創造主の招きに応じる人達 過越の祭りを祝う準備 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を解説, 注解, 釈義する時の絶対外してはならないルールが

あります。英語では、Exegesis エグジェゼシスと言いますが、

聖書に書いてある言葉の本来の意味を明らかにする解説です。

 

一方Eisegesis アイズジェシスとは、その個人の前提、偏見、

自分の思想の釈義、先入観を導入して聖書に書いてある内容、

意味とは異なる思想で解説するプロセスの事です。聖書=神の

言葉に関しての解説にアイズジェシスこれをしてはならないのです。

神の言葉は終わった、異邦人には無用の神の言葉と言う教え、

思想は、聖書の真実ではなく、異邦人の偏見、思想を土台として聖書を解説するアイズジェシスそのものです。

神は神の言葉は永遠に堅く立つと人に説明していますから、その事実から外れてアイズジェシスをしているので、聖書に書いて

ある本当の意味など見えなくなってしまっているのです。

そして、福音書以降=イエシュアが来られた後は、モーセの五書に書かれた教えは終わり、モーセの五書に書かれた神の記念日は

終わりだと言う思想も、同様にアイズジェシスです。異邦人クリスチャンが神のオリジナルの教えや記念日を実践しないのは、

人の教えを継承し実践しているからであり、神が神の言葉や記念日を終了させたからではないのです。

その様な思想を通して聖書を解説し、神の説明している真理を

破壊している事をしているのです。神の言葉が終わったと言う

教えに立つなら、神が教えている重要な教えの数々を自分自身に

そして他者に対しても妨害、封印する行為をしている!と言う事に気が付かないとならないのです。そして福音書以降など、罪の定義の100%の詳細など書かれてはいません。だから、大元の教え=聖書の土台である神の教えの完成型として与えられているモーセの五書完全版を捨てるなら、自分に対しての神の教えに

たくさんの空洞が出来て、自分が神にどんなに大事な事を教えられているのかの手がかりを捨てると言う行為をしている事なのです。

神の言葉は永遠不変であり、神は人に対し神の言葉から様々に

語り教え導きを与えているのです。そうでなければどうして聖書を読むのですか?神は人に神の言葉を通してコミュニケーションをし、そして人は神の言葉で綴られて、造られ、この世界は全て神の言葉で出来ている事実を考えたら良いのです。自分のDNAに匹敵する神の言葉を捨てる。神の言葉を捨てたら人は迷い出て、別物の性質を取り入れて破壊されてしまいます。

イエシュアが言われた通り、わたしと共に蒔き=神の言葉=種を蒔き、そしてわたしと共に刈り取らないものは、神の邪魔=つまづきの岩である行為をしていると言う警告を決して頭から外さずに、見聞きして伝統で語られる聖書ではない教えのパン種=神の言葉は終了、終わり、無用と言う思想から語る全ての教えを排除して神の言葉だけに再度向き合い直し、聖書に何が書いてあるのかを再発見する必要があります。

マタイ12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

 

15日金曜日の日没が過越の祭りの始まりです。神の記念日、

シャバット、新月、春、秋の祭りは終了した、ユダヤ人だけ

やっていれば良いと言う教えは異邦人が創作した教えです。

神は神の記念日をなんと人に教えていますか?永遠に祝われるべきわたしの記念日、人が神との関係の入った印として与えられているものと伝えているのです。誰の言葉を信じて生きますか?

神の言葉?それとも人の教え?神の語る教え、言葉を無視しますか?と言う問いが神から今日も与えられているのです。

そして、今週は春の大事な祭り、都上りの祭りである過越の祭りを迎える準備の週です。イエシュアが処刑される前にイエシュアもこの週をエルサレムで、同じ様に準備して過ごされたのです。

現在神殿が無いので、子羊を実際にエルサレムの神殿で屠る事は

出来ませんが、第二神殿がエルサレムにある時もエルサレムに上る事が出来ない人は勝手に自分の場所で子羊を屠り捧げる事

は出来なかったのです。なぜ?神は神が指定した場所=エルサレムの神殿以外ではコバーンの動物を捧げてはいけないと教えているからです。神が言われた通り、勝手な時に勝手な場所に好き勝手にやる礼拝は神の前には罪であり無意味だからです。

エルサレムでの神殿、神の家の中での交わり、礼拝、それは

天の神の国の神の家、エデンの園の生き方を教えているもので

あり、それが全ての基準になっています。モデルケース。

では他の場所では礼拝出来ないのか?と言うとそうでは無いのです。神の神殿で教えられている神との関わり、人との関わり、

神への近づき方などのエッセンスをそれをそれぞれの場所で生きるのです。捕囚の地でもイスラエルは神の記念日を守る様に

教えられているのです。だからイエシュアは、神のトラーが世界へ伝えられたら、エルサレムの神殿以外の場所でイスラエルの神を礼拝する人達が出てくると預言されています。

 

まず過越の祭りの前までに、家の中にあるパン種=イースト菌が入ったものを全て除去する作業をします。

どうしてそんな事するのですか?神がそう人に伝えているからです。それをする人は、やってみて初めて何を神から教えられているのか自分で発見します。神はそれぞれにそれぞれの時、人生の旅路の中でカスタムメード=ぴったりあつらえたレッスンを準備して下さっているからです。やってみれば分かります!とだけ

言えます。神のデザインされたレッスンプランは人のそれよりももっと知恵深く、そして神が神の言葉を実践する人の中に共に

居ると言う約束は嘘では無い事を発見できます。

 

ここで言うパン種とは、ハメッツ=罪、要らないものを表すもの

です。要らない物を自分の中から除去、実際にパン種を家の中

から除去する中で様々な発見があるのでやって見てください。

捨てると言う行為、捨てるのに惜しければ誰かに分けてあげて

消費してもらう様にします。

出エジプト 12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。

 

私が聖書に書いてある事が永遠不変の真実であるとヘブライ語の聖書を教えてもらう中で気が付き、そして、神が伝える通り異邦人でも神のシャバットを愛し、神の言われる事を生きる人を神が祝福し、神の家族の一員であるとするとイエシュアも言われた事が真実なので、ではやってみよう!と見よう見まねで始めたのか10年以上前です。イザヤ56:3−7

誰々が、又は有名で偉い聖書学者、先生が言っている教え=古い教えは律法で廃れたから現代は日曜日礼拝、クリスマス、イースターに変更されたのだと教えられ続けて来ましたが、それは完全に神の言葉とは異なるアイズジェシスであり、人の創作した教え

記念日であり神が教える永遠の教え、記念日とは異なる事であると聖書に基づき分かるのです。どんなに有名で人気の教師が教えている伝統で語り継がれる教えであれど、それが聖書の事実ではないなら、それは神の前に不真実な教え、神に反する行為であるのです。照らし合わせる基準は神の言葉のみ!と言う大前提を

ずれしてしまえば、人の教えに照らし合わせてしまえば、自分の熱心イコールイエシュアが言われた不法=トラー無し=神の教えを捨てた別物の教えを生きて実行してしまうのです。これは大きなつまづきの岩です。人に神の伝える本物の聖別を生きる事を

教えず、混ぜ物の教え=人の創作した教えに塗り替えたものを伝授し継承し続け、神のオリジナルの教えを踏みにじってしまう事をしてしまうからです。永遠不変の神の言葉の真実を知る以前は神の教えや記念日が全て自分に取り他人事だったのです。

”イスラエルはこの週は祭りだから休みだねー!”とか秋の仮庵の時は1ヶ月近くに渡り、様々な記念日が次々の来るので、

人ごとの様に考え、自分は参加しようやってみようなどとも

思いも浮かばない状態でした。神の聖別された日を完全スルー

無視、何とも考えない、その日を汚しても何も感じない意識。

でもイスラエルで初めてシャバットを祝い、そして仮庵を祝って

みて、それからはずっと自分の住む場所で、同じ様に祝おうと

今までやって来た事を全て変更しました。

やってみれば分かりますとだけ言えます。聖書に書かれた神の

教えが飛び出す絵本の様に見えてくるからです。

 

過越の祭りと除酵祭と訳されている両方の言葉を理解する必要があります。過越とは、ペサフと言うヘブライ語です。ペサフは

出エジプトで神の言葉を聞いて信じ言われた通りに子羊の血を

鴨居に塗った人達の家は、死が通り過ぎたとあるそれです。

スキップ オーバーした、死が通り過ぎたのです。

イスラエルとそして少数の異邦人達、同じ様にイスラエルの神の

言葉を信じて言われた通り実行した異邦人の家の初子も打たれずに、死が通り過ぎました。パン種を食べる7日とは、除酵祭とか種無しパンの祭りと訳されていますが、過越の初日から7日が

種無しパンを食べる週です。だからその週を全部過越と言う場合もあるし、種無しパン=マッツアを食べる週とも言います。

その週はずっと過越での出来事を回想し、新しくされた人である事をマッツア=要らないものが削ぎ落とされた事実を皆で思い出し生きる強化週なのです。だからイースト菌が入るパンやお菓子

食品は食さないのです。

1コリントでのパウロの教えは、この過越をめぐり話されている

内容です。福音書以降は古い記念日は終わったと言う異邦人の教えが聖書に照らし合わせれば辻褄合わない事に気が付いて下さい。聖書に登場する人は誰一人として、神の教えをどの箇所も

否定などしていないのです。異邦人が1世紀後半以降、その様な反モーセの五書思想を編み出し続け、聖書に書かれているオリジナルの教えや、オリジナルの記念日を祝う事をやめた!と言う

歴史の事実に立って考えて下さいそうではなくても聖書だけに戻れば、福音書以降、そしてパウロの書簡でも分かる通り、

パウロは異教の国に住む人々=ユダヤ人と少数の異邦人グループでモーセの五書を教え、神の記念日=祭りをどの様な態度、意識で迎え祝うのか?と言う事を教えていることでも明らかです。

パウロはイースターを祝ってはいない。パウロは過越と7日間の種無しパンの祭りと、そしてその週の中にある”初穂”=復活の命=マッツア=罪が削ぎ落とされた人を表す、イエシュアの命に繋がる人である事を祝い、そして過越から7週間、初穂が育つ事の

中で、新しい人として成長する事を生きる7回のシャバットを

祝い、そしてシャブオート=ペンテコステ=婚姻契約=トラー

モーセの五書を受け取った事を祝う祭りを祝っていた事だけが

聖書には書かれているのです。秋の祭り仮庵に繋がる一連の記念日も同じ様に祝われ続けているです。聖書に神の祭りを1つ祝った記録があれば、それは1年に渡りシャバットと祭りを祝うと言う意味なのです。神の記念日を1つだけ単独に取り出して祝うと言う祝い方は聖書ではないからです。人の創作=アイズジェシスで聖書を曲げて否定して操作、創作し直して語る教えをやめれば、聖書=神の言葉、神の教えだけにダイレクトに繋がれる事が出来ます。神は今日も過越を祝う準備と過越の祭りをすることに参加する事を招いておられるのです。

イエシュアは渡される前の夜=過越の祭りの晩餐で言われた遺言を思い出せば分かります。毎年過越を祝い、その中で順序と言う

晩餐の儀式の中で、イエシュアのされた贖い、救いの業を思い出してと言われたのです。イエシュアは出エジプトで、イスラエルと共におられ、同じ贖い、救いを与えていた事実を聖書から

知る事が出来ます。同じイエシュアがいつの時も人と共に居られた事が聖書には書いてあるからです。ヘブライ語ではクリアーに

見えます。紅海を前に後ろはエジプト軍、前は海で死に直面した

イスラエルにモーセを通して言われた言葉”今日救いを見よ!”とは、救い=イエシュアの事であり、イエシュアがされた業であり

その前にあった子羊の血=鴨居に塗って死を免れた事実は、

イエシュアの血潮で贖い出され、買い取られ、死から救い出された事を表しているからです。それは未来に地上でも見せられた

事と同じであり、子羊の血潮は永遠の中からすでに完了=用意されていた実態だからです。だから6日の間でこの地上で必要な全ての業が完成された、完了した!とあるのです。必要なもの全て揃った何も後から付け足すものがない!途中で創作、変更などもない!と言う聖書の事実に立てば、神が何を言っているのか見えます。そして第七日は止まり、その日を聖別し記念日として、

神が人との関係にある印である週一度祝われる日であると教えているのです。

 

続く