古代の人はトラー、預言書、諸書に書いてある内容だけで救い主を理解していた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

この間の6月4日土曜日の日没から5日の日没まで、過越の祭り

を締めくくる春の最後の祭り、シャヴオートがありました。

 

異邦人クリスチャンの世界では、ペンテコステとはシャヴオート の祭りである事実を知らないのが大半です。

 

シャヴオート=ペンテコステは、過越の祭りと繋がっているものであり、クリスチャンが古い廃れた教え〜祭りと言われるレビ記23章にある神が創造された祭り、三大都上りの祭りの1つであり、シャヴオート=ペンテコステは、神の創造された他の記念日と全て繋がり1セットで祝う様に創造されている事実に全く気が付いていないのです。

 

神の記念日の中心はシャバットであるのです。シャバットを中心に一年に渡り、神のアポイントメントの日が祝われるデザインを神がされているのです。

 

使徒2章の祭りで初めて人の中に聖霊が降ってきて、今までとは違う時代が始まり、初めて聞いたキリストの福音を世界に伝えるのだ~。これからは内住の聖霊により導かれるので、神の言葉はほぼ無用になった。今までは神の教えを生きて、かろうじて罪

赦されて来たが、使徒2章以降の時代は、完全なるパワーの聖霊、別の教えが出現したので、以前の時代とは異なる恵の時代に

なったのであ〜る。異邦人クリスチャンの世界では殆どがこの様な解説をしています。

 

使徒2章以降はモーセの五書の教えを生きる事とは決別する様に神が命じ?<神が神の言葉を否定する、敵対させる内部分裂、

内部紛争的思想>新しい恵の時代、異邦人が中心の時代、異邦人が代表となった教会時代が始まったのだ~~。大体ほぼこの様な思想が異邦人クリスチャンの間では教えられ、語られています。

 

これらは聖書に書かれている事実、内容とは異なる異邦人の思想です。たくさんの要素が絡み合っているので、1つ1つ紐解いて行かないと見えないものです。

 

まず、福音=イエシュアの完了の業により、神と繋がる、その事実は永遠の中、エデンの中、最初の最初から存在するものであり、永遠の中から既に存在している実態、事実なのです。

イエシュアは永遠から永遠に存在しているからです。

時系列上に物事を眺める、ある時代まで神の贖い、許し、恵みがない、ある時代まで聖霊は人の内側に住まわない。

それってどんな神?人を何千年も放置し、苦しい修行=行い不可能な教えを生きさせる?そんなのはイスラエルの神の実態とは

異なります。

人間は同じ人間であり、どの時代も同じニーズがあり、同じ実態であり、神は移りゆく影や変化なく、神はどの時代にも同じ助け、同じ贖い同じ救い、恵みを与えイエシュアを通して義とされた人の内側に住んでいた事実が聖書には書いてあります。

 

ダビデ王もイエシュアにより贖われている事実を詩篇の中で

賛美しています。クリスチャンはある特定の選ばれた人だけが

古代は聖霊を受けていたと解説しますが、考えれば分かります。

聖書には全ての時代の全ての人の事は記されていないのです。

神が選び出した特定の人、特定の出来事が書かれているからです。だから、聖霊を受けていた人達の事がタナックに書かれている事を、特定の選び出された人だけが聖霊を受けていて、一般の人の内側には古代は聖霊が住まわないと異邦人は説明しているのですが、聖書をちゃんと学べば、どの人も、同じイエシュアを

受け取り上から生まれた人はもれなく同じ贖い救い聖霊を受けていた事実が聖書には書かれているのです。

ある人達を選び出し、代表者として、例として、神はそれらの

人が通った出来事を通して、同じ真理を教えているのです。

 

なぜなら、救いの方法は1つしかないからです。神の性質、

神の人への関わり方、恵みや祝福は永遠から永遠に同じなのです異邦人クリスチャンが解説するのは、移りゆく影がある変化する神、変化する真理、教え、安定性の無い根拠のない変化を

続ける神です聖書の進化論版を語っている。神が伝える神の

性質、変化しない、神の言葉も永遠に堅く立つと言う表明とは

異なる矛盾した教えに矛盾を感じないまま、それが新しい時代の

変化した救い、変化した教えである!と信じているのです。

 

同じ救い、同じ真理、同じイエシュア=上から生まれた人=スイッチオン状態に戻る=内住の聖霊が与えられている。

だからどの時代の人も、上から生まれる、イエシュア =イスラエルの神を告白認識できるのは内住の聖霊が居るからです。

古代の人達も救い主を知っていた。アヴラハムはその代表例で

書かれています。全世界の父となったアヴラハムはまだ見ぬイエシュアを確信し、イエシュアの日を喜んだと書いてあります。

古代の人達は、モーセの五書、預言書、諸書=タナックに書かれたイエシュアを知って、救い主を待望し、同じ聖霊を内側に受けていたのです。

 

神は永遠から永遠に存在し時や空間に妨げられる事の無い、存在

なのです。永遠から全てが存在する、その事実を神が

人に伝えています。だからこの時代のこの時まで、神の救いも

贖いも、助けも恵も無い、聖霊も人の内側に住まわなかったと

考えるのは、タナックに書いてある事実に全く盲目だからです。

 

使徒2章以降から聖霊時代が始まったと言うなら聖書の記述の

全てと辻褄が合わない教えになります。

 

エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちに

あらかじめ定めて下さったのである。

 

古代から聖徒=残りの民=イエシュアの贖いの業により神の者と

されていた人たちはどの時代にも存在しているのです。

それぞれ個人個人がどれほどその真理=事実を理解していたかの度合いの違いはあっても、どの時代も神は同じ神であり、神の業も同じであり、神=言葉=イエシュア=聖霊は1体なのです。

分解して考える思想はヘレニズム思想であり、どの名で呼んでも同じ神=1つの神で分解、分離出来る性質では無いのです。

 

大きな誤解を異邦人クリスチャンはしているのです。

誤解する理由?タナックを学ばないで、福音書以降だけを

ヘレニズム =異教異邦人思想、自分たちの文化、自分たちの時代の思想で読み違いをして、違う解釈、解説を編み出している

からです。

パウロは何を根拠に以下の内容を書いていると考えますか?

 

1コリント15:3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに

伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、

15:4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、

 

パウロが聖書と書いていますが、パウロは福音書を指して聖書と語っていると読み込んでいませんか?1世紀の時代、それぞれの使徒パウロが書いた書は普通に出回っているものでもなければ、

聖書として認識されているものでもなければ、

パウロは福音書を読んでもいない、知らないのです。

 

パウロ含め、全ての聖書記者全員100%聖書=み言葉、戒め、仰せ=と言う言葉を使って神の言葉を指している場合には、

100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみだけを指して話している!!!と言う事実に目覚めて、その事実から考えて下さい。そしてモーセの五書が聖書の全ての土台であり、根拠

なのです。モーセの五書以降の全ての書はモーセの五書だけを

解説している!と言う事実に目覚めないとならないのです。

 

古代の人達はタナックにメシアが書かれている事を現代のユダヤ教のラビ達より深く深く理解していました。

それ以外のメシアの証拠はこの世に存在しないからです。

現代のユダヤ教のラビ達は、トラーを曲げた教えをするキリスト教の教えに対抗して、救い主が書いてあるそれらしき箇所を敢えて読まない、イエシュアにではなく、キリスト教の非聖書的教えに対して抵抗しているのだと言う事実を知った方が良いと思います。

神の教えを否定する教えに抵抗しているのです。だから、真実を見ようと言う事を敢えて妨げているのです。古代の賢人達は違いました。彼らはアヴラハムと同じく、まだ見ぬイエシュアの事実をタナックの中に発見し、はっきりと捉え、理解していたのです。多くのユダヤ人達は祭りの時にイエシュアがエルサレムの神殿に現れると待望していたのです。だから、ローマ帝国は都のぼりの祭りの時に、エルサレムの神殿周辺に厳戒態勢を敷いていたのです。彼らユダヤ人が暴動を起こすかもしれない、救い主の

登場で、ローマの弾圧に対して反乱を起こすかもしれないと警戒していたからです。

 

だからタナックに書かれた内容の詳細をはっきりと正しく捉えない弟子達でさえこう質問しました。皆が書いてある内容を正確に理解していたのでは無い事が分かります。でも神はタナックの

中で預言者を通して全て伝えているのです。受け取る人が神の言葉を正しく理解しているのかしていないのかその差だけなのです。神の真実は永遠に神の言葉の中に啓示され存在しているのです。

「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。使徒1:4−8

そして福音書以降は、タナックに書かれているメシア=イエシュアが地上に約束通りに来られ、トラーを100%完璧な姿で生きて、人に伝え、誰も経験した事のない愛し方、神の性質通りで

生きた愛の実態の手本を示されたです。トラーに書かれた人間の生き方の実態、契約の中に書かれた愛の実態を聖書では愛と言っているのです。福音書以降に書かれている”愛”とはトラーに書かれた生き方を示しているのです。

だから、新しい戒め=イエシュアが愛した愛し方、生き方を

お手本を見せられた通りに生きて!と弟子達に伝えたのです。

 

1世紀の全ての人達にはタナックしか教科書が存在しません。

福音書〜黙示録の記者は100%、タナックだけを指して全てを

記しています。使徒〜黙示録は福音書を指して語っていないのです。それらの書は当時は存在していない、書かれている途上で

あり、聖書としても誰も認識していない時代なのです。

そしてクリスチャンが考える様に新約聖書がよりすぐれた教えが

書かれている!と言うその様な神話は存在していません。

なぜなら、福音書以降に書かれた内容は、100%タナックに

書かれたイエシュアが地上に来られた事、そして世界へ同じ

福音=トラー=婚姻契約の生き方が伝えられた記録、そして

パウロが諸外国でトラーを教えた内容がパウロの手紙に書かれ

そして黙示録はエデンに戻る記録が書いてあるだけだからです。

福音書以降には何一つ新しい教えなど書いてないのです。

そして、タナックの中にイエシュア=救い主の性質の詳細が

詳しく書かれているのです。福音書以降はタナックに書かれた

内容を短く解説しているだけなのです。

古代の人たちはタナックに書かれた事だけを理解して、イエシュアが救い主である事実を知ったのです。でも、その理解の度合いがそれぞれ違う、分かってない部分も弟子でさえあった、

だから復活の姿でイエシュアが弟子達に、過越の後の7週=

穂を数える週の期間に現れて指摘、戒めている箇所をルカが

記しています。

 

ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

<アヴラハム、モーセ、ダビデ、その他の預言者=聖書を記した人たちがイエシュアの事を記しているのです。>

ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

 

イエシュアが聖書全体にわたりとかいてある、聖書全体とは

モーセの五書、預言書、諸書のみ!!!である事実に気が付いて下さい。

 

 

続く