呪いの律法、怒りの神、怒りの時代などと言う神像は、遠く距離を置いた仁王立ちの裁判官の様に粗相が無いか、睨みつけて見張っている異教徒思想の神像、歴史の途中で変身した神像を私は
ある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
私が聞いて来た教えは1世紀後半から異邦人が編み出した思想。
2世紀の時の異端者と言われたマルキオン、彼の思想で旧約新訳などと言うタイトルページが聖書の挿入されてしまい、マルキオンは、創世記〜マラき書は拒否!そして福音書以降の27巻も
要らない!敢えて言えば、パウロの書簡2、3で事足りるから良い。聖書の教えは生きる必要がない!などと言う異邦人の世界で聞く思想を唱えたその様な人達が編み出した思想に影響されてしまっていたのです。19世紀にデイスペンセーション神学を編み出したダービーもマルキオンの思想を引き継ぎ、同じ事を言いました。
ある方が、モーセの五書、レビ記を読むとその中に火で焼かれる、石打にすると書いてありますが、現在実行すればその国では殺人罪になりますが、この教えは破棄されていませんか?と言う質問をして下さいました。
現在トラーに書かれた様な刑を実行しないと言う事はイスラエルも含め、単に国がトラーに書かれた事を実行していないだけであり、神のトラー=教えには変更は無いと言う事なのです。
今は他の方法での最高刑の処刑がそれぞれの国でなされます。
死刑の無い国さえあるのです。刑がゆるすぎて犯罪者が簡単に
牢獄から出てしまう。特に性的犯罪者が周りに居る危険を小さい子供を持つ人は抱くと言うのを聞いた事があります。
ローマの最高刑は木にかける処刑です。イスラエルの最高刑は
石打ちの刑です。イエシュアはローマ帝国の法律の下、ローマ
帝国により処刑された、だから石打ちの刑ではなく、木にかけられて処刑されたのです。
いくつか知っておかなければならない事があると思います。
日本で、ある人達が日本の法律により最高刑になって処刑されたら、その場合裁判官や、死刑を実際に執行した人達は殺人罪に問われますか?問われません。日本の法律で司法の元で刑が確定し、処刑されたら、刑を執行した人達を殺人犯と呼ばないのです。死刑執行人は国の機関の法的な仕事に携わる人達です。
法の下で然るべき刑が誰かの手により執行されなければならないからです。
そして、創造主が”罪”の定義の詳細を人に語れる唯一の存在であると言う認識が無いとならないのです。神が言う事に対して意義申立てするとは、神に反逆する事であり、神の考えに真っ向から逆らう意識があるからです。
神の前に罪である事は何か?そして勘違いしているのは、古代のイスラエル〜トラーでは罪=ズレたら即座に処刑されると考えているその誤解、ズレた思考回路を完全に削除すれば見えます。
イエシュアの逮捕や処刑や、姦淫の現場で捕らえられた女性に
対する訴えが、違法であった事、なぜ違法だったのか?を正しく
知れば、見えてきます。
まず1世紀のイスラエルでの司法は異邦人が考えている様な野蛮で原始的で残忍なものではなく、トラーに則り最高に綿密に作られた一番優れたシステムであったのです。
当時イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、
イスラエルの議会で3回法廷が開かれた後、罪が確定する。
イスラエルの法廷議会は、23人の祭司、23人の書写学者、23人の長老そして2人の役人で71人で構成されたものなのです。
イスラエルでは実際の処刑は執行出来ないので、イスラエルの3回の裁判の後、刑が確定して、ローマ帝国の法廷に引き渡しをするのです。
そしてローマ帝国の議会に引き渡して同じく3回法廷が開かれ
罪が確定したら刑が執行されると言うシステムなのです。
適当に罪を人にきせて、処刑!なんて言う事はなかったのです。
イエシュアの逮捕、裁判の違法性は又書きたいと思いますが、
よくモーセの五書が破棄されたのだと言う例に使われるのが
姦淫の現場で捕らえられた女性が、殺されずにイエシュアにより
罪定められなかったと言う箇所です。
モーセの五書を読めば分かると思いますが、人を殺めた場合に
ケースバイケースで死刑にはならない事が書いてあるのです。
日本の裁判でも同じです。全ての人が死刑にはならない、
ケースバイケース、法廷での裁判の結果刑が確定するのです。
モーセもエジプト人を打って死なせてしまったのを知っているでしょう。そしてどうなりましたか?逃れの町にある期間中隔離
され、保護されたと書いてあるのです。
そう言う事実を見逃して、2000年前の古代は残忍な神の法律で人は即座に処刑された!などととんでもない勘違いをして
モーセの五書などを読んだら、神が伝えている意味が全く見えず
神の教えを誤解し、呪いの律法が書かれている!などと勘違いを
続けてしまうのです。
ある罪に関してはどうしてこんな事が罪なの?とピンと来ないのですよね。どうしてシャバットを破ると言う事が死に値する罪?
神の記念日は道徳じゃないよねと。でも神の国の道徳では、神の教え記念日を汚す事は罪だ!とはっきり伝えています。
神が伝える内容を理解出来ないのは、それは自分の感覚、肉の目から考えているからです。神の語る意図を神が考えている通りを
理解出来ないからです。そして、占い、姦淫、モレク神に子供を捧げる=死に値する、それらの罪は、結局コミュニテイ全体を腐敗させてしまうから、仲間から絶たれる=コミュニテイから追放されると書いてあるのです。今の世界の感覚では、神の教えなんてOOくらえ位の感覚ですから、人のライフスタイル嗜好に、
文句言う人=悪い人、偏見と言われます。もちろん面と向かって誰かに歪んだ行為や性行動を忠告などしませんが、その様な事は神の子としてご法度であると自分の中では認識し、自分の子供達には神の教えに乗っ取り正しく教え、それらは罪であると教えるのです。
知識の木の実を食べて、神の目から神が見る通りが見えない状態だからそう考えてしまうのです。
イエシュアが姦淫の現場で女性を捉えて、その女性をイエシュアが助けたので、モーセの五書は終わりである証拠だ!などと安易に解説しているのを読みますが、この現場、出来事の意味を全く理解していないからだと思います。
古代でも悔い改めが出来る可能性があれば死刑になどしないのです。イスラエルの議会は、なるべくなるべく被告人の立場に立ちその人が最高刑を受けない方向に持って行こうとする態度、性質がある事を知らないと事実が見えて来ません。
モーセの五書を読めば、即座に死刑だ!などと考えていれば
神が伝えている事実は見えないでしょう。
日本でも同じでしょう。犯罪者が悔い改めて反省し更生しようと言う意志をその人から引き出そうと努力し待つではないですか。
罪から足を拭う意志が全く無い人!その場合には刑が下される
でしょう。日本でも同じでしょう。執行猶予、罪を償う意志、
反省や後悔をしている人には、慈悲をかけるでしょう。
姦淫の現場で捕らえられた場面がヨハネに書かれています。
ヨハネ8:1−6
”すると、書写学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセはトラーの中で、
こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、
イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」”
ここを読んで、何が違法なのか理解する必要があります。
まず、連れて来られたのは女性だけです。姦淫の現場に居たのは
男性も居なくてはこの罪が成り立ちません。
そして、違法なのは、裁判を通さないで刑を下そうとした事です。しかも、法廷ではなく、イエシュア一人の意見によって
この女性を罪に定めようとしていた事、全てが違法なのです。
イエシュアの逮捕、処刑の違法性と同じく、法的に違反した方法で人を死刑に定めようとする行為なのです。
イエシュアがなぜ答えなかったのか。イエシュアはここでこの
女性を勝手に罪に定める宣言をする事は違法だからです。
この件は、サンヒドリン=ユダヤ人の法廷に持って行き、男女の被告二人と、二人以上の証人で白日の元、3回に渡り正式に裁判されなくてはならなかったからです。
裁判をすっとばして死刑にせよ!?違法です。
そして、イエシュアは人々が仕掛けたこの違法な行為からこの
女性を救い出したのです。そして神であるから、この女性が悔い改めて、神の教えに立ち返り生きると言う彼女の内側の事実を
見抜いていたのでしょう。だから、あなたを罪に定めない。
もう2度と罪を繰り返さないでと言われたのです。
ヨハネ8:10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、
あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
モーセの五書の中で神が〜〜〜はしてはならないと書いてあるのは、それらは神の性質に造られた人のすることではない、
それはあなたではありません!と教えられているのです。
人間は進化変化しません。エデンの園から永遠に同じ性質であるから、神のデザインされた人間の生き方も変化などしないのです。
あなたは〜〜〜をする、生きると書いてあれば、それは神の性質に造られた人の生き方であると神が人に教えている、至極至極
シンプルな事実を素直に聞くか、理屈を付けて神の言葉を拒絶
イエシュアが来られたから影の教えは消えた〜などと言う異邦人創作の思想を信じるなら、神があなたに伝える永遠の真理は
その個人の頭脳、内側には届かないまま頭上を通り過ぎ、
代わりに人の思想に頭脳が洗脳されてしまうのです。
毒麦の種のたとえ話を思い出す。良い地とは神の言葉を受け取り理解し、耕す=実際に生きて実=御霊の実を付けて行く、
そう書いてあるのに、種=本物の種を拒絶し、遺伝子組み換えの種=人の教えや思想が混じったもの、毒麦の種を頭脳に蒔いたら
そこから生産される収穫は宗教の教えと言う収穫、生き方に
なってしまうのです。
続く