伝統で広く長く深く語られている、それらがあたかも聖書の事実であると信じられている事が実は、聖書では無い、聖書に書いても無い、聖書に根拠の無い人の創作話と言う教えは無数にあります。神の言葉に関して、人の創作話を神の真実であるなどと語り続け、教え続け、恒久化し、不滅にさせ定着させるほど愚かしい行動はないと思います。神に反する行為だからです。
嘘を温め育む事は空の空の行動、命に繋がらない物だからです。
なぜ神は人に、神の言われた通りそっくりそのままを再現し
反映、復元せると言う事を厳重に伝え続けたのか、その理由は
クリアーです。
神のものではないもの、人の創作した教え、哲学や異教の神々の思想が入り込んでは、イスラエルの神の性質と人の生きる本質がクリアーにはっきり人には伝わらず、神の性質とはずれたものを知らないまま生きてしまうからです。これが神が最も忌み嫌うと言われている最大なる嫌悪を表した姦淫の罪と書かれている内容なのです。だから、混ぜ物の教え、それらが高き所の礼拝で教えられている内容ですが、偽物、異教の神々の性質や要素と
交わってはならない!取り入れてはならない!神の言葉に差し
引き、付け足ししてはならない!と厳重に忠告されている内容なのです。
曇った鏡=混ぜ物の教えを取り入れる、壊れた鏡=神の言葉を
破壊する=付け足し差し引きする=そこには神の栄光、神の
性質は正確には映し出されなくなってしまうからです。
美術の世界は本人の創作する世界ですが、音楽は作曲者以外は
作曲者の創作した曲を楽譜に書かれた通りに忠実に再現、演奏
する事が仕事です。作曲者の作った曲の楽譜に書かれていない
内容を奏でるのは、勝手な付け足しアレンジです。
それはオリジナルの本物ではない。アレンジして演奏されたら、元の曲はそのまま復元せず、現れ出てこない。
聴衆にはオリジナルの中身など伝わりません。そう言う事が
1800年近く異邦人の信仰の世界で事実起きているのです。
それを聖書、信仰の世界でやり続けてしまっているのです。
それで良いと思っているのです。今は恵の時代、新しい教えの時代、自由になんでもやって良いと考える人がいるからです。
いや神の言葉に人間の教えが混入され、混ぜ物、アレンジに
なって、神の純粋な言葉ではなく宗教に変身している!と言う事に全く気が付いていないのです。
人に必要なのは、神の純粋な言葉、み言葉の乳と書いてある
様に、言葉=トラー=神の教え、インストラクション、
その完全版が書かれているのがモーセの五書なのです。
福音書以降に書かれた内容は、モーセの五書のダイジェスト版であり、人の生きる詳細は細部に渡って復唱されていません。
神の宮には神の性質通りのものが住まうのです。
だから、その中には神に属さないものは取り入れられない。
神の性質にフィットしないからです。
神の祭壇の上には、神が指定するものしか捧げられない。
あなた方は真理を知り真理はあなた方を自由にする。
あなた方は混ぜ物の教え=不真実に繋がるなら、それらは
あなたがたを不自由にする、縛る、束縛するからと言う事です。
不真実な教えを語る事、知らないまま語る事、それだけは避けないとならないのです。だから聖書を丹念に知る、学び続ける必要があるのです。人にイスラエルの神の性質とは違う、別物の
不真実な神を伝えてしまうからです。
イエスさまと言ってるだけでいい、イエスさま愛してますと言う
事が主を愛することではないのです。
愛とは、神の提示した契約の愛=神が造られた人間の性質を
生きること、契約の中に加えられた実態を実際に生きる事。
生きる事はキリストとはそう言う意味だからです。神の契約=
教えの命の中に生きる事に参加する事、神との関係は、モーセの五書に書かれた実態以外に存在しないからです。神との関係に
在ると言うなら、神との関係は神が定義する教えている通りの
生き方に参加する事!それが大前提なのです。
しかも、それは自由選択です。神の教えを捨てる、無視することも選択の1つです。レビ記に書かれている通りに
”もしあなたが神に近づきたいのなら”と書いてあるのです。
近づきたくないなら、それもそれです。その人の人生選択。
でもその場合神との究極の親しさの関係の中、トラーに書かれた神が用意した祝福された麗しい命に生きる事からずれて外れた
場所に飛び出した状態のままになると言うだけの事なのです。
神の側での強制はない。招きだけです。
それぞれ個人が神の言う事に応答し生きるのか、勝手に自分教を
生きるのか、その選択権が与えられているだけです。今の時代は
なんでもやって良いなどと神は1度も言ってません。
異邦人クリスチャンの世界ではそう教えている人が大勢いますが、その教えは、聖書の教えではありません。
あなたの前に命と死を置いた。命の木と知識の木、選択権は人にある。でもあなたは命を選びなさいと神が言ったのです。
神の招きに応じる人は、神の言われた通り、命=トラーに書かれた神の教える生き方を生きる事が最善と理解出来るはずなのです。神のトラーを捨てよ!と言うのはサタン=敵対するものの声であり、神から出た教え、言葉ではないです。
偽物、混ぜ物を生きる事は神が禁じている事に気がついた人からそれをやめて、聖書だけに戻り、正しく正確にイスラエルの神と神の教え、神が伝えている通りの意味で言い換えなければならないのです。伝道したい!でも偽のイスラエルの神像=イエシュア像を人に決して伝えてはならない!WWJDと言うならなぜ
イエシュアが生きていた教えていた父の言葉=モーセの五書=
トラーを否定した教えを伝える矛盾に気が付かないのでしょうか?聖書に基づき考えないからです。聖書だけに基づき。
人の思想や神学に基づき考えるから神の語る真実が見えないのです。神と神の言葉に対する偽証することは神の前に罪であり、
神に対する偽証など絶対にあっては、やってはならない事なのです。死に値する罪、自分の人生だけでなく、人を誤りに導く
大罪だからです。
6 ルシファー サタン
これも何度か書いてますが、世間一般にもルシファー=サタンと
言う言葉が定着して誰でも知ってルシファーと言う言葉を使って
います。
このルシファーと言う言葉がサタン、又はサタンの名前と普通に
信じられていますが、それって本当ですか?ヘブライ語で書かれた言葉を、ラテン語の翻訳がルシファーと言う言葉を使っているのです。それをそのまま英語の欽定版=キングジェームス版には、ルシファーと言うラテン語翻訳があてがわれています。
ルシファーと書かれている箇所はイザヤ14:12の箇所です。
日本語の口語翻訳ではルシファーとは書かれていないで、
黎明の子=ベン サハール=サハールの子、サハール=イスラエルで一般に付けられる男女の名。そして、明けの明星=ヘイレル
とヘブライ語で書かれた言葉通りを訳しています。
北の王 バビロンの王を指して話している言葉です。
サタンと言う言葉ではないのです。
サタンと言う言葉も、敵、敵対、神に敵対するもの。
天国も地獄も、それぞれの文化で培った概念で話していると言う
先入観があるのです。
6 イスラエルと異邦人では神からの教えが別であると考える
創世記12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、
あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
創世記12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、
あなたによって祝福される」。
地の全て=アダマ アダム=一人の人=土アダマから出た
全てのやから=ミシュパット=家族=1つの神の家族!とヘブライ語では書いてあるので、真実が読み取れます。全てのやから=全世界の民族!同じ1つの神の家族。異邦人とユダヤ人などと
分けて考えているのは聖書に書いてある記述を見過ごしている、
読み取っていない、聖書の事実が頭の上を通り過ぎているから。
アヴラハムさえもともと異邦人!異教の地メソポタミアに生きて異教の神々の国、文化で生きていた異邦人。
その人一人だけを選び出し神の家族の長=父=アヴラハムとして世界の全ての民族に同じ祝福、義、イエシュアの事実を与える
ために選び出された事実がはっきり書かれています。
聖書に、イスラエルと言う代表を指して書いているのは、
アヴラハム=世界の家族の長=民族の父の系図に生まれた人が
大家族の代表者であるからです。そうでなければ異邦人には
な〜にも関係の無いものと勘違いしてしまいます。
聖書は、大家族が生きる全て!が書かれています。
だから、男性、女性、役割別、職業別により違う教えが
書かれていますが、そこに書かれた真理は全ての人に対して
語っている真理なのです。割礼は男性にしか与えられないもの。
命を繋ぐ臓器に付けられた契約の印=神の家族=義とされている
事実は一方的に神から与えられている事実を生殖臓器に、永遠に継続する契約に加え続けられる印として神から与えられ付けられ続けるものだからです。
だからこれは女性には付けられません。でも割礼の意味、聖別、
この世とは分かたれ神の中に引き入れられている事実は
聖書の最初から最後まで割礼と言う意味、定義で教えが記されて
いるのです。神の創造した植物、木にも割礼と言う言葉が
使われています。植えられてから三年経たない木は割礼の無い木
だからその木から食べないと言う教えです。これは深掘りして
解説する意味があります。聖書には、全ての事から神の真理、
神は誰か人は誰か、神の家族とはどの様に生きるのか?が
説明されているのです。それを端折れば何を教えられているのか何をどう生きる様に伝えられているのかは、見えないのです。
自己流の教えの生き方に留まると言う事になるのです。
出エジプト20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、
なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、
娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる
他国の人もそうである。
イザヤ 51:4 わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。トラー=モーセの五書=神の教え、インストラクションはわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。
<諸々の民=全世界の民は神のトラーに耳を傾けよ!>
51:5 わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民=全世界の民を治める。海沿いの国々はわたしを待ち望み、わが腕に寄り頼む。<海沿い=異邦人の国々も神の
トラー=神の教え、インストラクションを待ち望む>
イザヤ 51:6 目をあげて天を見、また下なる地を見よ。天は煙のように消え、地は衣のようにふるび、その中に住む者は、
ぶよのように死ぬ。しかし、わが救=イエシュアテイは
とこしえにながらえ、わが義はくじけることがない。
60:9 海沿いの国々=異教の神々の国はわたしを待ち望み、
タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主の名にささげイスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。
60:10 異邦人はあなたの城壁を築き、彼らの王たちはあなたに
仕える。わたしは怒りをもってあなたを打ったけれども、
また恵みをもってあなたをあわれんだからである。
60:11 あなたの門は常に開いて、昼も夜も閉ざすことはない。
これは人々が国々の宝をあなたに携えて来、その王たちを率いて来るためである。
ゼカリヤ 14:9 主は全地の王となられる。
14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、
エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
世界は最後は1つ。1つ神に1つ家族として、エルサレムの神の
家を中心に神を中心に全ての人が向き合い生きる。
そして主の記念日が全世界の人により祝われる預言がされています。デイスペンセーション神学の空想思想=クリスチャンは天に上げられるので地上でのイエシュアの統治には地上にいないから神の教え=モーセの五書は関係な〜い!と考えてますが、
今もそうである様に、永遠、目に見えない世界にいる人達、
地上にいる人達、全て同じ神の記念日を同じ時に祝っている事実が見えない、知らないので、異邦人ダービーが作った空想話を
信じて、神の言葉を知る、考える、実践する事がないから分からないだけです。
著名な世界的学者や教師が語る進化論が聖書に基づく真実ではないただの仮説に過ぎない様に、著名な世界的聖書学者や人気の
教師が語る1800年に渡り語り続ける非聖書的教え、神の言葉をどの箇所の1つでも否定する教え、異邦人とユダヤ人は別の
教えを生きるなどと言う教えは聖書の事実ではないので、気が付いた人は、聖書だけに戻る事を始めれば良いのです。
不真実な教えを土台とする信仰は歪み、崩れていきます。
人間創作の教えはイスラエルの神を歪めて人に伝えてしまいます。イエシュア=救い主に対して偽の証言を言い続けて人に伝えてしまったら、それは歪んだ不真実を人に伝えている事、盲人が盲人を次々手引きしたらいずれ穴に落ちて骨折します。
今の世の中、過去も今も偽情報が蔓延しているのです。
真実は自分で見つけ出さないとならない。聖書だけ!聖書に書かれていない読み込みや、違う解説をして神の言葉を曲げる事は
一切してはならないのです。
続く