2022年の過越の祭は今週15日金曜日の日没から始まります。その日から7日間種無しパンを食べる週であり、パン種が入った物は食さない週です。律法的?面倒くさい?馬鹿馬鹿しい?
と思うなら、それがその人の神の言葉、神に対しての態度、意識であると気が付いて下さい。神の教えを聞かないで人の教えを
聞いている頭脳。神のみ顔=言葉を知りたいと願わない頭脳=神の語られる事が重要であると思えない意識=悪い地=神の言葉を理解しない頭脳、いばらおどろ岩の地と書いてあります。それらは愚かな人とも書かれています。神の言葉、教えに注意を払わない人=愚かな人と書いてあるのです。
夕あり朝ありとあるのは、日没は1日の始まりだからです。
休む、止まると言う状態から1日が始まる創造主の造られた
全ての中に休み、憩い生きる事をする、これはシャバットで
教えられているコンセプトと同じです。
一旦異邦人クリスチャンの世界で教えられている事、伝統で実践
されている記念日を横に置いて、聖書に登場する人達、預言者、イエシュア、使徒、1世紀当時のユダヤ人、そしてユダヤ人イ
エシュア信者、異邦人イエシュア信者達が何を学び何を生きて
何を祝っていたのか?聖書に書かれた通りだけに戻らないとならないのです。イエシュア信者であろうとなかろうと、イスラエルの神を信じる人達は、全てモーセの五書を生きて、神の創造されたオリジナルの記念日を祝っていました。
1世紀当時、イエシュア信者もそうでない一般のユダヤ人も
同じ会堂でシャバットに集い、トラーを聞き、そしてエルサレム神殿の周りに住む人達は神殿で同じくシャバットを過ごしたのです。そして、春と秋の祭は都のぼりの祭り=エルサレムに上り
神殿で過越やシャヴオート、仮庵の祭りを祝ったのです。
福音書以降にもシャバット=第七日目だけを週一度の神が聖別
された日として祝っていた記録しかありません。少なくとも
シャバット=安息日=第七日目を祝っている記録が福音書以降に56回記されています。そして知らなければならない事は、春と秋の祭を祝うと言う事は、週一度のシャバットを一年に渡り祝っていると言う事実があるのです。神の記念日はどこか1、2つだけ取り出して祝う様にはデザインされていないからです。
祭を祝うと言う事はシャバットを祝い、そして祭の最初の日は
曜日の関わらず、シャバット=止まる日として聖別して祝い、
祭の最後の日も止まる日=シャバットとして祝い、そして週の中
に来る第七日目もシャバットとして祝うのです。今年は、過越の最初の日が丁度週一度のシャバット、金曜日と重なるので、過越=種無しパンの祭は2度だけシャバットがあると言う事になります。
異邦人クリスチャンの世界で誤解されているのは、イエシュアが
昇天された以降、古い律法=モーセの五書から解放されたので
古い教えや、古い記念日は終わり、新しい教えと新しい記念日
日曜日、イースター、クリスマスを祝う様に変わったと聖書に
記述のない教えや、記念日を信じて実践していますが、それらは
異邦人=ローマが創作した教えや記念日であり、聖書の教えや
記念日とは異なるものなのです。聖書だけに戻れば、どこに現代実践されている教え=モーセの五書が廃れた、新しい教え、
新しい記念日を祝っている記録が書かれていますか?
そんな記述は聖書のどこにもありません。当然です。なぜならそれらは西洋教父とそしてローマカトリックが聖書が閉じた後
作った教えや祭なので、聖書には書かれてはいないのです。
万聖節も聖書には書いてないでしょう。
聖書に書いていない事を書いてあるとし、聖書に書いてある内容を曲げ続け続けているので、何が聖書に書かれているのか分からなくなっているのです。だから聖書だけに戻り何が書いてあり、
何が書いてないのか、どんな意味で書いているのか?と言う基本中の基本に戻らなくては聖書に書かれた本当の真相が見えないのです。
パウロが1コリント5章、11章で書いている内容は過越の祭を祝う事、そして新しくされた人=パン種=ハメッツ=要らないものが削がれた人=イエシュアにより罪がそぎ落とされた新しい人
の事実を知り、その実態を生きると言う事を教えている内容です。パウロが語る内容=パン種=イエシュアが解説されたパン種のたとえ話と同じです。パン種=ハメッツとユダヤ人が聞けば
何を話しているのか理解出来るからです。
1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。
あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭をしようではないか。
パウロはコリントの人達に何を教えていますか?モーセの五書を
解説し教えているのです。モーセの五書以外の新しい別の教えなどしていません。もしパウロがモーセの五書以外の教えをした
ならば、パウロは神から遣わされた使徒では無い証拠になります。それは別物=神から出たものではない偽預言者=偽教師だからです。聖書には偽教師、偽預言者の書など含まれていません。聖書は聖霊により書かれた神の言葉だからです。過越の祭をどの様な実態で祝うか?と言う事をパウロは教えています。
11章も同じです。
1コリント 11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、
主の晩餐=過越の晩餐を守ることができないでいる。
11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。
わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
23−25節はイエシュアが過越の晩餐で語られた言葉をパウロが引用しています。この箇所は明らかに過越の祭を祝い、
イエシュアがされた遺言を伝えている内容です。過越の晩餐には
”セダー”=順序と言う名前が付く晩餐の儀式があるのです。
そしてこの晩餐は夜通しかかりやるものだから、一緒に出エジプトでされた=イエシュアの業を思い出し、同じ事を回想しながら晩餐を進めていないので、みんなバラバラ、儀式の意味がなくなり、勝手な飲み食いだけの宴会になってしまっている状態が書かれているのです。
当時の人達がやっていた過越の晩餐であり、パリサイ派の流儀でもあります。この晩餐は今も過越の祭を祝う中で継承され続けています。この儀式は、過越の晩餐の中で、出エジプトで起こった内容を表す食物を食べます。その食べ物でエジプトでの奴隷状態、まやかしの喜び、苦渋、そして水を通り贖い出されるなど意味のある食べ物を1つ1つ食べます。マッツア=種なしパンも
そうです。イエシュアが砕かれパンは種無しパンであり、
過越のセダーの晩餐でする儀式をカトリックやプロテスタントは
変形してしまい、種ありパンでしていますが、それは種無しパン=イエシュアの業で罪が削がれた状態=のオリジナルの意味が
消えてしまっています。そしてこの儀式は過越の祭の晩餐の中で行われる意味のある儀式なのです。毎月最初の日曜日にするものではないのです。日本人なら”お屠蘇”は元旦に飲むもので、他の 日に飲むものではないと常識的に知っているでしょう。他の日にお屠蘇を飲むと言い換えてもそれは元旦でされる儀式の意味を
反映しないのです。贖いの杯も4つの杯があり、これは出エジプトから贖い出される1連の出来事を意味する事を表すものです。
これは、後で詳しく説明する事にします。
聖書の中では誰一人としてイースターの記念日を祝う事などしていません。復活の命を祝う事は過越の祭の1週間の中で、最初から実践され続けているからです。しかもイースターと言う言葉は
聖書には無い言葉です。本当の名前は”ビクリム”=初穂と言う名が本来のその記念日の名前なのです。
春の過越の祭の週、種無しパンを食べる7日間、過越の日から3日目に初穂を祝う記念日が最初から神が設けている事実があるのです。クリスチャンの世界では復活後初めて復活祭と言うものが現れたと考えるのですが、新しくされている事実=復活の命を
表す日は”初穂”を捧げる日が創造の最初から設けられています。
西洋人により聖書の内容を様々に変えられてしまい、そして
神の教え=モーセの五書は古くなったと言う教えを聞き続け、
神が教える永遠不変の教えと記念日を実践しなくなったのが異邦人クリスチャンの伝統で継承されている教えの世界なのです。
伝統で西洋人が創作した教えを継承していると言う事です。
神は何を人に伝えていますか?それをどこで知る事が出来ますか?神の言葉を知る事で神の意図、人へ伝える望む生き方を
伝えているのです。その神の言葉を捨てたら人は確実に迷い出て
神の言葉=教えではない、人が創作した教えを生きてしまうのです。
今週金曜日の日没までにする事を神が伝えています。
神が今も人に伝える永遠不変の真理を知りたいと願う人に
神は神の意図通りを教えて下さいます。人が神の言葉を知る事を
妨害する事、それらがつまづきの岩、毒麦の種であると神の言葉から気がついて、神の言葉はどの箇所も100%永久に変わらず
真理であり、私達の命を保護しどの様に生きて、どの様に神と
相見えるのかを伝えている内容であると知って下さい。どんな
教えでも、少しでも神の言葉を否定する教えは神から出たものではなく、別の霊から出たものであると認識すれば、初めは神の
言葉の意味を詳しく理解出来なくとも、偽物の教え=神の言葉をどの箇所でも否定したり、曲げて解説する教えは、神の言葉では無いと言う事実を知る事が出来ます。神の言葉をどの箇所、一点一画も否定しない教えが神から出た教え=それが基準です。
イエシュアも引用された言葉であり、永遠不変の神の真実を
神が人に伝えています。信じるか信じないかは個人の選択ですが
神の言葉は誰がどう信じ、どう取り扱おうとも神の性質や神の
言葉は変化などしません。異邦人は神が伝える神の言葉を変えてしまっているのです。神の言葉を変形したら神が人に何を教えているのか理解出来なくなる、悪い地に毒麦の種を蒔く作業をしてしまうのです。
人に伝えた伝言を途中で変形したら末尾の人には別のメッセージが伝わるでしょう。それと同じ事を歴史の中で繰り返し続けて
いる事に聖書から気が付かないとならないのです。
問題は、聖書に書いてある通りの神の教え、言葉を教えてもらえる事がないと言う事なのです。導き手がいなくてどうして理解出来るでしょうか?とあります。教師とは大事な存在なのです。
誰を教師とするのかで、全く違う方向へ行ってしまうからです。
イエシュア=聖霊が最高の教師でありますが、聖書に書かれた
内容を手引きされないまま聖霊に導かれようとしても無理があります。それは聖霊に導かれれば、なんでも分かる、勉強しなくても数学や科学や英語が分かる様になると言っている事と全く同じ
事です。神は熱心に神のトラーを学べ!と言っているのです。
神の御顔を求めよ!と言うことは、神の伝える神の言葉を求めよ!と言う意味と同じです。ヘブライ語では顔=神の実態=
神の性質=神の言葉だからです。神の言葉=顔に照らし合わせて
その実態から生きよとヘブライ語では書いてあるからです。
「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」イザヤ40:6ー8
続く