来週の金曜日4月15日日没が過越の祭の始まりです。
今日のシャバットは、シャバット ハ ガドールと呼ばれる
”大シャバット”、過越の祭の前の大きなシャバットと呼ばれる日です。
過越の祭の日から1週間種無しパン=マッツアを食べる週で、
日本語では除酵祭と訳されていますが、それが種無しパンの7日間です。過越が来る前に家の中にあるイースト関連の食品を全部
除去します。これも神の教えです。これをやると色々な発見が
あります。
マタイ13章にある種、そしてパン種の話に繋がるので、
過越の祭の内容を少し書いてみたいと思います。
13章にあったパン種=粉全体に影響を与えてしまう=悪い意味で影響を与えるものの本質は、神が伝えている言葉=教えから
引き離し、別の教えのパン種を放り込み、別物の姿に膨れ上がる
事です。ユダヤ人が2000年前に来られたイエシュアは救い主ではない!と言う主張もパン種の教えです。そして異邦人の創作した教え=イエシュアが来られた後は古い教え=トラー=モーセの五書は終わり!と言う教えも同等に神の教えではない別のパン種なのです。神の伝える本来の性質、真理、人の生きる道を
覆い隠す、阻む。盲人が穴に陥る様に導く事は神に背く行為であると書いてある通り、人を神の教えではない別物の教えに誘う事も同等に落とし穴に人を落としてしまう事になるのです。
不真実な教えの穴に落ちたら、神の語る真実から通り場所に
入ってしまうからです。
聖書に書いてある内容に沿って忠実に読めば、聖書の中で祝われている記念日は、レビ記23章に書いてある福音=イエシュアの業を表す預言的祭と、そしてユダヤ人の祭、ハヌカ、プリムが
あります。ハヌカとプリムの祭は、福音的預言的祭とは異なる
カテゴリーのものですが、イエシュアも祝われていた祭です。
そして、春の祭は、始まりを表す祭でもあります。
何の始まりでしょう?エデンの園から飛び出し、神の中から
飛び出し、本来の自分が分からなくなり、相手の性質も神の見る
通りではない、偏見、歪んだ目で見る世界へ入ってしまった。
神の創造されたデザインが壊れてしまった。本来生きる場所、
生きるべき性質ではない状態に入ってしまった。
隔離された場所に追いやられていた、その場所までイエシュア
が来て下さり、偽の主人から買取りあがない出し救い出された。
それが”過越”で表されるものです。誰でもイエシュアを信じるならこの過越の祭りで表される出エジプトを体験しているのです。
エジプトなんかに住んだ事もないし、ユダヤ人でもないし関係ないさ!と考えるなら、イエシュアとその人とは何の関係も無いと言う事になります。イエシュアに繋がる!と言う事は同じ救いを受けて、同じ婚姻契約の中に加えら、神が伝える婚姻契約の生き方に賛同し生きる人達が本物の神の家族、イスラエルであると
聖書の最初から最後までずっと同じ真理が語られているからです。神との関係があると言う証拠はこの婚姻契約の中に加わり
生きる事で表されているものだからです。神の伝える性質を生きない=神との関係=愛=アハヴァの実態が無い虚無と言う状態
なのです。それがマタイ7:21−23に書かれている人の
状態です。トラー無し=トラーを生きない人は神との関係にないと書かれているのです。否定しても否定出来ない。神が伝える
人間の生き方にあなたは敵対するのか、それとも神と一緒に蒔き、刈り取り、集める人になるのか?と言う問いがあるのです。
イエシュアの処刑と、エジプトで表された子羊の血を鴨居に塗ると言う事で教えた救いの実態は全く同じです。本体と影の関係。
エジプト人の男の子=初子の死は、神の性質とは異なるものが
その時点で絶たれた意味でもあります。そしてイスラエルの子供達イエシュアの命に繋がる人達の種は継続され続けたのです。
贖いとは、買取りです。奴隷とは主人に繋がれていて、主人の
所有物です。奴隷は聖書では認められていないものです。
神の婚姻契約に生きる事に反発し別の教えを生きる事を
した、婚姻契約受け取り代表者は厳しい刈り取りべき結末の
訓練を受けさせられる事になるのです。どうしてイスラエルは
婚姻契約の生き方から外れ、混ぜ物の教えに染まる浸る同化する
事でこの様な厳しい訓練を受けさせられるのか?全民族の父と
なったアヴラハムを通して世界の世界の祝福の源となる役割=神の性質を生きる事を世界へ教える伝える人達、一家の長がずれたら世界へ混ぜ物の教えを伝えてしまうからそれは決してしてはならない!と言う長子としての重たい責任があるのです。地の塩が塩気を失い、世の光が光を放たない、神の栄光を反映しない生き方にずれたら世界が同じ様に誤りの方向へ導かれてしまうからです。
そしてイスラエルは捕囚の地へ連れ去られる時、動物と同等の
値段が付けられ諸外国へ売られる事になってしまうのです。
高い値段では誰も買わないので馬同等の値段に引き下げられてしまった。
申命記28:68 主はあなたを舟に乗せ、かつてわたしがあなたに
告げて、『あなたは再びこれを見ることはない』と言った道に
よって、あなたをエジプトへ連れもどされるであろう。あなたがたはそこで男女の奴隷として敵に売られるが、だれも買う者はないであろう」。
神の子ら、天の王国に属する人達がこの様な奴隷にまで貶められ
エジプトで400年余り暮らしたら、捕囚の地で暮らしたら、
神の子としての自己像を完全に歪められてしまったのです。
私達一人一人も同じです。奴隷=この世の価値観、この世の神々、この世の基準や自分が掲げる理想、自分ではない誰か他の人の様に生きる事も奴隷と同じ状態です。
自分が誰か分からないと言う事だからです。
レビ記には、聖別に関して神の定義が書かれている書です。
1〜22章までは、スペース=場所に関しての聖別。
そして23章から最後の書は、”時”に関しての聖別です。
神は場所も、時も聖別しているのです。
先週のトラーの朗読箇所で、特に難しい箇所です。
神の聖別について教えています。
レビ記15:31 このようにしてあなたがたは、イスラエルの人々を汚れから離さなければならない。これは彼らのうちにあるわたしの幕屋を彼らが汚し、その汚れのために死ぬことのないためである』」。
神が人に伝える聖別は、人が考える、発想するものとは全く
異なります。神に属する人の聖別の意味はレビ記を詳しく書いてある通りに学ぶと深く理解出来ます。人が勝手に聖別の定義など
空想で創作出来ない、神が伝える通りを人は生きる様に伝えている事がはっきりと理解できる様になります。
自分定義の自分創作の聖別定義は神が定義するものとは異なるものです。神に聞くと言う基本的な事を除外したら、神の言葉を
除外したら人は迷い出る、そして神が伝えている事を知らないまま勝手な教えを生きてしまう事になります。
神が人に伝える数々、特に聖別に関する事が大事なのか?
それは、神は人に教えを与えてそれが出来なければ罰すると言う
発想では決して見えないものがあります。
神は人が神に近づく事を願っているのです。罰する事ではない。
そして、エデンの園であった状態=神と人との関係の性質を
人に取り戻してもらいたいからです。
でもそこには障害があるのです。人はエデンの園に居た善悪の実を食べる前のアダムとエバの状態ではないからです。
トヴ=良い=神の意図通り、ラ=神の意図ではない木の実を
食べた。詰まり、人間は本来のデザインとは違う事を選び、
堕落、腐敗、汚染、破壊、変形されてしまったのです。
そしてその直後に来たものは”別離、解離、隔たりと死”です。
飛び出して歪んだ人と、聖なる神は混じり合えないからです。
死と言う事を考える分かる事があります。隔たりとは、切り離された状態です。それが死です。関係の世界でも相手と分かり合えない、通じない、理解されない、理解し合えない、又は無視するされる、関係を断つ、これらは全部死で表す事が出来ます。
死んでいる。本来の関係が壊れるとは、関係の性質が死んでいる
状態、繋がっていない状態=ドーマント状態=休止状態です。
人は神の息を吹き入れられ、生きるものになったとあります。
詰まり聖霊=神の要素エッセンス=性質を吹き入れられて生きる
者となったのです。最初から聖霊は人の内側に住まっている事が
書かれています。神から切り離された人は、一時的に神と繋がる
状態が停止している=関係が途切れ死んだ状態になっているのです。これはスイッチオン、オフくらいに簡単な事なのです。
人が死ぬ時、呼吸がすっと取られますね。そうすると死ぬ。
それほど簡単な事です。息=神の性質が取られる=死ぬ。
神の創造でもはっきり見えます。人は神の性質=息が取られると死ぬ。体も死ぬ。そしてアダムとエバは神から切り離された時
即座には死ななかったのです。生きているけれど、本来の性質に
死んでしまった、神との別離の場所に飛び込んでしまった。
神の息=聖霊が内側から去った状態です。
すぐに死なないけれど、いずれ死ぬ。神の言われる事と違う事を
すると言うことは自分に破壊、解離、別離、神が伝える聖別を
汚す行為です。それは”食べる”と言う事で表されています。
何を見て、何を聞いて、何を自分の中に取り入れるのか?
神が伝えている事を寓話的に考えてはならないのです。神は目に見えるものと目に見えなもの両者コインの裏表のごとく同じで
ある事を教えているのです。
だから神がしてはならないと言う事、食べてはならないと言う
ことは、永遠に変わらない。人に害があるものであると言う
認識が無い場合神が伝える聖別を汚す行為をし、そして神の性質
と違うものは肉体的にも精神的にも物理的にも不適切不都合不健全をもたらすものであると言う神の教える事を聞く方が賢い生き方なのです。人は神に言われたことをちょっとでも変えたい!と言う曲がった意識があることをエデンの園の中ではっきりと教えられている、それは全人類へそして永遠に同じ神の真理の教えなのです。神の言葉とは違う事をする行為は、どんなにうまく理由づけ、理屈を付けてもそれらは破壊に繋がる行為です。
食べるなんてほんのちっぽけな事でしょう?それがどうしたの?
と本気で気にも留めないのです。でも何が起きましたか?
神が食べてはダメと言われた実を食べたらどうなりましたか?
物理的な死を招き、関係の世界が壊れ関係の性質に死を招き、
そして神のイメージに造られた自分=人間を破壊したのです。
その真理は永遠に不変なのです。歴史の途中で変わらない。
この結果、私達人間は歪んだ神のイメージを持ち、そして神の前に出る時、歪んだ神像と歪んだ自己像を持って来てしまっているのです。
創造主が私達に伝えている事は、歪んだ壊れた破壊された人が
どの様に神の前に修復され、不屈、清廉潔白な姿で神と関わるかを教えている、それが聖別なのに、その教えを捨てたら神は
聖なるお方なので、私達は神と正しい正常な向き合い方など
出来ない!と言うことを教えているのです。
神は永遠に変わらないと言う性質は、神の名で表されています。
יהוה ヘブライ文字の一番弱い発音の4文字である、イエホヴァとかヤーウエなどと発音されていますが、ある特定のラビしか
今その発音を知らないそうですが、”わたしはある”と日本語では訳されている神の名前です。正確に言うとわたしはある、わたしはある=未来形で表されている言葉であり、神が途中で様変わりするなどのデイスペンセーション神学の教えとは異なる神の性質が聖書には書かれているのです。神と神の言葉は変化しない!
と言うことが聖書に書かれているのです。神が伝える事実を人が
認めなくても、否定しても神が伝える神の真理は永遠に変化しません。神は神の性質を変える事など出来ないからです!
もし神の性質を変える思想を人が主張するなら、それは神の性質、命を破壊する、腐敗させる、歪める教えになってしまうのです。人が例え神が変化した、神の言葉が変化したと主張しても
その主張は神の前に全く無意味であり、神に敵対する行為以外の何物でもないのです。神を神と認めず、人が勝手な思想を唱え
宗教の教えを作り出している事だからです。
人に対してもその人の性質と違う事を言うなら、その人の語った言葉を否定して違う事を言うならそれは嘘、偽証でしょう?
そんな人に対してもしてはならないと分かる事を、どうして神に対してしているのでしょうか?神の言葉を塗り替える行為。
不可能なのです。神の性質は変わらないからです。そんな事を
すれば自分自身を破壊し、腐敗させ、そして人類に死をもたらす
教えを垂れ流ししてしまうのです。だからイスラエルは神の言葉と違う教え、モーセの五書=婚姻契約と違う教えを生きて
神から厳しい訓練を受ける捕囚の地で奴隷となる結末を刈り取ったのです。