神の言葉はいつどこで変更されたと聖書には書いてあるのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界での最近の”トラームーブメント”は、イエシュアとイエシュアの使徒達が宣言した正真正銘生粋で本物である

”神の王国の福音”が知りたい、理解したい、そして神の教えを

生きたいと言う切なる願望の故に、聖書全体を通して再検証、

再学習しよう!と言う動きがあります。

 

特に使徒達が神殿崩壊以前、70AD以前に教えていた”その道”のものと呼ばれたコミュニテイの中で教えていたタナックの内容を再検証しようと言う世界的に大きな動きがあります。

 

私個人の中でオリジナルの聖書=ヘブライ聖書をヘブライ思索で

書いてある意味通りに学ぶと言う事を知る以前の聖書に対する

様々な誤解や勘違い、偏見は何度も書いてきました。

多くの異邦人クリスチャンは、聖書ではなくて、誰かの考えた

人の思想を通して解説される、異邦人の目から見た聖書の解説を聞いています。

そしてそれが聖書に書かれた本当の内容であると疑いも無く信じているのです。

大きく分けると、神の言葉とは、原始から発展する、詰まり原子福音などと言う言葉で表される思想から語られる教え、創造の最初は原始的な教えで、イエシュアが来られたら完成形の教えが初めて出現し伝えられたと言う思想です原始と比べ最新=新訳などと言う言葉のトリックで、卵から生まれたひよこが鶏に成長するみたいな感覚を神の言葉に対して持ってしまっているのです。

 

福音、イエシュアの業により贖われ、その事実を認め受け取る

だけで、義とされ神の子とされる方法=福音、救いの方法は最初から最後まで、1つしかない同じものである、人種別、時代別に異なるものではないのです。わたしが道であり真理であり命である、わたしを通してでなければ”誰も”父の元に来る事は出来ない!ヨハネ14:6と言われたイエシュアの言葉を額面通りに理解しないとならないのです。クリスチャンは、イエシュアが地上に来られる前と後とでは違う救い、違う救いの性質、実態、内容が存在したと教えられてしまっているのです。2000年前までは完全なる救いはない!、モーセの五書を生きる事でかろうじて許されたなどとも解説してます。

どうして聖書に対してその様読み込みや誤解をするのか?

1世紀に居た使徒達、それ以前に居た残りの民、預言者などとは違う教えを聞いているからです。彼らは100%タナックのみから、福音書以降に書かれているまだ見ぬイエシュアの実態を知って、内側に同じ救い、聖霊を受けて生きていた事実が聖書には書かれているのです。

その理解はタナック=モーセの五書、預言書、諸書の中に書かれた福音の詳細、イエシュアの業、イエシュアが書かれている、

神に似姿に造られた人間の生き方の内容を、タナックから理解しないとイエシュアの言葉の意味が見えないのです。

異邦人クリスチャンの世界では、古い教え=タナックに対して

相当の誤解、偏見と先入観を教え込まれ持たされ聖書に書いてある通りを正しく知る教育を1世紀後半からされないまま、人の

思想や教えを通してだけ聖書を教えられている事に気が付いて

さえもいないのが実情です。

こんな意識があると思います。神の古い教えを生きるとか、神の

創造された記念日を生きることは、イエシュアが実際に来られた

のだから、その様な只の影の役割であるものを生きる必要がなくなった、神の祭りを生きる事はイエシュアが教えられた礼拝や

教えを損なうものであるのだとまで考えて教えているのです。

そう言う発想や概念はどこから来ていると思いますか?神の言葉ではなく、神の言葉に敵対する意識を持った異邦人教師達、

人が作った思想の方が神の言葉より優れていると考えている、

1世紀後半には既に反モーセの五書思想を人々に教え始めた、

その様な異邦人達の思想洗脳教育によるものである事実を、キリスト教歴史の中に起きた事実を1つ1つ確認すれば、事実が浮き彫りになって来るのです。多くの初代の西洋教父達、中世の歪んだ神学、ルターを含め、又は近代の神学、ダービーの様な思想だけを教えこまれているからです。

そして、聖書にある聖書と言う言葉はタナックのみを指している事実があり、聖書を書いている記者達にはタナックしか存在していない!と言う事実が見えないとなりません。福音書〜黙示録を書いた記者達にはタナックしか存在していない事実を深く考えて行けば見えてきます。

例えば、学校の教科書がありますね。それに対して誰かが解説する後書き、あんチョコ的な参考書は付属物です。その教科書に

書かれた内容を説明しているものであり、その教科書の内容を

塗り替える様な解説は参考書には書いてありません。

福音書〜黙示録は、参考書の如く、タナックに書かれている事が

地上で証明された事、イエシュアが地上に実際に来られ、モーセの五書を書いてある意味通りに解説し、実際に生きて、永遠の中

からある贖いの業を地上で見せて、神が伝える言葉=贖いが事実

である事を実際に証明されたその記録、そして、世界へ同じ

神の教え=トラーがエルサレムから出て伝えられる、そして

パウロが諸外国でトラーに基づいた問題解決を教えている、

最後はエデンに戻る、それらタナックに関する短い注解書=

使徒達が書いた書簡が福音書以降であるのです。

福音書以降には、本文=本書=タナックに書かれた内容とは

違う教えや解説など1つも書かれていません。

どうして異邦人の世界では福音書以降、特にパウロが書いた書簡の内容を誤解して聖書に書かれている内容と違う解説をしてしまっているのか?それはタナックを原書に書いてある意味通りを

学ばないまま、異邦人教師に教えられた反モーセの五書思想に則り、タナックは無効、又はユダヤ人だけの教え、又はユダヤ人にキリストを伝える時だけに引用するものであるなどと考えているからです。聖書に関する教育の欠落が本当の問題なのです。

福音書〜黙示録に書かれている内容が100%タナックを解説しタナックにを土台に同意し解説している事に全く気が付いていず新しい最高級ヴァージョンの神の啓示がやっと示されたなどと

勘違いした読み込みをしているのです。

そして、使徒15章に書かれている事でも分かる通り、1世紀

当時のユダヤ人も、異邦人を受け入れる事に関して躊躇した事実

があるのです。それは、ユダヤ人の中にあった当時のラビ達の

教え=口頭トラーでは、汚れた異邦人=契約の中に無い民、

ユダヤ人になる改宗儀式をしない異邦人とは交わりをしては

ならない。それは関係を持つ事、それらの人達と婚姻したり、

食事をしたり、その様な事さえしない、詰まり全く関わらない!

と言う様に教えられていたからです。

そう考える理由は分かります。使徒15章でイエシュアを信じた

後も、異教徒の神殿に入り、汚れた動物をトラーに反する絞め殺しで屠り、血を食し、そして神殿娼婦に交わる、そんな事を

異邦人がしていた、神の教え=トラーに書かれた教えを全く

理解しないまま、イエシュアを信じて、生きている内容は汚れた

異邦人、異教徒と同じ生き方をしていても、神の教えを知らないからそれらの罪=ズレに気が付いていない異邦人達が、ユダヤ人の仲間に加わる。その様な事はもちろん受け入れられないのです。

だから、パリサイ派のユダヤ人との交わりに異邦人達が加わりたいのなら、最低限神の教え=トラーの中で破ってはならない事柄4つだけをまず理解してと言うのがエルサレム会議の内容であったのです。

もし、イエシュアを信じながら汚れと交わり続ける人達を

何も正さないまま仲間に加える事など出来ないので、それらを

パリサイ派が異邦人達に通達したのです。

そしてユダヤ人達の中にある偏見、当然なのですが異邦人=

汚れた人達とは交わってはならないと言う考えが存在していた

今も実際にその様な意識はあるユダヤ人達の中にも存在しているのです。

一般の異邦人は神の教えを知らない。そして神の禁じている行為を普通に生活の中でする。その様な神の前におぞましい行動をする人達とは交われないと考えるのは当然なのですが、伝統で長く根付いた意識とは簡単に拭えないのです。

それと同じく、異邦人の中にも長い年月1900年もの間、異邦人の世界で教えられて来た、非聖書的教え=反モーセの五書、

その根底にある反ユダヤ思想があるのです。アジア人の中にはそれは余り無いです。でも西洋人の中には反ユダヤ思想はとてもとても根深く存在しているのです。マルチンルターでさえ、彼の著書の中で、”ユダヤ人を殺害するのは神のみ旨である!”とはっきり書いてしまっているのです。それは、ユダヤ人がイエシュアを信じないうなじのこわい人達であり、神に逆らう者たちであるからだと言っています。でも、ルターの伝えたイエシュア像は、聖書に書いてあるイエシュア像では無い、神の教えを捨てよ!神のシャバットや記念日を破棄せよ!などと教えるその様なイエシュア像は書かれていないのです。神の教えをガードし、神のモアデイムを代々永遠にガードし世界へ、地の塩世の光としての役割を与えられた民としての役割、立場をはっきり知ってガードしていた人達に、神の言葉とは違う教えや、偽のイエシュア像を伝えたので、その偽物の教えに抵抗していたのだ!と言う事に全く盲目のまま、晩年はユダヤ人に対する嫌悪、憎悪を燃やし、彼らが抹消される事を願う書を書いたのです。でも聖書には、契約の民は滅ぼされないと書いてあるのにルターは神の言葉を正しく理解してはいなかった事は明らかであり、反モーセの五書、反ユダヤ思想は神に直接敵対する事である事にも気が付いてはいなかったのです。

メシアニック ムーブメントでさえも、聖書とは違う教えを

しているグループが存在します。

ユダヤ人はユダヤ人だけ、異邦人はクリスチャングループに戻って、別々になりなさい、そしてユダヤ人はユダヤ人のイエシュア信者とだけつるんでetc etc。

でも聖書には何と書いてあるのでしょうか?

聖書には人の考えや思想とは全く違う事が記されているのです。

神の中に、同じ契約に加えられた人=神の子らはイスラエルの残りの民と世界の民族の中で神に呼び出された同じ残りの民で構成されるものである。様々な人種や背景の違いがあれど、1つ家族として1つ神の中に繋がれる事実しか聖書には書かれていないのです。

神がアヴラハムに与えた約束”あなたを通して世界の民族全てが

祝福される”と神の口から言われたのです。1人の人を選び出して

その人を通して同じ祝福=同じ贖い救い恵、全て同じ内容を

世界の残りの民に与えられ、祝福される!と言われたのです。

同じ神の国の共同相続人であると書いてある事実を無視し、人は自分の考えで神の伝える事実ではない、様々な思想で神の言葉を塗り替えた教えを作り続け伝え続けて来ました。

今終わりの時代に、神が伝える本物、生粋の教え=純粋なみ言葉=神が意味する通りの聖書に書かれた事実が知られる、神の教えを知ろうとする人達に聖霊は必ずその真実を神の言葉の中から教えて下さいます。書いてある通りに、神が伝える通りに、全部は理解出来なくても、少なくとも神の言葉は人種により時代により

変化などしない!と言う事実にだけ立って聖書を読めば、今まで

気が付かなかった様々な事を発見します。

世界で伝えられている大衆に浸透した教え、又は世界に流されている情報は嘘が多い!と言う事実に気が付いて考えれば良いのです。歴史の内容も改ざんされた、人に信じさせたい内容に変えている。今世界で起きている出来事も、その裏にある本当の事情を

知らない人達には全く理解出来ないのです。

でもそれを知る人達は、真実の点と点を繋げて考える事が出来る。自分の身を安全に守る事が出来る。知らない場合は、自らをモレク神に差し出す行為をし多くは被害を受けて行くのです。

ある情報が消される、隠される場合には、その裏には真実を知られたくない存在がいる!と言う事に気が付いて見れば良いのです。神の言葉の真理も同じです。当の事を知らせたくない。

それには、神の言葉を覆い隠すのが一番良い、神の言葉から意識や注意を反らせる教えをすれば良い。そして大衆に、信じる者の口から、教師の口から、影響力のある人の口から神の言葉の真実ではない教えを流す!これが一番てっとり早く浸透させる方法であり、嘘か誠かを見抜けない程、騙しやすい事でもあるのです。

嘘も100回言えば本当になる。調べない者は騙される!

嘘が世界1周駆け巡るのは、ズボンを脱ぐより早いと言う言葉

通り、神の警告はエデンの園から同じです。

”騙されるなかれ!”半分真実、半分嘘を囁いたあのエデンの園の

動物の口から語られた神の言葉を曲げたメッセージ。それが

諸悪の根源であるのです。だから熱心に神の言葉を求め書いてある内容を忠実に探る。それらが私達の命の源=聖霊=言葉に

繋がる秘訣であり、エデン=喜びが溢れる秘訣である事が

聖書には書かれているのです。

 

神の臨在は世界に満ちているけれど、神は汚れた場所には存在

しない事、聖別されている場所=神の言葉=ここに臨在があると

教えている、目で見える形=契約の箱=神の臨在がある=神の言葉が存在する=チェラビムがガードしている。

神の言葉をガードして生きる!命が溢れる。