神に神の性質通りに造られた人が、エデンの園を飛び出し、
そのままでは神に近づく事は出来ない状態になってしまった。
仲介者であるイエシュアを通して人は神と関係を持つ事が出来るのだけれど、その関係の持ち方=近付き方は、自分勝手なもので
は危険と言う事を神が伝えています。
人間が考える様な近づき方で近づいたら危険、いや神の前に
正しく関係を持つ事が出来ないと言う事を神が伝えています。
そして、神は汚れ、腐敗、不屈、清廉潔癖な存在であり、人が
神にどう近づく様に教えられているのか、何の知識も無く神に
近づくと言う事は、土足で家の畳の上を歩く事と同じ事です。
自分の熱心さがあれば良い、なんでも良いと言う事とは全く違う事が神の言葉で人に教えられています。トラーにはそれが書かれているので、その内容を無視したら神に取って本当に無礼な不法の近づき方をしている事になってしまいます。
アロンの息子ナダブとアビフの死でもそれが教えられているのです。
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
ナダブとアビフは本当は何をしなければならなかったのですか?
彼らは、神が言われた通り、神ご自身が天から降した”聖別した
火”を持って、祭壇に捧げなければならなかったのに、自分達の手で起こした”異物の火”神のものではない別物の火で捧げ物を
祭壇に捧げたのです。これは宗教の中で様々にしている警告にも繋がる事です。神が伝える神への近づき方を無視し、自分達発想の様々な方法で神を崇め、礼拝する。
シナイ山の前で、エジプトから持ち出した金を集めて、金の子牛
を自分達の手で形作り、それを神の偶像とし、しかもその偶像を
通してイスラエルの神を礼拝=神の祭りをしたとある事と全く
同じ事です。神が伝えている神への近づき方、場所と時を聖別
する事を、全く無視したら、それは人間が勝手にやっている
それは神が伝える神へのアプローチの仕方、関わり方では
なくなってしまうのです。私達人間の理屈、考えで神を礼拝する事は神の前には無意味なのです。聖別とは神の意図、目的通り!に分かたれると言う意味だからです。自分創作、定義は無し!
神ご自身の性質、神の栄光を地上で正しく映し出す事をしていないと言う事になるのです。人は神の永遠不朽聖なる性質、
アイデンティティを違う教えに変えようと試み続けています。
そして、神は私達人間へ全て神が創造されたものはトヴ=神の
完全なる意図通りのものであり、私達はその神が伝える事を
正しく地上で生きて反映する様に教えられている、それが神の
言葉なのです。
神の腐敗しない朽ちない命とは、私達も同様に神の似姿に創造
された者であり、神の性質、命をそのまま生きて地上で映し出す
鏡の役割を与えられています。
だから、神は神の性質に造られた人が正しく神の似姿通りを
生きるため、神との関係をどう結ぶか?を教えています。
ちょっと馴染みの無いコンセプトですが、ヘブライ語には
きよい、きよく無いと言う言葉は、タホ、タメイと言う言葉で
表されています。翻訳にぴったり表せない言葉です。
善悪の実を食べた後、解離と死が人の中に入り込みました。
それは神の臨在の前にそのまま来たら死ぬから、エデンの園から人は追い出されたのです。放射能に触れたら被曝して死ぬのと
同じ、人はそのままでは神の前に来る事が出来なくなったのです。神は人との関係を修復する事を望まれて、安全な方法で神に近づく事を人に伝えているのです。人が死なないためです。
それがレビ記10:8に記されています。
レビ記10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、
汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、
イスラエルの人々に教えることができるためである」。
創造物が歪められて汚染されてしまった事は覆せない事実でありそしてその様な世で生きる大事なインストラクションを神が与えています。
コヘレトの書1:15
1 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。
מְעֻוָּ֖ת לֹֽא־יוּכַ֣ל לִתְקֹ֑ן וְחֶסְר֖וֹן לֹֽא־יוּכַ֥ל לְהִמָּנֽוֹת:
でもイエシュアの救済策ではそれが可能であり最後には神の
オリジナルデザインに皆が修復された時には、神のとてつもない信じられないほどきよい命の美しさをそのまま映し出す生き方に
皆が修復されるのです。
神の神殿は、元の人間の性質、エデンの園の生き方を表しているものです。
そこで教えられる内容は、神から離れた人達が、元々のエデンの
生き方、神の目に人はどの様な存在か、人がずれたらどう修復
するのか、神にどう近づくのか教えられているのです。
そして神の神殿の中にある1つ1つのものは、神の伝える何がしかの教えが反映されているものです。
至聖所、一番奥の間には、神の言葉が入る契約の箱があります。
チェラビムが向き合いこの箱を覆う様にガードしています。
この箱の蓋をかポーレットと言いますが、キプル=贖いと言う言葉と同じです。
命の木があるエデンの園の入り口をガードするチャラビムと
同じです。
”神の命は人の命は神の言葉の中にある”事を表しているものです。神の言葉をガードするとは命に繋がる、命をガードし育む秘訣です。ここ=神の言葉=命に戻れ!と教えているのです。
エデンの園でも同じでした。命の木=神の口から出た一つ一つの言葉で人は生きると神が教えている事とぴったり同じ重なります。人は神の教えから離れて生きたら、それは別離=死を取り込む事なのです。
神は人に様々な印、教えを与えて、どの様に生きるのが神の創造された子らの本来の生き方なのかを教えています。
でも人は神の教えを捨てて、それぞれが編み出した方向=教えに
勝手に散って行ったのです。
コヘレトの書7:29 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけで
ある。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、
人は多くの計略を考え出した事である。
多くの策略、神の教えを退けて様々な別の教えを編み出し続け、
神が伝える本来の言葉、教え、神が人に伝える永遠に祝われる
神との関係のある印であるそれらの記念日を別物に作り替えて
しまいました。
聖書では何を教えているのか?と言う事だけに戻れば、人の編み出した教えは、神が伝える事とは異なる事を知る事が出来ます。
今日は過越の祭の前の大いなるシャバットと呼ばれる日の
シャバットです。過越の祭でイエシュアは処刑されました。
神の記念日は全て預言的要素のある記念日だからです。
イエシュアは何を祝っていましたか?第七日目のシャバット、
新月、春の祭り、秋の祭です。そしてハヌカ<ヨハネ10:22>を祝われた記録プリム<ヨハネ5:1>を祝われた記録が
ヨハネの福音書にも書かれています。
異邦人クリスチャンは、神のオリジナル創造の記念日は昇天以降
変更され、日曜日礼拝、イースター、クリスマスに変わったと
信じて人に教えそれを実践していますが、それらは異邦人が2世紀以降作り始めた祭であり、世界に存在する異邦人イエシュア信者はそれらの祭りを祝ってはいませんでした。聖書とは異なる
別の記念日を異邦人は実践しています。イースター、クリスマスは今や世界では異教徒も祝う記念日になっています。元が冬の
異教徒の祭りであり、その祭りに便乗して新しい記念日を作ったからです。万聖節もカトリックが異教徒の祭りに便乗して聖人を祀る記念日としたのです。
聖書に書かれている事は、人が創作した教えや、記念日ではなく神が創造したオリジナルの記念日を祝い、神の性質を地上で反映させ、神の子らは神が創造した特別な聖別された異邦人が祝わない記念日を祝い、世界へ、エデンの園に戻れ!と言うチェラビムと同じ役割をしているのです。
世界で実践されている、教えられている多くの教えや、記念日は
人間が創作したものであり、神のオリジナル記念日とは異なります。
イエシュアは何を祝われていましたか?イエシュアは渡される前の晩=過越の晩餐で何を語られましたか?聖書だけを信じて
人の教えと言うパン種を除外すると神が伝える真理が浮き彫りに
なって来ます。これらか1週間、イエシュアが処刑される前の
大事な1週間です。この週に何をするのか、又別の記事に書きますが、全ては過越を迎えるための準備の週です。
今日はシャバットです。聖書では安息日は日曜日ではありません。異邦人クリスチャンは様々な神の教えを人の教えに混ぜて
混同しています。日曜日は安息日とは聖書では呼びません。又
日曜日は神が聖別された日ではありません。何を信じて実践してもそれはそれぞれの人の選択ですが、神が伝えた事とは違うことを神の教えであると世界へ伝えてはならない、神が伝える真実を世界へ伝える責任がイエシュア信者にはあるのです。同じイスラエルの神の家族とされた人は、人の空想、創作話を神が言われた
のだと言う不真実を伝えてはならないのです。
人の伝統=西洋人が作った教え、記念日を異邦人は祝っていますと言い換えて、正しく説明しないとなりません。
イエシュアが、弟子たちが1世紀のイエシュア信者が、ユダヤ人がパウロが生きていた教えは100%モーセの五書のみであり、
そして彼らが祝っていた記念日はレビ記23章に書かれている
神の記念日とユダヤ人の記念日、ハヌカ、プリムなのです。
その事実を変えてはならないのです。
十戒にシャバットを聖別して祝いなさいとあります。
そして偽証してはならないとあります。それを信じるか
信じないか、神の言葉を聞く耳を持つか、見る目を持つか、
それとも自分の畑=頭脳に別の種=毒麦の種を蒔くか、
それは個人個人が神の言葉から判断しなくてはならない事なのです。でも神と神の言葉に対しての偽証をする事は人には許されていません。神が伝える事と違う事を伝えることが神の正義だ!などと誰も考えないと思います。神が神の言葉や記念日を変えたと言う人の教えを信じてしまっている=聖書に書いてない事を本気で信じるから、変えられた神の言葉、教え、記念日を伝え実践することが神のみ旨であると信じているだけなのです。
聖書に書かれた事実を聞く、見て気が付く人は、偽物の教えに
同調する事に違和感があり、その矛盾から脱出して、オリジナル、神の教えに戻ることをするのです。でもそれは1日ではないのです。時間がかかるのです。だんだんだんだん嘘に生きる矛盾に気がついて嘘を生きる事が出来なくなり、本物に戻ると言う
プロセスを誰でもするからです。聞く耳、見る目を持つ人達は。
今日第七日目が神が聖別された日であり、1週間にたった一度
週の最後の日がシャバットです。週の最初の日=日曜日は聖書では普通の日であり、労働日であり聖別された日=シャバット
止まる日ではない、安息日と訳されている日ではない。
7と1が同じではないと3歳児でも理解出来ます。
主の日とは日曜日をさして聖書では語っていない。
主の日とはレビ記23章の日であり、神が地上で神の業をされる特別な期間を指して主の日と書いてあるのです。神の言葉を曲げるのをやめなくてはならない時、改革の時が訪れているからです。
Shabbat Shalom