シャバット 神が伝える言葉の事実だけに留まり生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降シャバットが祝われている記録が書かれています。

そして福音書〜黙示録には、レビ記23章に書かれた神の記念日が破棄されて、その代わりに日曜礼拝、クリスマス、イースターが祝われる様になった事など1つも聖書には書かれていません。

神の教えが昇天以降終了になり、その時以降から新しい教えを

生きる時代に入った!などと言う神からの指示も1つも書かれてなどいません。神の言葉は永遠不変!と言うことしか聖書には

書かれていません!

 

だとすると、どうして聖書に無い教えを異邦人クリスチャンは

唱え、聖書に無い記念日を異邦人は祝っているのか?と言う

その教えの出所、根拠、由来を調べ考えてみれば良いのです。

全ては、聖書が閉じられた後、異邦人が創作した教えや、記念日を異邦人の世界では伝統で教え続け、継承し続け、実践し続け

今日まで至っている!それが永遠の真実なのです。

聖書を調べて、神の言葉が廃れた、神の記念日が廃れて、

日曜日礼拝、クリスマス、イースター、もしくは、個人個人が

勝手に編み出した日、それらを個人で選べば良いなどと言う、

そんな教えは聖書のどこに書いてありますか?書いてなどないです。そしてパウロが書いた書簡の内容をパウロが意味していない教えに勝手に自分流に解釈し、神の言葉を塗り替えているだけなのです。

パウロは何度も公に100%モーセの五書を支持していると弁明し、生涯死ぬまでモーセの五書を教え、生きて実践した事実しか

存在していない聖書に記された事実を知るべきです。

 

聖書に記された神の言葉こそが、人が創作した教えが偽物である事を証明しているのです。

人の創作話は真実ではなく、神の言葉が真実であるからです。

 

聖書に記されていない日曜礼拝、クリスマス、イースターの祝いそれらの教えや記念日は聖書が閉じられた後に異邦人の世界で

創作され出現した!と言う単純な事実に気が付けば良いのです。

聖書に書いてない事=それらは聖書が閉じた後に出現した教えである!置換神学も、デイスペンセーション神学に至っては19世紀に登場した異邦人創作の思想、教理である!その事実を知れば

聖書とは異なる思想がどうして蔓延したのか、歴史の事実を

探れば良いのです。神の言葉は永遠から永遠に変わりません。

 

ヨハネはパウロが処刑された30年も後に黙示録を書いているのです。その時さえも異邦人の世界でもモーセの五書が教えられ、

神の記念日を生きて実践している事実が書かれているのです。

黙示録に書かれている内容は、”主の日”とは、レビ記23章に書かれた神の記念日、そして神が特別な業をされるある期間を指して聖書では語っています。主の日=日曜日の事では無いのです。

 

異邦人クリスチャンが福音書〜黙示録を勝手な読み込みをするのはモーセの五書=トラーを学ばない、ヘブライ語で書かれた書を

書かれているその通りに正しく紐解き教える教師に学ばないまま、異邦人神学を土台とした翻訳聖書から聖書を解説し、勝手な定義や憶測で聖書に書いてある意味を勝手に塗り替えて解説した教えだけを聞いているからですそれらの異邦人創作の教えは、

神=聖書が語る真相、真実を覆い隠してしまっているのです。

 

パウロが処刑されたずっと後も、モーセの五書の教えは生きて

いてそして、モーセの五書に書かれた事を語っているのです。

 

黙示録11:19 そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に

契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。
<天の至聖所と地の至聖所には、神のトラー=契約の板=モーセの五書に書かれた全ての題目=10の言葉で表されているのです。神の言葉は神ご自身であり、神の家に神の臨在がある場所
至聖所の神の契約の箱の中!この事実を繋げて考えれば、
神はメムラ=言葉=聖霊=神の実態=臨在のある場所に留まり
ガードする事を教えている事が見えます。
そして、ヨハネは黙示録で”契約の箱”=モーセの五書=神の言葉が健在である事実をはっきりこの箇所でも話している事実に気がついて書かれている内容通りに読めば事実が見えます。

 

ローマ 3:21 しかし今や、神の義が、トラーとは別に、

しかもトラーと預言者<預言書>とによってあかしされて、
現された。

イスラエルの神に造られた、神の似姿に造られた人がどう生きるかが書かれているインストラクションの書=トラーの教え、知恵を捨てるなら人は何をどう生きたら良いのか不明、よく分からない、自己流な生き方になるのです。

 

ダニエル 7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、

いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。

黙示録14:12 ここに、神の戒め=モーセの五書を守り、

イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

はっきり、トラーをガードして生きよ!と黙示録にも書いてあるのです。

<福音書以降が神の戒めと考えるなら、それらは、タナック=

モーセの五書、預言書、諸書に書かれた中の限られた内容の解説しか書かれていません!神の教えの全貌詳細はモーセの五書に書かれモーセの五書=契約の生き方をガードしない生き方、ずれた危険への警告が預言書でされ、諸書には、モーセの五書に書かれた神の知恵を生きる事が書かれているからです。福音書以降は

聖書のほんの30%しか占めていない事実に気がついて下さい。

その箇所はタナックの短い解説!後書き!だからです。最初の

70%に全てが記されているから同じ内容を福音書以降には重複して記していないからです。そして福音書以降にはモーセの五書とは違う教えは1つも書いてありません!!!

 

黙示録 22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、

神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

<この書=神のトラー、預言書、諸書!です。>

22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、

神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

神の警告、神の啓示=トラー、預言書、諸書に手を付けるなかれ!が理解出来ないから、異邦人の世界では神の言葉は終了、

破棄され、古くて廃れた時代錯誤の教えで恵みを無駄にする

律法主義的生き方に戻るな!などととんでもなくズレた教えをしそれが昇天以降の神の新しい啓示=教えであると世界へ発信し

続けているのです。>

 

1ヨハネ3:4 すべて罪を犯す者は、不法=トラー=モーセの五書無しを行う者である。罪は不法である。

罪=トラー=神の教え=モーセの五書を捨てた生き方=罪=ずれている!と書いてあります。罪の定義の全貌はモーセの五書の中に完全版として記されているからです。福音書には罪の定義の

完全版、詳細は重複して記されてなどいません。

神が伝える罪の全貌の定義の抜粋のみが記されているのです。

 

2ペテロ 3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、

無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書=トラー、預言書

諸書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、

自分の滅亡を招いている。

 

神の創造されたシャバット=第七日目をイェシュア達、使徒達、1世紀の人達が祝っていた事が福音書に書かれています。

WWJDと言うなら、どうしてイエシュアが教えたモーセの五書を

捨てよ!と教え、イエシュアが祝ったシャバットや祭りを祝う事

をやめて、ローマが作った教えや記念日を神の教えに代替えして実践しているのか?と考えれば良いのです。異邦人の中から異邦人の手により、神の純粋なみ言葉=教え=言葉が奪われたから!です。

マタイ12:1 、2 5、8、11、12

24:20、20、 28:1、

マルコ1:21, 2:23, 24, 27, 28  3:2, 4,

6:2,  15:42, 16:1,

ルカ 4:16、31、6:1、2、5、6、7、9、

13:10、13:14、13:15、16

14:1 14:3、5、 23:54、 56、 

ヨハネ5:9、10、16、18、7:22、23、

9:14、16、 19:31、

使徒以降にもシャバット=第七日目が祝われていた事実が引き

続き書かれています。

使徒1:2それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。

13:14しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤの

アンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した。

13:42ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと

同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。

13:44次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。

15:21古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

16:13ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。

17:2パウロは例によって、その会堂にはいって行って、

三つの安息日にわたり、聖書=トラー、預言書、諸書に基いて

彼らと論じ、

18:4パウロは安息日ごとに会堂で論じては、ユダヤ人やギリシヤ人の説得に努めた。

 

安息日=日曜日!などと言う勝手な読み込みや神の言葉を塗り替えて解説してはなりません。聖書に書いてある通りに読まないで、どうやって神が伝える真実を理解出来るのでしょうか?

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

種無しパン=除酵祭り神の祭り〜レビ記23章にある祭りを祝うと言う意味は、イコール週のシャバットを祝っている、そして祭の時は曜日に関わらず、シャバットで始まり、祭りの週の第七日目のシャバットを祝い、そしてシャバットで祭りを閉じると言う神のデザインつまりは、祭りを祝うと言う事はシャバットが健在であると言う意味なのです。

そして、過越、シャヴオート 、仮庵とどの祭りで記されている

意味は、神の記念日の全てを網羅していると言う意味、

1つだけ祭りを取り出して祝う事など決してしない、神の祭りは

一年に渡り全部祝うものだからです。だからパウロが過越の祭りのマッツア=種無しパンを話していると言う事は、パウロは

モーセの五書を生きて、神の記念日、シャバット、新月、春、

秋の神の祭りを祝う事を実践を持って諸外国でも教えていると

言う聖書の真実、意味を読み取らないとなりません。

 

日本人で、正月を祝う!と言えば、師走を生きて、大掃除をし、

買い物し、忘年会をし、家の飾り付けをし、大晦日の準備をし、大晦日を過ごして正月を迎え3が日を祝うもの!と知っているのと同じ事です。説明しなくても、年末年始はその様に過ごす事を

皆が知っているからです。

ヘブライ=聖書の世界でも神のシャバットを祝う=その意味は

神の記念日の全部を祝っている!と言う事が書かれているのです。

1コリント 5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭りをしようではないか。

パウロが神の教え=トラーを終了させたなら、どうしてトラーに

書かれたシャバットを祝い、神の祭りを祝う事を諸外国で教えているのでしょうか?全く辻褄合わない教えになります。

 

何をしようともその人の選択ですが、神が言ってない事を神が

言った、神の言葉と神の記念日は終了した!と言う偽証はしてはならないのです。

その事を本気で考え続ければ、神の言葉の真実に気が付いた人は

神の教えを捨てて、人の作った作り物の教えを生きて実践する事

に違和感を覚え、そこから離れて、本物の生き方に軌道修正する

のです。

 

Shabbat Shalom