イスラエルの神は混ぜ物の教えに厳重警告をしている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの間で1世紀後半から教えられ、語り継がれている、聖書ではない単なる異邦人の創作した教えの数々。

それらが疑いもなく、これらが神の教えだと信じていると思います。簡単にまとめると以下の様です。

これら全て、聖書に何の根拠もない、非聖書的、異邦人が創作

した教えである言う事が分かれば、では聖書には何が書いてあるのか?を追求して真実を発見する手がかり、気づきになります。

信じていれば、後はどうでもいい、なんでもいい、主への愛=

感情があればそれだけでいい、そう考える場合には、神が伝える永遠の真実は見えないまま、人の教えを信じ続けて、神がそう

語っていると言う空想、幻想の世界を生きる事になります。

 

1 神の言葉は2000年以降、イエシュアが来られてから

変わった、聖書の最初の部分は破棄された、又は異邦人には現在聖書の最初の70%は無関係の教え、生き方、記念日である。

福音書〜黙示録にはもっとも優れた霊的な新しい教えが書かれているので、聖書の70%など知る必要はない。

古い箇所は、聖書の最後の30%の本物の箇所へ導く役割を

しているだけである。

 

2 異邦人とユダヤ人とでは別の教え、記念日=契約を生きる。

古い教えに戻る異邦人は、恵みを捨てた生き方をしているのだ。

 

3 神が神の言葉、約束、契約を変更した。

 

4 以前の神の教え=モーセの五書は、人には生きれない厳しい      呪いの律法である。呪いの律法から解放するためにもジーザスが来られたのである。それに戻る人は愚かである。

 

5 1世紀、福音書〜黙示録に出てくる人=イエシュア、使徒、パウロ、1世紀のユダヤ人少数の異邦人信者は、モーセの五書とは違う教えを生きて、日曜日礼拝、クリスマス、イースターを

祝い、レビ記23章に書かれた、神の創造された記念日、

シャバットや春と秋の祭りを祝うのを止め、破棄した生き方を

していた。

 

6 パウロは、モーセの五書を否定した教えを教えていた。

その根拠とされる箇所は、パウロの書簡では、”割礼”を否定していた。<これは割礼の意味を誤解し、パウロの語る内容を全く

理解していない異邦人解釈の解説のおかげ。>

シャバットや祭りは個人の自由、人の自由でいつでも記念日。

2000年以降は、なんでも良い、自分の判断で決めて良い。

道徳的な教えに反する事以外、自分で選んで生きて良い。

神の創造し人間が食するのに相応しくない食べ物も、感謝すれば

なんでも食べて良い事になった。

 

7 日曜日礼拝に変更された。クリスチャンの世界で、

シャバットが変更になったという根拠にしている誤解している

箇所はたった3箇所。

使徒20:6 ローマ14:51コリント16:2 

この三箇所に書かれた内容を完全に読み込み誤解し、

これらが日曜日礼拝になった証拠であるとしている。

 

使徒20:6のこの箇所だけでも、シャバット=第七日目や

神の記念日が変更になってない事は聖書を知る人なら記述から

すぐに読み取れなくてはならない箇所です。

除酵際=過越から7日間、種無しパンを食べる週を祝ったと

書かれています。初穂を祝う、シャヴオートまでの7回のシャバットを7週間祝うと言う神の祭りを祝っている証拠が書いてあるのに、異邦人クリスチャンの世界では、神の記念日の意味を教えられない、その祝いを実際にしていないので、20:6に何が

書いてあるのかさえ見えていないのです。

 

日本人が盆暮れ正月を祝うと言ったら、正月を祝うとは、

師走を通り、大掃除をし、仕事納めをし、忘年会をし、正月準備をし、正月の飾りや大晦日の食事、正月の御膳を準備し、大晦日をし、除夜の鐘を聞き、正月になり元旦、三ヶ日を祝う、お年玉や、年賀状、お正月の遊びや歌、親戚家族の団欒がある、

神社仏閣に詣でる。と言うことは説明しなくても体験上誰もが

知っている事です。

 

神の記念日も全く同じです。その祝いを聖書通りに継承する人には、使徒20:6の箇所は、過越を祝う=祭りは曜日にかかわらずシャバットで止まる日となり、週第七日目のシャバットが来たらその日もシャバットとして止まり祝い、祭りの最後の日は

シャバットとして曜日にかかわらず止まり、祭りを閉じる!と

言うのが神の祭りのデザイン、やり方であることが聖書に書いてあるのです。その箇所を読まない、知らない、祝う事で実践しない。別の記念日=ローマの創作した記念日を祝う伝統をしているるから、聖書に書かれた記述の意味が何も見えない。

 

8 主の日とは日曜日のことである。

日曜日はローマ皇帝の日、ローマ帝国の神々の日です。

主の日とは聖書では、レビ記23章の神の創造された記念日の事、そして、神が特別な事をされる時、時期、期間の事、

これらが主の日の聖書の定義です。定義を塗り替える続けているので、聖書に書かれた教えが、聖書とは違う教え、思想、概念に

変更されてしまっているのです。

 

これら上記の全ては聖書とは関係の無い異邦人が1世紀後半からずっと創作し続け、継承され、伝統で恒久化した教えなのです。

 

試しに今日、聖書、福音書以降を読んで、そこに書かれている

教えがモーセの五書を否定している教えだと思う箇所に印を

付けてみると良いと思います。それら全ては、異邦人が誤解して

解釈している箇所です。福音書以降どの箇所の一点一画も

モーセの五書とは違う教え、モーセの五書に敵対する教え、

古代ユダヤ人が今まで聞いた事のないトラーとは別の新種に改造

された教えなど1つも書かれていないと言うのが聖書の事実。

 

唯一体験した事のない新しさで言えば、人類初!イエシュアが

神の創造されたオリジナルの人間=第二のアダム、トラー=

モーセの五書に書かれた神の性質そっくりそのままを地上で生きた、それが人類が体験した事のない経験、そんな人を見た事がない!そんな人は存在しない。それだけが大きな違いそれだけなのです。最初のアダムとエバはずれる前はイエシュアと同じ、

でもそれらを知る人はエデンの園を出てから誰もいません。

 

福音書以降、使徒行伝以降に、書かれた内容で、神の記念日が

変更になったと思う箇所、上記した箇所は、シャバットが日曜日に変更になった記録では無いのです。

神の春秋の祭りも永遠に健在なのです。

そして、ちゃんと聖書を読めば、安息日と訳されているシャバット=止まる日は全て第七日目です。誰かこれを否定する根拠を

聖書から見つけられると言うならぜひ教えて頂きたいです。下矢印

動画。自動翻訳で見ればなんとなく理解出来ます。

”カトリック司祭の告白 土曜日の安息日を日曜日に変更したのはローマ・カトリックである。聖書からこれを覆す証拠を提示出来るなら、場合1000ドルの賞金を差し上げます。”

 

人間に神の言葉、神の記念日を変更する権威、力が与えられていると言う大変な幻想誤解冒涜から目覚める必要があります。

 

歴史の事実によれば、1世紀以降ローマ帝国の下で、モーセの

五書を去った異邦人と、そしてモーセの五書に反対する教えを

唱え始めたヘレニズム哲学思想に染まった西洋教父たちが神の

言葉を変形し、変更した!2〜3世紀には異邦人達はユダヤ人のグループと完全決裂し、異邦人だけの単独グループを形成し、

モーセの五書=ヘブライの書から離れ、トラー教師からも離れ

そして、新しい宗教となる教えに移行した。モーセの五書を否定した、違う教えに付いて行った、それが本当の事実です。

 

4世紀のニカイア会議もローマ皇帝の合成宗教に逆らわない人

のみで行われ、もちろんトラーを知るユダヤ人などその中には

誰一人として参加していませんでした。異邦人だけで勝手に決議して様々な新しい教えに変更した新興宗教を創作した。

 

カトリックやプロテスタントでもその事実に気がつく人は続出

しているのです。カトリックの司教が、発表しています。

そしてカトリックの質疑応答=カテキズムの経典の中に、

はっきりと神のシャバット=安息日を変えたのは、神ではなく、カトリックですと、書いてあるので、調べてみれば良いのです。

 

そんな書を調べなくても、聖書だけに戻れば、聖書のどこに

シャバットを停止し、日曜日礼拝に変更した、春と秋の祭りを

祝うのを昇天以降はやめ、クリスマスイースターを祝う様にな

ったと書かれていますか?シャヴオート=ペンテコステは何の祭りだと思っていますか?

三大都上りの祭りの1つ、レビ記23章に書かれた祭りです。

シャバットや、過越、仮庵が呪いの律法時代の祭りと言うなら

ペンテコステも同様に同じになってしまいます。辻褄合わない

教えのオンパレードに疑問にも思わない、冬眠状態が続く。

事実は1世紀当時の人達、聖書には、シャバット、過越、仮庵の祭りをした記録しか書いてないのです。

 

自分で調べて考えてみれば良いのです。真実は人の創作した教えの中になど無いからです。真実は、神が伝える永遠不変の言葉

教えの中にこそあるのに、それを追求する事をくじく、妨害する教え=律法に戻るのか〜〜と言う声=エデンの園にいたあの動物の声を聞き続けているから、騙されてしまうのです。

 

神が重要である!とシャバットに付いて何度も何度も何度も人に

伝えている意味を異邦人はキャッチしていないだけです。

神が伝えている事、命に匹敵する!と教えているならどうして

その様に神に言われた通り素直に真摯に大事に受け取らないのだろう、その方が不思議である。弟が妹に向かって、お兄ちゃんが

パパやママに言われた事なんか、自分達は聞く必要などないよ!

と嘘を言うのと同じです。

神の言葉を無視せよ、捨てよ!それって神が言う言葉ですか?

神の言葉に敵対する事、それは正義なのでしょうか?それが

神に聞いていると言う事でしょうか?神を愛する人は神の言葉を

生きると言うのに、神の言葉を捨てる!そんな教えこそが、

おかしい、危険!と気が付かないと危険なのです。

 

一体救われたらその後は何をどう生きるのかの教え、神の言葉を丹念に学び知り、生きるという世界が、道理です〜っぽり抜けているわけです。聖書の最後の30%には人の生きる詳細の全貌など書かれていないのです。聖書の70%に完成形の書で書かれているから、重複していない。だから生きる指針としては、

完全ではない、足りないのです。罪の定義の詳細も書かれていない、聖別の詳細も書かれていない、神の記念日の詳細も書かれていない、人間が生きる詳細、個人、夫婦、家族、街、国全体

法律、裁判の仕方、その他諸々の詳細は福音書以降には書かれていないのです。

 

 

続く