人の教えを神の言葉に混ぜると宗教が創作される | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの間で普通に信じられている数々の常識、

教え、記念日の実践が実は聖書=神の教え、仰せによるものではない、異邦人西洋教父達により創作された教えである数々。

それらが1900年近くに渡り教えられ続け、実践され続けているので、神の仰せである、聖書に書いてあるのだと信じているものを書いています。

 

イエシュアが来られる前は、ユダヤ教なるものはありませんで

した。あるのは、神の純粋な言葉、教え=トラー=モーセの五書と預言書、諸書です。異邦人ルツは姑ナオミの生き様を見て

イスラエルの神=イエシュアを知って救いを受けたのです。

人は宗教ではなく神の言葉、教えを生きる、本当はそれだけなのです。なになに教とは人の思想や伝統的に行われるその宗教の

独特な教えそれらが混じると宗教〜イズムになるのです。

 

1世紀のユダヤ教は、現代のものとは全く異なります。

古代のローマ教、又は中世のカトリックと現代のものでは全く

違うでしょう?歴史のコースで人の教えがたくさん入り込み続け、プロテスタントなど7万以上の宗派、教派、教えで分裂しています。それ以前に聖書には、カトリック、プロテスタントなど

出現していない、存在していない、記述もありません。

1世紀も宗教ではなく、それぞれのグループの中でトラーに

対する違う実践があった、解釈の違いがあっただけです。

パリサイ派=大衆、そして国のトップ機関を司る人

サドカイ派=レビ記祭司達、エッセネ派=腐敗したサドカイ派に反対しクムランに移住し独自のコミュニテイを生きた。

熱心党など。

そして、ナザレ派は、救い主を信じているグループですが

1世紀当時あったユダヤ人の派=パリサイ派の一部に加えられて

いただけです。

現代のクリスチャンの中では、モーセの五書を生きるなんて

恵みを捨てた生き方だ!ご法度である!昇天以降は新しい教えに

なったのだ〜〜〜と言う聖書にはない空想を信じていますが、

1世紀当時の信者はどの派でも、ナザレ派=その道と呼ばれた

人達も含めて100%モーセの五書を生きていた事実に

目覚めないと真実は見えません。

 

1世紀当時の中にあった重大問題とされたことは、

モーセの五書とは違う教えをするのか!と言うことだったのです。使徒21:21異邦人クリスチャンが言う様な律法に戻るのか!などと言う神に対する冒涜的な事を考える、発言する人は

誰も存在しない世界が聖書には書かれているのです。もし神の

言葉に対する反抗、冒涜をする場合、その人はコミュニテイから完全追放されてしまい、ニセ教師、ニセ預言者とレッテルを貼られるのです。異邦人の世界は、現代に至るまでどれほどずれた

信仰、教えになってしまったのか気が付いた方が安全です。

律法に戻るのか!と言う場合は、聖書=特にタナックに書かれた内容を、意味通りを知らないからそんな事を言っていると言う証拠にもなります。書いてある本当の意味、内容が分かれば2度とそんな発言など出来なくなるからです。

食べたことのない食べ物の味が分からないと言う事と同じです。

見た目だけで判断しているだけ。実態を知らない。学ばないから

教えられる教師がいないから、異邦人は神の言葉=トラー=

婚姻契約=モーセの五書=初めの愛から離れたからです。

様々な人々、私を教えて下さる何人かの教師の足跡を聞いても

始めからユダヤ人のトラーに熱心な家庭で、しかもメシアを

知っていると言う、そう言う家系の中に生まれた人も中にはあるのですが、ユダヤ人でもキリスト教の教えに生きると言う環境に育った人も多くあります。ユダヤ人でも、イスラエル以外の諸外国に住めばその国の文化に染まってしまう、浸かる。ユダヤ人としての文化伝統も継承し、シャバット、祭りなど伝統としては

祝う人は大勢います。だからユダヤ人でもクリスマスとハヌカを祝うとか。日本人の様に、無宗教でも、盆暮れ正月を皆祝い、

大晦日元旦には神社仏閣に詣でると言うのと同じ様に、

トラーに無関心なユダヤ人でも聖書に書かれた神の記念日を

家族のイベントとして祝う事をするのが普通です。

 

又はユダヤ人でありながらシャバットもせず、食べ物やその他

生活の中での聖別された神の子らの実態を生きる事など全く気にしない、そう言う人がイスラエルの中にも大勢居ます。

テル アヴィヴでゲイパレードがされているのですから、

神の教え=トラーなんて無視、知らない。トラーでは無く、

この世界の教えに染まった多くのユダヤ人が同時に居るのです。

生まれがユダヤ人だから神の子らになるのではない。

神の家族とは、イエシュアも言われた通り、神の教え=トラーに

書かれた生き方を実際に生きる人、それがイエシュアの母、兄弟

姉妹、家族であるのです。

生き方は個人個人、人それぞれに様々で、自由選択が与えられています。イスラエル、ユダヤ人だからイコール皆がトラーを熱心に学び、生きると言う事でもないのです。1世紀のユダヤ人と

現代のユダヤ教の人々とも内容が全く違うのです。もちろん今

爆発的にイエシュアに戻るユダヤ人も増えている事実もありますが。でも人が本気で神の性質を生きると言うことに戻る事と、

ただイエシュア=救い主であると信じることには雲泥の差、

内容、性質の差があるのです。大事なのはただ上から生まれるだけではなく、新しく生まれた人で成長し生きる事。

生きることはキリスト=生きることの全ては神の教え、

信じたら皆神が伝える通りの生き方、教えを実行する訳では

ないからです。大事なのは、復活の命を得て実際に神の性質通りを神が伝える通りを生きることに戻ることなのです。

 

ユダヤ人でもアメリカ、ヨーロッパ、ロシアなどの諸外国に住み

しかも伝統的なキリスト教会で育った様な人達が、ある時神に

直接対峙され、神の言葉で伝えられている本当の真実に目覚めると言う体験をする人が少なくありません。異邦人でも全く同じなのです。又はユダヤ人で信仰もなかったのに、ある日イエシュアによって新しく生まれさせられる体験をする。その時が来たら

絶対にイエシュアを拒否出来ない、生まれ出ようとするものを

誰も自分自身も止められないからです。

少なくとも異邦人とは違い、多少トラーを聞いている、文化伝統で神の記念日に触れている体験を彼はしているからです。

 

それぞれに体験は違いますが、伝統的な西洋宗教の教えの中で

育った場合、モーセの五書は廃れたと言う教えから聖書の全てを語られ、聞いて、考え、信仰生活を過ごし、日曜礼拝、

月一度の聖餐式、又は幼児洗礼、又は献児式、クリスマス、

イースターを祝うと言う伝統をして来た場合に、聖書の中に

書いてあるパウロや使徒、1世紀の信者達が聞いていた通り

彼らが生きていたモーセの五書に書いてある福音、神の言葉通りを神の言葉だけから語らせて、聖書に書いてある事実通りを聞いたら、あれ???今聞いている教え、実践している内容と聖書の記述が違う!と言う事に気が付いて行くのです。神が神の言葉は

永遠、神の記念日は永遠、神の言葉は変わらないと言うのに

異邦人は、神の言葉は七へんげ、神の性質も変わると言う

その大矛盾な教えにさえ盲目状態。それは1900年に渡る

異邦人の世界の刷り込み洗脳の教え、教育のおかげなのです。

今までの矛盾に少しずつ気がつき始めたらどう言う事が

起こるのか少し話してみたいと思います。

 

1日で聖書とはずれた教えの全てなど見えないし、気が付けないいっぺんに全ての嘘と真実が見える様になるなどの、識別、区別理解は出来ません。

神の言葉に忠実に1つ1つ照らし合わせて考えて行く中で、

少しずつ、少しずつ神が人に伝える永遠の真実に気が付いて、

少しずつ聖書とはずれた人の創作した教え、考えに気がつき、

神の言葉へ戻る軌道修正し続けて行く。そして何年か後には完全にすっぽり、人の教えから抜ける!これは多くの人がたどる足跡です。

その過程では、ずっと既存の教え=西洋宗教で教えられた教えに

必ず引きずられて、それを基準にして考えてしまうと言う葛藤が

あるのです。しかも周りは全て反モーセの五書、オリジナルの

聖書、特に、トラー=モーセの五書など知らない、読まない環境ですし、常日頃聞く教えは、キリスト教の反モーセの五書ありき、そして、福音書以降には最新式の霊的に優れた完成形が書かれているのだなどと完全に誤解した思考回路で聖書を見ているのでそれらに常に触れ続けたら、自分が変なのか?と思うのです。

いや一旦雲の上を抜けて青空圏に出たら本当のことが見えるので

人の語る教えが非聖書的であるとはっきり、くっきり聖書の記述から区別出来、真実が見えてきます。

 

常に聖書だけに戻る!人の創作した教えを排除する。人の創作した教えがなんであるのかがまず分からないと言うハードルがあるのです。この場合に、翻訳聖書で、異邦人が違う解釈をしている解説を元に考えても聖書の真実は見えません。オリジナル言語に

書かれた意味通り、たとえ言語が分からなくても、特にパウロの書簡やロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書などが誤解されて解説されていますから、文脈から一体何を話しているのか考えても見えてきます。でもロマ書、ガラテヤ、ヘブル書などは言葉以外に、

そこで語られている内容が古代の人は説明なしに分かる事が現代の人には見えない。使われている言葉の意味、割礼や祭司職の

意味、神が神殿を地上に造った意味、聖別の意味、それらが全く見えていないで読むと理解出来ない内容だからです。

だから聖書は最初から読まないと、学ばないとならないのです。

 

特にモーセの五書=レビ記の中で書かれている内容を知らない人には、祭司の種類が3つあるなどと言う事実は全く見えてこないので、単純にモーセの五書が終わったのだ〜と誤解した読み込み解説をし続けてしまうのです。最初から全て反モーセの五書から

語るのが異邦人の教えの世界。聖書を読むスタート地点からして

ズレているから見えないのです。だから聖書に書かれている内容を意味通りに忠実に知ると言う過程が絶対に必要なのです。

 

真実だけに戻る、正しい手引きを得る!と言う事を繰り返し繰り返し日々続ける場合、人の教えの嘘と、神が語る永遠不変の真実がクリアーに識別、区別することが出来て、見えて来ます。

 

そして一旦本当のことに気が付いたら2度と嘘には戻れない!

と言う事が起きるのです。クリスチャンが進化論は嘘、神が全てを創造されたと気が付いたら2度とその嘘=進化論仮説を真実だと言い続ける事など出来なくなるでしょう?それと同じ事なのです。神の言葉が永遠不変と聖書からはっきり気が付いたら聖書は

最初から最後まで同じ!どこも矛盾しない、敵対しないと言う

事実が分かったら、正しい場所に初めて立てるのです。

西洋教父達が1世紀後半から現代に至るまで神の言葉を否定した

教え、神の言葉が変化したなどと言う嘘の仮説は2度と言えなくなるからです。

その場合に気が付いた真実に生きると言う方向転換をするのです。なぜなら、cognitive disonance認知的不協和の中に人は

生き続ける事が出来ないからです。

嘘であると分かった事を人に伝え続け、生き続けるのは違和感

あるし、継続出来ない精神状態になるからです。

自分の中で本当の事に気が付いた後、その真実、伝統で語り継がえる教えとは違う事を人に伝えるのは色々な葛藤があるのです。相手が真実を聞こうとする場合には、その会話は成立しますが、頑なに嘘を信じ続ける場合には、いや真実を聞く段階に来ていない人に伝える場合には、会話が無駄になります。誤解される事もしばしばです。その場合は黙っているのが賢い対処です。

と言うか、どれほど黙っていなければならない状態か理解できますか?クリスチャングループ、特に伝道に熱心な人達に、

既存の教えにどっぷり浸かる人に、人の話を聞こうと言う態度もない自分のメッセージだけを伝え続けたい!と言う人に

何を言っても通じないです。救い主を伝えたい!その思いは同じですが、偽物のイスラエルの神像、救い主像を伝えてはダメで

ある!!!神の言葉を改造した教えを伝えてはならない!と心の中で叫んでいます。それぞれの人と対話して、柔軟な人、又は神の言葉の真実を少し語るだけで目を輝かせる人、人それぞれ違う旅路に居るので、直接話す時には本当に上とのアンテナを張り巡らし、言うか言わないか、何を言うか何を

言わないか、その司令=ピクードを上からキャッチする必要が

あります。

 

ブログは特定の個人に直接話しているのでもなければ、

読みたくなければ読まないと言う相手の選択がある、読みたい人が読むし、強制ゼロ。ならば遠回りにオブラートに包まないで

直に話した方が良いと考えて直接内角に直球を投げる様に書こうと思いました。言論の自由が規制されつつある今日この頃、

いつまで自由に書く事が出来るのか分からないので、本当の事を知りたい!と過去の私の様にその答えを探している人達に向けて

真実は、永遠不変の神の言葉にあって人が伝える神の言葉を

どの1箇所でも否定する様な宗教の教えは神の教えではないと

言う事を伝えたいです。

 

 

 

続く