を人に伝えているのです。

私達は神から出た直接の考えを聞いているのです。神の言葉の

大半を無視したら神の考えている事はその個人には伝わっていない事になります。

神は神の時=暦を造られて、特別な日がどの日であるのか人に

伝えています。

昇天以降はいつでも安息日、記念日=人の考えでどの日も聖別されているのであると言う異邦人創作の宗教思想は、聖書の真実でありません。パウロの伝えている言葉を全く誤解しているからです。パウロは100%モーセの五書の支持者であり、パウロは

モーセの五書に書かれた教えの一点一画も変えていない、モーセの五書を生涯実践して生きたと言う事実を異邦人クリスチャンは全く見逃して、人の教えにだけ浸って聖書を曲げて誤解して読み、人にもその様に伝え続けているのです。

神の記念日はとても重要であると神は人に伝えています。

神の子らの生き方の中心でもあるのです。

その中には福音の中核、イエシュアのされた業のエッセンスが

凝縮され、収穫そして未来に起きる世界がイエシュアの統治の

元で生きる、全て預言的要因を含んだ祭り、記念日だからです。

どうして神は命に匹敵するほど神の記念日を大事にして生きよ!と神が伝えているのかと考えるべきです。分からなくても神が

そう言うなら真実である!と先ずは素直に受け止め、神が言われる事を実際に生きる事それが大事な事なのです。それは、やっている内に理解がどんどん深まるからです。一年を巡り、そして

人生の歩みの中で神のデザインしたサイクルを生きる中で様々な事を教えられ、神が特別な出会いをその中でしようと約束して下さっているからです。そして神が伝える日ではない日は”聖なる集会”ミクラ コデシュ”ではない普通の日です。どの日も聖別された日と言うなら、それは神が伝える事実では無い人の創作した思想を伝えているだけです。

上司に呼び出された日、会議の日時を無視して敢えて別の日に出向く事などしません。伝えられた日に伝えられた意味通りの会合があり、指定された日以外に出向いてもその意味のある会合は

開催されない、そこには実体が無いからです。

神は神の教えを変えてなどいない!と言う事実をまず聖書から

把握しない限り、人の創作した教え=宗教の教えの迷路にはまって抜け出せなくなってしまいます。

異邦人クリスチャン達が神の教え〜モーセの五書から決別し始めたのは、神殿崩壊後の70AD以降です。使徒達が全てこの世を

去った後、マルキオンの様な時の異邦人思想の異端者が出て、

古い箇所の聖書は破棄!拒否!パウロの書簡2、3で事足りる、そして、神の教えを今はもう生きる必要などない!と言う今の

時代でも伝統的に語られているベースになる教えがもうそんなに早い時代から異邦人の口により語られてしまったからです。

人の教えの被害の代償です。

でも聖書には何と書いてあるのか?それだけが唯一の根拠であり

永遠の事実、土台であるのです。聖書に書いてある事を無視して人の解釈、創作話を基準に考えていたら限りになく神の語る真実から遠く離れてズレて行きます。本当の福音を私は15年前迄

聞いてなどいませんでした。その事実にさえも気が付きませんでした。部分的には聖書だけれど、塗り替えられた教え。

シャバットとは何でしょう?週一度の神の呼び出し日であり、

それは人のため、神と人と家族、仲間のために設けられる特別な時です。

普段する仕事や作業の手を止める日。努力や生活費を稼ぐ事を

しない日です。この日は異邦人の世界では無休で止まらずに

全てが回転し、お店も開いているし、何も止まらない、普段の日と何も変わらない日です。だから異教の地に住むと感覚的には

シャバットが来た事が見えないのですが、金曜日の夕方には皆

理屈抜きに止まるモードになっているのです。

神が人を神の時をその様にデ時を、人の構造をデザインし造られたからです。

イスラエルでは金曜日の3時頃までにスーパーやお店が全部閉まります。ロシア人やその他の少数の異邦人の店は引き続き開いて

いますが、イスラエルの街全体が止まる雰囲気を味わえます。

昔の日本の様に、お正月で全てが閉まり、家庭で家族が親戚が

集まり楽しく過ごす、小さなお正月の祝いみたいな雰囲気があります。

 

 

続く