誤解されて流通している教えの数々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの世界で一般的に聖書の真理であると語られている教えや、コンセプト、内容が実は人が創作した教え、

人の空想思想仮説であると言うものが数々あります。

それらが聖書の真理であるなどと伝えられ信仰の根拠にされて

しまっている内容を書いています。

 

6 ペテロはよくおっちょこちょい的なキャラクターで紹介されていますが、実は12弟子の中のトップ、リーダー的存在。

 

ペテロがおちゃらけた形容で異邦人クリスチャンの間で紹介されていますが、これも全くの誤解です。その前にユダヤ人の世界ではどんな風に神の言葉=トラー、預言書、諸書が学ばれていたか

又現在もどの様に学んでいるのでしょうか?

それを先に説明したいと思います。

 

異邦人クリスチャンの世界では、聖書を途中=福音書以降から

読む事をするのが一般的です。そして最初の70%はほぼ読まない、ある箇所を数カ所参考程度に取り出してしか読まない。

 

その様な聖書の読み方をする様に教えているのが一般的です。

そしてある1つの箇所を取り出して暗唱聖句をしたりしますが、

1つの書を通して全体を把握してしっかり丁寧に学ぶ学び方はしない、その書の全体を学んで、その箇所を知ると言う学び方ではありません。

福音書以降の初めにある書、マタイ書の冒頭を読めば、救い主が出て来た系図がまず書かれています。聖書を読んだ事がない人が、この系図を読んで、これが書かれていると言う事はこの中に書かれている人達の歴史が語られているはずだから、途中から

読んでも分からないと言った人がいます。

的を突いている発言です。

 

そうです。聖書を途中から読んでも本当の意味ははっきりしないのです。福音書以降=使徒達が書いた書簡に出てくる人達は全て

トラー、預言書、諸書=タナックだけが彼らの教科書=聖書で

あり、タナックに”メシア”=救い主=イエシュアに関してそして

人が生きるのに必要な全てが書かれて、それらを読み、学び、

救い主を知っていた、人とはどう生きるのかをタナックから

学び生きていたのです。タナックに人に生きる全ての完成形が

書かれているからです。使徒の書簡はタナックの短い短い注解、使徒達のタナックに書かれたイエシュアに関するコメンタリー、後書き的役割なのです。

 

ユダヤ人の世界では、世界中のどこに住んでいてもシャバットに同じ箇所を全世界で朗読し、学ぶ事がずっと継承されて来ました。イエシュアがシャバットに会堂に立ちイザヤ書を朗読されたとあるのはそれと同じです。その週のトラーの朗読箇所=モーセの五書に付随する、関連する預言書の箇所を朗読した記録が書かれているものです。

 

トラー、預言書、諸書などの読み上げる箇所は1年に渡り

決まっているものなのです。これは、仮庵の祭りが終わり次第

次の新しい年の朗読を始めると言うシステムです。

どの週にどの箇所を読むと言う計画は一年に渡り、変わらないの

です。一年サイクルと三年サイクルのプランがあります。

 

イエシュアがあるシャバットで会堂で読み上げたイザヤ書の箇所は、偶然に適当に開いた箇所ではなく、既に決まっていた朗読箇所であり、その箇所を読む当番も、もちろん事前に割り当てられていたものであるのです。全部は主のプラン。

モーセの五書を1年に渡り朗読し、そのモーセの五書に付随する

預言書や諸書などを読むと言うものです。

 

2012年以降、イスラエルの友人宅で毎年夏を過ごす様に

なってから、初めて知った事がありました。皆ヘブライ語聖書を幼い時から学んでいる、又は大人になってから学んだ人も居る

けれど、大抵は諸外国に育ってもその国でヘブライ語聖書教育を

受けている。

ヘブライ語聖書から読み、原典聖書から解説すると言う事をしている。聖書を満遍なく学ぶ。モーセの五書を一年に渡り読み、

学ぶ。

シャバット以外の日には、預言書、諸書=歴史書などを飛ばさず

読み、学ぶ。例えば、列王記1、2、サムエル記1、2

歴代誌1、2、など全部満遍なく学んで行くのです。

しかも毎週数章ずつ満遍なく読み進み学んで行く。預言書、

ダニエル書、イザヤ書、エレミヤ、エゼキエル書など長い箇所も学ぶ。イザヤ書は1年間かけて学びました。

小さい預言書なども学ぶ。

 

エステル記はプリム<2022年は3月16日〜17日>で

読み、コヘレトの書は仮庵の祭りで読むなど。決まっています。

 

2020年に入ってから、行き来が出来ない状態になりましたが

幸いオンライン、ズームが大活躍で、イスラエル、そしてイスラエルから世界へ教えるクラスにも全て参加させてもらえる絶好な

学びの機会を得て、まるで学生時代に戻った感があります。

録音録画もありますが、オンタイムで参加し、質問など出来るのもありがたい事です。

自分個人の学びだけではなく、クラスがあり質疑応答出来る機会があり、他の仲間、生徒と触れ合う機会が毎週に3、4回あります。これからプリムや過越が来るのでプラスの授業があります。

 

とにかく誰かの思想を語り学び、聞く事が中心ではなく、聖書の中に書いてある内容、言葉をひたすら満遍なく学ぶと言うのが

ユダヤ人の世界なのです。神の言葉に書かれた意味が分かれば

生きる上での適用に繋げて行く事が出来るからです。

 

神の言葉の本当の意味を知って行くと、神の伝えてくれている

宝にどれほど魅了されるものなのか、神の言葉の学びに取り憑かれると言うのが神の言葉の性質である事を発見します。

 

聖書に付随して、歴史、地理、文化など必要な知るべき情報は

盛りだくさんあります。

預言書を知るには歴史を学ばないと見えないものがあります。

神の言葉は、宝、真珠と神が表現している通り、神の言葉は宝であり、蜜の様に甘く、人を引き寄せる。人を安全に守る。

それは神の言葉、教えは人が神から離れないため、安全な臍帯で神と繋がる方法だからです。

その神の言葉に敵対せよ、呪いの律法だ〜と唱える異邦人の

世界の教えとはまるで違う世界がそこにはあるのです。

 

神の言葉は呪いの律法で廃れて終わったなどと教えられたら、

その教えは人の中にどんな意識を生みますか?”神の言葉=聖書

のある部分は不要=ある部分=大部分=70%無用、だから聖書のほとんどをきちんと、まともになど知ろう、学ぼうなどと言う

気力や動機、願望などが削がれ、要らないものは端折って、

福音書以降だけ読めば良いさ!これが異邦人の世界に浸透する

一般的な意識常識なのです。福音書以降には最新式の新しい

より優れた別の教えが書かれていると本当に誤解しているからです。

神が伝える麗しい生き方、教えを知らないまま、宝をドブに捨てる恵みを捨てる生き方とはまさにそれであるのです。

 

聖書に何が書いてあるのか分からない、教えられない、手ほどきされない、導き手がなくてはどうして神の教え=トラーなど分かりましょう?と書いてあります。使徒8:26−31

導き手であると考えられる教師が、神の言葉とは違う思想や

神の言葉など古い箇所など読まなくて良いと言う教えを人にして

しまっている。それらの思想や教えは神から出たものではなく

それらの教えの出所は西洋教父達の教えであり、彼らの反聖書的異邦人思想を通して聖書を曲げて語るのであれば、それは神の

言葉=実態=神ご自身を本当の意味で追及する手段に蓋をして

神の真実を発見させない事をしているのだと気が付いた方が

安全です。

聖書に書いてある内容をその意味通りにままに教えてもらえないから、聖書がつまらない、難しいと考えるのは当然の事です。

 

最初の箇所には神の教えの全部が詰まっているから、硬い食物の様に感じます。書いてある意味が分からなければ読んでいても

意味不明で、つまらないし、ある箇所の意味は不明。

だから手ほどきが必要なのです。

どうして数字や人物の名がズラズラズラズラ書かれているの?

レビ記の中に書かれた神殿での儀式の意味は?神殿の中身の

色や装飾品、寸法、素材その他は何のために書いてあるのか?

それらの数字の意味や、地名の意味、人名が神のメッセージと

直に繋がって、どんな意味のある名前なのか、数字なのか

知れば衝撃的です。神は1つも漏れなく素晴らしい教えを詰めて

いて、1つも意味の無い事など聖書には記されてないからです。

 

聖書の中に書かれた本当の意味を教えられれば誰でも神の言葉の虜にならざるをえない、それが神の言葉の性質、神ご自身の性質でもあるからです。美しい音楽を聴く様に。

イスラエルの神がどんなに良い神であるのか知れば知るほど、

神から離れられなくなるからです。神が怒りの神、遠く距離が

ある場所にある恐い神の様に思ったら近い関係など育めない。

遠い意識から、腹の只中にある関係にある事を知らせてくれて

いるのが神の言葉なのです。

 

申命記12:32 あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を

守って行わなければならない。

これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。

イエシュアもマタイ5:18−19で同じ事を警告しました。

 

イスラエルの小学校は1年生からレビ記を丸暗記します。

古代の時代もイスラエルは口頭でトラーが伝えられそれらを

暗記していると言うのが普通でした。

パウロはトラー学者ですから、当然頭の中に神の言葉が全部

入ってたのです。その様な教育を受けるのがユダヤ人。

パウロが諸外国に出かけた時、あの様に重たいトラーの

巻物など持って行けません。

 

パウロの様なトラーの大学者達の元で学んだ学者、又は同じく

イスラエル議会=サンヒドリンに居たパリサイ派のトラー学者や、聖書を書き写す写本筆写者は皆、一般の人とは違う特別な

学びをして、訓練を受けています。

トラーを学ぶ学校を通るからです。それには頭脳もそうですが

経済的余裕もないと出来ない事だからです。

 

聖書には律法学者と訳されていますが、トラー学者、

又は写本筆写者の事です。

古代は全てどんな書物や公文書なども手書きのみです。

その公文書や書物を書き記す職にある人は、その書き写す書や

文書に関しての専門知識を学び訓練を受けた人達です。

ヒレール、ガマリエルの様なトラーの高等教育を受けた人達です。その人達はパリサイ派などのあるグループに属しているのです。

イエシュアと議論していたのは、それらのトラー学者の事です。

家で父や母から学ぶ以外に、もっと専門的に学ぶ人、経済的に

余裕がある男子はラビ、トラーを教える専門の学校なるものに

行ったのです。そのトップまで行く人がイスラエルの政治を

担う要人職に就いたのです。国の中枢機関を担う職に就く人。

裁判官、検事、国会、法廷、弁護士、その様な様々な役職に

トラー学者が就いたのです。

トラー、神の言葉だけではなく、天文学、地学、その他諸々の

学問の知識も同時に学んだのです。

だからパウロは割礼を施す事も出来た訳です。

パウロの人物像と、パウロの書簡に関しては、又別の時に書いてみたいです。世界で一番誤解されている聖書の人物として。

 

続く