残念な事に異邦人クリスチャンがユダヤ人のグループと決別した後、タナックは異邦人クリスチャンに取り、益々意味の無い、
重要性の無いものとしての扱いになり、異邦人クリスチャンの
世界では、”新約聖書”=福音~黙示録”だけに土台を置く信仰に
移行してしまいました。詰まり、福音書〜黙示録に書かれた大元の意味、定義が書いてある聖書の最初の70%をよく学ばない
信仰に入って行ったのです。それが起きたのは1世紀後半、神殿崩壊以降、ユダヤ人達が散らされ、そして使徒達が亡くなった後
起きたのです。モーセの五書を生きる事に対してのローマ帝国による処刑、弾圧、重税から逃れる保身の為にそれらがなされ始めそして異邦人教師達による異邦人のための異邦人による異邦人が創作した教えで、モーセの五書を退け、反モーセの五書を唱える様になって行ったからです。神は神の言葉も神の性質も変えていない!と言う聖書に記された事実にだけ立つ。
だから、ユダヤ人達の様にモーセの五書を端から端まで丹念に
学び続ける、預言書や諸書を同じ様に学び続ける、その様な学びが無いどころか、もしかして生涯創世記〜マラキなど全体を通して読んだ事さえ1度も無いと言う場合も殆どではないのでしょうか?まして、そこに書いてある内容を深掘りし学ぶなど無い。
ある箇所だけを取り出して参考程度に読む、その様にする様にも教えられるからです。
新約聖書にこそ一番最上級の教え、最上級の真理が明かされているなどと教えられ、聖書の最初の70%は、福音書〜黙示録に
辿り着くための道しるべとしての光を与えているだけだなどとも
解説しているのです。タナックに何が書かれているのか知らない
人達が解説している事は明らかです。
1世紀、福音書〜黙示録を記している記者は100%タナックのみをさして、タナックしか聖書と言う意味で語られず、タナックしか1世紀の世界には存在していないのです。しかもヨハネが
黙示録を書いたのは2世紀近くであり、福音書〜黙示録が聖書として認識されたのは、5~6世紀以降、しかも全て手書きによる
書き写しでそれらが手書き書物として作られるので、ある特定の場所にしかそれらの書は存在しないのです。
異邦人の世界であれば西洋教父たち、修道士が修道院で保管する以外、中世でも異邦人の間では、一般の個人が聖書を読み学ぶ
などと言う機会がないのです。詰まり1世紀の人達は福音書〜
黙示録の存在さえ知らなかったのです。
聖書に聖書と書いてあったらそれらは100%、モーセの五書、
預言書、諸書のみを指して全て解説している!と言う永遠の事実に気がついて聖書を読めば真実が見えてきます。誰もモーセの
五書を否定した教えを聖書の記者は記していない!と言う真実に目覚めれば、聖霊に教えられます。聖霊に教えられていると
思いながら、ある事柄には完全盲目であるのは、自分の信じている内容が聖書では無いからです。なぜある人達はマリアが生き神さまであると信じるのですか?聖霊がどうして事実を教えないのでしょう?聖霊は常に神の言葉を通して教えています。神の言葉=聖霊は神の言葉で真実を伝えているのに、受け取る側が聖書に書いてある通りを把握しないから事実が見えないのです。マリアが神では無いと気が付く=聖霊に教えられるのは、聖書の真実に立つ、気が付く場合のみ可能になるのです。聖書に書かれている事と違う事を信じたらその内容に対して自分の理解、頭脳は開かずの間!になるのです。だから神が伝える真実をまず知らないと始まらないのです。半分真実、半分嘘!混ぜ物の教えが一番厄介な問題なのです。
神が語る真実か人の教えなのか聖書を正しく知らない人にとっては、嘘か誠か見分けが付かなくなるからです。
神の使徒、預言者達はモーセの五書を否定する訳が無いのです。
神と神の言葉は変化すると言い、否定する、ないがしろにする、削除、付け足しして良いなどと考えるのは異教徒思考の異邦人だからです。イスラエルの神の性質=永遠不変と聖書に書いてある事実を読み取れない人達がそんな発想をしているだけなのです。
イエシュアが伝えているのは、タナックである事実!福音書以降には、イエシュアが地上でタナックに記されている事を生きた
記録であり、タナック、父の教え以外の別の新しい教えなど
イエシュアは一度もされていない事実に目が開かれないと聖書の真実が覆い隠されたままになってしまいます。
ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、
説きあかされた。
エゼキエル 20:20 わが安息日=シャバット=第七日目を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。
創世記〜マラキはユダヤ人だけへの教え、又はある部分だけ有効
などと言う人の創作話を信じれば、神の言葉はその個人の中でも
同様にたくさんの神の教えが抜けてスカスカになります。
ネットで主日礼拝、安息日礼拝=日曜日礼拝として配信していますが、それは聖書の語る、定義する安息日ではない、聖書では
日曜日は普通の日=週の第一日目の労働、活動の日なのに、聖書の安息日=シャバットと言う定義を塗り替えて他者へ発表している、神の言葉に付け足しするなかれ!を容易に破りながら、半分真実を伝えると言う事をしているのです。どう言う意味か考えれば良いのです。神が伝えている事とは違う事を言い、実践して
世界へイスラエルの神像とは違う教えを伝えてしまっています。永遠不変のイスラエルの神像を塗り替えて世界へ伝えているのです。コロコロ時代ごとに人相と言葉を変えるイスラエルの神像は人の創作した偽物の神像です。
聖書に書いてある真実、イスラエルの神は永遠不変であり、
神は神の言葉や約束、神の記念日を変更していないのに、
昇天以降神の教えと神の性質が怒りの神から恵の神に変身し、
永遠不変と紹介した神の言葉が変わって、古い教えを終了して
自由選択として生きて良い、又はユダヤ人だけ生きよ!などと
聖書に無い思想を信じて主張し続け、イスラエルの神像を別物として他者へ伝達しているのです。
自分の信念で、神の言葉を変える、曲げても良い?、いいえ、
神の言葉を曲げて伝えている事にさえ聖書を読みながら全然気が付けない程、神の言葉の真理に対して盲目状態なのです。福音書以降に、安息日=日曜日であるとどこに書いてありますか?彼らの世界は日曜日は労働の日であり、自由な休みの時間では無いのです。神が創造された記念日の全ては永遠不変であり、
神が!それらのアポイントメントの日を聖別しているのです。
人が聖別した日は、自ら勝手に聖別した日であり、神の聖別=
神の目的通り分かたれた日とは性質も日時も異なるのです。
シャバットは神と人とが関係の中に存在している永遠の印である!と神が伝えているのです。神の教えを1つ曲げれば、全部
曲げる事が可能になります。PDFからただのWordに変更し、
中身を変えて付け足し、削除可能状態にしているからです。
でも人が神の言葉を変えても、神の言葉は変わりません!
タナックを排除して、タナックを学ばなくなった結果、福音書以降に書かれている内容を多大に誤解して解釈し、適用を誤る、
間違った捉え方、乱用する様になってしまったのです。
メシアのキャラクター、性質、特徴が、ノンユダヤ人=非ユダヤ化された救い主と言うものに変貌、変身、変形させてしまい、
西洋思想、西洋化された教え=西洋宗教の教えに変身させてしまったのです。
その救い主は、ご自分で選ばれた花嫁であるイスラエルの民を
拒否し、退け、ご自分の言葉=約束を全部破棄したと異邦人は言い、その代わりに 新しい花嫁=異邦人のグループをの方を重要視する様になった、新しい教えが出現したと異邦人クリスチャンの世界では教えています。又は契約はユダヤ人だけのものと
デイスペンセーション神学は言います。
旧約とは、古くて時代錯誤の教え、今に合わない教え。
新約はイスラエルに変わる新しい人々への教えと言う意味で捉えています。
悲しいことに殆どの異邦人クリスチャンの大衆は、タナックを
反ユダヤ思想で論じる4~5世紀の異邦人西洋教父たちが書いた文献に照らし合わせて考えてしまっているのです。タナックを
知らない、西洋人が解説する思想を通して、神の言葉を歪めた
解説だけを聞き続けて、聖書に書いてある通りを聞いてはいないのです。
ヘブライの聖書は、異邦人クリスチャングループには意味のないものであるとし、タナックは異邦人クリスチャンたちの特権を
証明するためのものとしてだけ機能していると言うのです。
新訳は異邦人グループが独自に定義するに十分なものであると
主張しています。
もし”キリスト”を知りたければ、福音書から知ることが一番で
あると言っているのです。そして古い箇所を参考にするのは、
ユダヤ人を説得する時にだけ必要であるのだと主張します。
この様な思想、思考回路は現在も世界中に浸透しはびこっていると思います。異邦人クリスチャンのグループで教師たちが語る
教えは、”新約聖書”は信者達のための真理が形成されている書であると教えます。
そして歴代の異邦人グループの議会がタナックと完全に縁を切らなかった事は気にしないで良い、しかし彼らの教典の中にしっかり保存しているのである。我らクリスチャン達が正しく告白しようが、教えや実践を通してタナックを適用していても、現代の
異邦人クリスチャンには古い箇所=旧約聖書は、真理の土台で
ある新約聖書のおまけ、付録の様なものであると言っています。そしてその様に神の言葉を取り扱い、実践しています。
この様な理由から 新訳の箇所にメシアが書かれているなら、
なぜ古い箇所を探ってメシアを知る必要があるのでしょうか?
と考えるのです。
古い箇所=旧約聖書は、新約聖書の単なる影ではないのですか?
と言うのです。聖書の最初の箇所にこそ救い主の実態が深く解説
されイスラエルの神がどんなお方であり、私達がどの様に生きる
のかの詳しい詳細が書かれているのです。
だから聖書の70%もの量を占めて解説しているのです。
ヘブライ聖書は、使用説明書=マニュアルではありません。
どう言う意味でしょうか?新しい電気製品、パソコンなど購入した時に、使用説明書が付いてきますね。マニュアルと英語では
言いますが、最初にそれを読んで大体その機械をどう使うか、
使い方を覚えたら後は使用説明書はどこかにポイ置きして
もう取り出して見たりしません。どこに説明書があるのかも
忘れてしまうのです。
神の言葉=タナックは使用説明書ではないのです。タナックは、新約聖書をどう活用するかの説明書でもないのです。
タナックこそが聖書の全ての土台であるのです。その中でモーセの五書が全ての聖書の土台、中核なのです。それ以降の預言書、
諸書は全てモーセの五書の解説であり、同等に福音書以降もモーセの五書、預言書、諸書に書かれた内容の短い注解でしかないのです。
本書〜神の教えの全てが書かれた箇所=タナックを端折れば、
福音書以降に何が書かれているのか、勝手な解釈で誤解した読み込み解説をしてしまう事は免れないのです。
本文=原文=原書を読まないで、短い後書きだけを読んでも
何が実際に語られ書いてあるのか正しく理解出来ないのです。
聖書に書かれている内容、意味をタナックから知らないなら
福音書以降に書かれている内容、意味を正しく理解把握する事は
不可能です。
神が定義する様々な事はモーセの五書に書かれているのです。
愛、贖い、救い、罪、義、恵、祝福、許し、聖別、神の記念日の意味、福音、その他の神の仰せの定義は全てモーセの五書に完全版として全て書かれている。モーセの五書が聖書全体の辞書の
役割をしているのに、その箇所を読まない、意味を知らなければ、空想、想像、自分定義の読み込みをしてしまいます。
だから、福音書〜黙示録だけを読む場合、聖書に本当は何が
書かれているのかよく見えないのです。
逆にタナックを熟知していたら、福音書〜黙示録を読めば
そこに書かれている内容が100%タナックの短い解説が書いてある事実に気が付けます。
聖霊により霊感により啓示された トラー、預言書、諸書=
タナックでイスラエルの神はどんな方か、私たちが誰か、メシアに帰する信仰により神とどの様に関わるのか、そして神の性質
通り、神の栄光を反映する生き方とはどんな生き方なのか?
それらの詳細の全てが書いてあるのがタナックであるのです。
それを捨てるとは、神の教えている教えが見えなくなる事を
意味するのです。
タナックは~イエシュアの実態に住まう、イエシュアの中に居る私たちが誰であるかどう生きるかが書かれている書なのです。
福音書以降の使徒の書いた書簡は、タナックと繋がっている継続であり、神がタナックで書かれた内容、預言が完全であり、絶対であることをイエシュアが地上に来られて神の似姿の完全なる
生き方、そして約束、預言、そして永遠の中からある完了の業を
地上で見せて実際に証明された事なのです。
タナックに書かれた内容と100%マッチしているからです。
2コリント1:20 なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。
イエシュアがタナックで語られた約束のメシアであった事が地上で証明された、その短い解説が書いてあるのが福音書以降の内容であるのです。
タナックに書かれた福音、メシアは至る所に記されています。
創世記3:15.9:25−27
12:1−3 18:1−3
32:30−33神の使者
出エジプト 24:9−10 神の使者
24:9−10
創世記49−10−12
民数記 24:15−19
申命記18:15−19
1サムエル 2:35 2サムエル7:16−19
預言書 祭司 王 イザヤ 7:14
イザヤ9:6 11:1−2 52:13−53:12
ミカ 5:2 ゼカリヤ 6:12−13 12:10
詩篇 22:16 110:1−4