トラー 預言書 諸書に神の教えの全て完成版が記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

まがい物=コピー品と本物なら、どちらを選ぶでしょう?

もちろん本物に決まっています。コピー、遺伝子組み換え、
外側の見かけは同じでも中身の性質が違うものです。
 
神の伝える永遠不変の言葉を、呪いの律法とか、人を縛るためのものであった、神が人を試す目的のために与えた人の生きられない教えであるとか、異邦人は様々な解釈を神の言葉に対して主張しています。神の言葉=イスラエルの神を誤解する教えを聞かされて来ましたが、シンプルに言えば、神の言葉=人の命を保護し、繋ぎ、育み、支え、生きるためのものなのです。宗教の教えの様な性質では無いのです。親が子供に生きるために必要な事を教える。子供に人としてどう生きるか教える。子供がその内容を
よく深く理解出来ないから呪いの厳しい律法と呼びますか?
 
トラー=神の言葉、教えとは、様々な言葉の意味と繋がっています。トラー=神の教え、インストラクション、ヨレー=10月以降に降る、春から夏の間1滴も雨の降らないカラカラに乾いた大地を割る、作物が植わる準備をする雨。ヤラー=教える、<的>を打つ、投げる=神の教えの中心に当たる事、アーチェリーの矢を的の真ん中に当てる、その路線に乗る事。
そして、ホレ=親 モレ=教師、これらの言葉のルート文字は
同じで共有され、同じ意味で繋がり、意味を共有してる言葉なのです。親は律法を与える人ですか?いいえ、子供を教え、導き
成長に必要な助けをする役割があるのです。
 
人が神の子とされた後、神の教えを聞いて生きないなら、神が
用意してくださる成長過程も、豊かな収穫=御霊の実も望めません。宗教の実を得て、神の命溢れる実は大地=頭脳の中には収穫は期待出来ないのです。
かしらと言う言葉は”ローシュ”と言う言葉で頭と言う意味です。
頭脳に全て必要なデータ、機能が搭載されるからです。
頭脳の中はエデンの園の木と同じ、脳回路は木々の枝と同じです。良い地とは頭脳を語っているのです。
良い地=神の言葉を受け取り理解する頭脳。その頭脳はヨレーの雨で硬い大地を叩き割り、柔らかくし、種=神の言葉を植える
準備をするのです。全部神が創造されたものを通して教えられているのです。その頭脳に、違う種=毒麦の種人の教えを蒔いたら、宗教の実=毒麦が生えて、収穫時にその毒麦は引き抜かれ
火にくべられて燃やされると書いてあるのです。
人の思想=宗教の教えは最後に刈り取られて燃やされる!と
言っているのです。
ゼカリヤ書の最後にも神の家=神殿には商人=偽物の教えを売る人はいないと書いてあるのです。
 
ゼカリヤ14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、
万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は
来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。
その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
イザヤ66:22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。

66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。

 
創世記11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
コヘレト7:29 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。

そして、2000年前に初めて新たな真理が神により初めて伝えられたと言う教えは聖書に記されている教えではないと言う事を本当に知る必要があります。

なぜなら、聖書に記されている聖書記者達は100%、タナックだけを語っているからです。
 
1コリント15:3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

15:4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと

パウロは、聖書=タナックから、メシアが罪のために死んだ事、

タナックに書かれた通り3日目によみがえったことと書いて
います。
パウロは、福音書を指して、聖書などとは言っていません。
 
もちろんイエシュアがされた事をエルサレムに居て知っているの
ですが、聖書=モーセの五書、預言書、諸書に書いてある通り
わたし達の罪のために死に、3日目によみがえられたと書いて
いるのです。
なぜならパウロがコリント人への手紙を書いている時は、福音書など存在しない、流通していない、読んでいないからです。
福音書を書いた使徒達も100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書だけを指して書いている事実だけに立って福音書〜黙示録の内容を読めば、真実が見えて来ます
パウロが書簡を書いている当時は、聖書として福音書は存在しない、流通していない、人々は読んでいないと言う事実から考えて
下さい。書いた本人、それを読んだ誰かが時間をかけて書き写す
それがされていただけです。

パウロは、タナック=トラー、預言書、諸書の中に罪のために

イエシュアが死なれ、3日目によみがえったことが書かれている
と書いているのです。そんな事どこに書いてあるの?メシアが
タナックに記されているのです。1世紀の人達、福音書以降に
登場する人達は100%全てタナックのみを指して聞いている、
考えているのです。
タナックの中にメシアに関する完全版の啓示が書かれているのです。だから、その内容を知っていた人達が、イエシュアがタナックに書かれた救い主であり、その方がとうとう地上に来られた!
と気が付く事が出来た訳です。メシアの詳細が記された根拠が
タナックに記されている、だから”イスラエルの失われた羊の元にだけ遣わされた”とイエシュアが言われた意味が理解出来るのです。イスラエルの神の、イスラエルの神の国、神の栄光、性質を
表して生きる民を選んだ。
神の栄光、性質はどうやって表れ出るのでしょうか?
神の性質通り=神の言葉に書かれた生き方をする事により、
周りの人にイスラエルの神の栄光の姿、実態が行動により見える
のです。神の性質それらがモーセの五書に書かれているのです。
神の性質=神の似姿に造られた人が生きる詳細なのです。
神の教えのどの箇所でも捨てたら、その生き方はイスラエルの神の性質とは異なるものになり、人の教えにすり替わり、神の栄光が正しく正確に地上に現れ出ない!だから異教の神々の教え、
性質、慣わし、習慣、文化に混じった事をしてはならないと警告されているのです。
パウロが言った様に、この世界の人達と一切関わらないと言うならば、この世から出て行かなくてはならないと言う事になって
しまうのです。私達は人里離れて隔離して生きる様には造られて
いません。山奥にでも住めば?それは神の伝える生き方ではないのです。
この世にあってこの世のものではないとイエシュアがヨハネ17章で神の子らの姿を生きる知る事を祈った様に、この世にありながら、この世に属さない=天の現実に属する人達、この世の性質に染まらない、異教、異物に属さない生き方をする、それには
神が伝える人の生き方が何であるのか?をはっきり知り神が伝える実態を日々の生活の中で生きると言う事です。
 
メシアが書かれた箇所は、タナック=モーセの五書、預言書、
諸書だけを指して聖書では書いてあり、それらがタナック全体に見つけられます。
そして、タナックを知るとイエシュアがされた事の意味をより
深く広く理解する事が出来るのです。
それらを太古の人たち、アヴラハムを含め、まだ見ぬイエシュアを神の言葉からだけで理解していたのです。
新訳聖書が一番最高級の神の啓示であり、それ以外は全て付属品新約聖書を理解するための補足品、イエシュアを示すための布石であると異邦人クリスチャンは考えているのですが、全く逆なのです。
それであったら、聖書はマタイ〜黙示録が最初に持って来れば良いのであり、そして黙示録の後に創世記〜マラキと言う構成にすれば良いのです。
でもそうではない理由は、聖書の最初に神の教えの全ての完成形が書かれているからなのです。
福音書以降は、創世記〜マラキに書かれた内容の短い注解、
タナックに書かれているイエシュアの業の事実を地上で証明された後書き記録だからです。付属、後書きです。

神の性質、人が生きる詳細を知るには、タナックを無視したら

その詳細は、福音書以降だけでは知る事は出来ません。
異邦人クリスチャンの世界では、福音書以降だけが重要であり
それだけで事足りて、そこに全てが書いてあると誤解しているのです。
福音書以降は、付属です。使徒達が書いたタナックの中に書かれた事実が地上で実現された注解、解説である付属の部分なのです。その中には罪の定義の全ては書かれていません。
義の定義も、愛の定義も、聖別の定義、聖書に書かれている言葉
親切、寛容、許し、和解、その他諸々人がどう生きるかの詳細も書かれていません。
福音は最初の最初からタナックの中で伝えられているのです。
神の教えの完全なる内容がタナックには書かれているのです。
永遠からあるイエシュアの贖いの業、完了の業を地上でも証明して下さっただけなのです。神の教えは何も変化していない。
だから未来には世界の全てがエルサレムに来て、神の記念日を
祝うと書かれています。世界=国の代表が来て、そして世界中の
各地で神の記念日が祝われると記されているのです。
タナックに書いてある事を実際に証拠としてイエシュアが見せて下さった、それが地上でのイエシュアの贖いの業であり、その
実態は永遠から歴史の最初から最後までずっと同じ!同じ福音!道は1つである、イエシュアを通してでなければ誰も父の元に来る事は出来ないとイエシュアが言われた事実通りだからです。
二つ別の福音、時代ごとに別の義の基準や罪の定義が変化する
とか、人種ごとに神の教えが異なるとか、そんな教えは聖書に
書いてある、永遠に変わらないイスラエルの神、永遠に堅く立つ
神の言葉と紹介されている実態とはまるで違う人の創作した空想
想像、人間的な肉的解釈の教理でしかないのです。
 
メシアがタナックに書かれている。その内容は深いものであり、
タナックにこそ、神の奥深い教えが埋蔵されているのです。
神の言葉を探らない、学ばない、故に知らない、イコール、
イスラエルの神の性質が分からない、自分が誰か分からない、
神は人をどの様な性質に創造され人は神にどの様に生きるのか
伝えられているのに、それをほとんど無視したら、本当に空想、想像、自己流の解釈、悟り、自分の文化の自分の頭の中にある
偏見、文化思想、価値観や概念を通して神の言葉を曲げて歪めて受け取ってしまう事になるのです。
タナックに書かれたメシア像がどんなものか、古代の人達は
タナックから、メシアを知っていた事実があるのです。
現代の人達よりもっともっと深く神が伝える真実=神の言葉を
理解していたのです。
 
 
続く