前回の記事の続きです。一般的に異邦人クリスチャンの間で
教えられ、信じられている事柄が、実は聖書に何も根拠が無い、
聖書が語る真実でもなんでもない、異邦人が勝手に編み出し創作した教えであるものがたくさんあります。置換神学、デイスペンセーション神学、反モーセの五書思想、反ユダヤ思想も、異邦人が編み出した教えであり、聖書に登場などしない教えです。
しかもデイスペンセーション神学など19世紀の産物であり、
19世紀のその時に初めて神の真理が明らかにされたのか?
そんな訳ないでしょう。聖書に登場する預言者=聖書を書いた
人達は、そんな異邦人創作思想など一切語ってなどいません。
必要なのは神の言葉=オリジナルに書かれた神の言葉の意味、
内容を書かれた通りに学ぶ事であり、人の空想神学を学ぶ事では
ないのです。それらの色眼鏡思想、神学は神の言葉を理解する上で最大限に妨害物、障害物以外の何物でもないのです。
要らない色眼鏡を外して、聖書に書かれた真実だけを学ぶ事に
戻る必要があります。
人が創作して大衆に真実だと受け取られ誤解されている聖書では無い教えの代表的なもの、聖書=神の言葉に対して誤解を与え
続けているものを取り出して書いています。
5 律法と言う言葉は神の言葉を指して使わている言葉では
ない。
一般に律法とかlawとか言う翻訳で、聖書の最初の70%
創世記〜マラキ、もしくはモーセの五書を主に指して律法だと
異邦人の世界で語っていますが、そもそも律法と言う言葉自体が不適切な翻訳なのです。もし律法と言う言葉通りなら、福音書〜黙示録も同等に律法と訳さないとならなくなります。律法と言う翻訳の裏にあるギリシャ語、その又裏にある元のヘブライ語の
言葉は、トラーであり聖書の全ては100%トラーと呼ばれる
ものなのです。
ヘブライ語のトラーの意味は、神の教え、インストラクション、
神の言葉に対して律法などと言う言葉は聖書では1度も使われてはいないのです!大変な誤解が一般的にクリスチャンの世界では
真実であるとして流通しているのです。元の言葉の意味を聞いたことがない、ヘブライ語で神の言葉は何と言うのか教えられないし聖書にどう書かれているかなど言語から探る事などしないからです。トラー=神の教え、インストラクション、それが神の言葉に対する正しい元の言葉です。律法ではない!
聖書は100%全て神の言葉であるのです。そう信じない多くの
クリスチャン、聖書教師も世界中に居て聖書ではない教えをしているので、その事実も同時に覚えていてください。
その様な聖書概念を持つ人に聖書を学んでしまえば、その教師の思想、教えに影響されて行く事も同時に覚えておいて下さい。
生まれたての雛が初めて見た物体を親鳥だと思い込む=
インプリンテイング=刷り込み現象です。
親ではない物体を親であると認識する。
だから”誰に聖書を学んだのか知ってるでしょう?とパウロが
テモテに言った言葉の意味は重要な鍵なのです。1テモテ3:14
神の教えをどの部分でも否定する人に聖書を解説されて学べば、
その教師と同じ思想を刷り込まれてしまう事になるからです。
聖書=神の言葉を歪めて受け止めてしまう様になります。
聖書の全てはトラー=神の教え、インストラクションと呼ばれるべきなのです。それが神の言葉の性質を表す言葉だからです。
この解説も何度も書いていますが、律法=lawと言う言葉の裏にあるギリシャ語は、ノモスと言う言葉であり、これは多様な事に対して使われている言葉です。
例えば司法、裁判に関する事、罪の法則、この世の教え、
この世の法則、ある事柄に対する主義、主旨、性質など、
様々な意味に適応する便利な言葉です。
この言葉を、神の言葉=トラーに対して同等にギリシャ語翻訳=ノモスとして使ってしまったのです。福音書以降が書かれている間、いや4世紀まで、福音書以降は聖書とは認められておらず
一般にも流通していないものであり、手書きの書を限られた人だけが知っていただけです。聖書に聖書と書いてあったら
それらは100%全て=タナック=トラー、預言書、諸書だけを
さして話している事を皆が理解しているのです。そして福音書
以降はモーセの五書とは違う新しい教えというのも誤解です。
福音書以降は使徒のタナックの短い解説でしかないからです。
100%モーセの五書の抜粋が書かれているだけです。
聖書のどの箇所も100%モーセの五書!が書かれているのです。
ノモスと言う言葉で、罪の法則と神の教えが同じ言葉で括られる、人の作り出した教えと、神の教えが同じ言葉で括られる。
そうすると、何を話しているのか、罪の法則か、人の教えか、
それとも神の言葉なのか、ノモスと言う同じ言葉からでは、
区別が付かないものになってしまったのです。
当時のユダヤ人はギリシャ語を理解する人、ヘブライ語の世界
ヘブライ思想でトラーを読む人達なら、この違いを見分ける事が出来ましたが、現代、特に翻訳聖書だけと、そして異邦人が
1世紀後半から作り続けた反モーセの五書思想から聖書を曲げて読む異邦人の世界では、ノモスと言う言葉の違いは見分けられないのです。誤訳と神の言葉を否定する思想の偏見色眼鏡で事実が
見えないからです。
パウロが神の教えを否定していると勘違いしているのは、
聖書を読み間違えているから!それが本当の原因です!
そして、ノモス=ギリシャ語で神の言葉を指して語る場合にある
ヘブライ語はトラーです。
この様な不適切な翻訳のため、神の言葉=律法であるなどと
誤解されているのです。しかも聖書の最初の70%が律法なら
福音書以降も同等に律法です。なぜなら福音書以降に書かれている内容は100%モーセの五書、モーセの五書を解説する、
預言書、諸書のみであり、モーセの五書以外に別の新しい教えなど福音書以降には書かれてないからです。
神は律法を与えたのではないのです。神は神に造られた本来の
人間の性質=神の似姿に造られた人の生き方、あなたはこれこれを生きて、これこれを生きる様には造られていない!これこれはあなただからこう生きるのです、これこれはあなたの性質ではないから、これらはしないのです!と言うシンプルなインストラク
ションが書かれているだけなのです。
人は神に教えられなければ、自分が誰か、自分がどの様に生きてどの様に神に近づくのかの詳細が正確には分からないからです。
神が人間を造られた方だから、神に聞くのが一番妥当。
人の教えに聞いても見えません。だからこの世の基準や理想や
価値観に染まると自分が誰か分からなくなり、他と比べるから
自分が無価値に思え皆と同じ様にならないとダメだと混乱する
のでしょう。
神の言葉、教えの中には憲法、法律、法廷での数々の指示、
裁判の仕方などももちろん書かれています。
でも、神は人に生きられない厳しい掟=律法を与え上から見張り
どれくらい出来ないか、厳しすぎる律法に悲鳴をあげて神に助けを求めるための目的で律法を与えたと解説する異邦人がいますが
その教えを信じる異邦人は完全にイスラエルの神を誤解している事は明らかです。その神像は歪んだ神像、酷い神!人に生きられない縛り呪いの律法を与えた?怒りの神であったのが、途中で
恵の神に変身したから律法を取り除いてくれた〜?!
これ異邦人の創作話ですから信じてはならないのです。
こんな思想を持つ人の神との関係は歪んでしまうのです。
聖書が伝えてもいない歪んだ神像を信じているからです。
イスラエルの神はご自身の事をなんと紹介していますか?
出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、
145:9 主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。
その他にも神の永遠不変の性質愛、憐れみ、恵みに富んだ神で
あることが至る所に記されています。
神は変身する神?太古から永遠から同じ神の性質で変わらないのです。時代ごとに神の教えが、救いの方法が、義の基準が
恵の分量が、神の性質が変わると聖書に書いてありますか?
自分で聖書を読み書いてある通りに考えないとならないのです。
神が神の言葉を変えたのだ!と異邦人クリスチャンの世界では
誤解されてそう信じられていますが、聖書だけに戻ればそんな事
一言も書かれていません。全く逆が書かれています。
何度も書いている様に、神の言葉を変えたのは人間です。
1世紀後半神殿崩壊後は、ローマ帝国による迫害=トラーを生きる人達ユダヤ人に課税した。そしてユダヤ人と同じ生き方をする
異邦人イエシュア信者も同様にユダヤ人とみなされ、4000
ドル相当の純金の課税、払えない場合は投獄=餓死で迫害された。だから異邦人はユダヤ人の様に神の言葉に根付いていない
人達だから、簡単に裏切りを働いたのです。どうやって?
神の教え=トラーは生きてません!私達はユダヤ人とは違います!と行動で証明したのです。だからシャバットも祭りも、
割礼も、コーシェル食も、全て異教徒異邦人には異物のトラーの
教えを異邦人は捨てた!はじめの愛=婚姻契約=モーセの五書
から離れた!黙示録2:4とある通りです。そして、異邦人は
ギリシャ哲学思想=アリストテレス、プラトン、ソクラテスなどの思想、体は悪い霊は崇高など、聖書を寓話化し額面通りに受け取らない教え、反モーセの五書を教える教師、マルキオン、
イグナチウス、クリソストム、オーガスチン、ジェロームその他諸々の西洋思想でヘブライ聖書を知らない教師達だけを師と仰ぎ、異邦人だけのグループを形成して行ったのです。
その継続が現在の世界の異邦人のグループなのです。
宗教改革でも根本は変わらなかった。ルターも晩年反モーセの
五書、反ユダヤ、ユダヤ人根絶やしは神のみ旨などと言う”ユダヤ人と嘘”と言う書に書き残して、その思想をヒットラーに伝授してしまうと言うズレにハマったのです。
はじめの愛=シナイ山で与えられた婚姻契約=モーセの五書と
決裂し、ローマ教が作った教え、記念日に移行した!それが
歴史の事実であり、神は神の言葉などどの言葉も一点一画も変えていない!と言う事実があるのに、異邦人クリスチャンの世界は
置換神学や、デイスペンセーション神学、聖書には無い教えを
唱え、神が神の言葉を破棄した!神が時代ごとに教えや、
義の基準を変えたなどと言い続けているだけなのです。
忠実に神の言葉だけに語らせれば、神が時代ごとに変化、
神の教えが進化、聖霊が変化進化、義の基準が変わる、異邦人とユダヤ人は別の2つのグループで決裂したまま永遠を過ごすなどと言う読み込みが非聖書的であるとクリアーに見えるのです。
でも非聖書的教え=人造の教えを言い続け、教え続け実践し続ける場合には、真実がますます見えなくなる。目の前に書いて
あっても神の言葉を額面通りに受け取らず自分の解釈で神の言葉の方を曲げる。永遠と書いてあるのに、一時的と読んでいるのはそのせいでしょう。シャバットを第七日目ではなく、第一日目と言うのもローマ教の教えを尊重し、神の言葉の方を破棄しているからです。永遠不変の神の教え、記念日とはっきり書いてあるのにローマ=人間が聖書が閉じた後創作した教え、記念日が正当な神の教えであると完全に勘違いしているのは、分厚い色眼鏡を
かけて聖書を曲げて読んでいるからに他ならないのです。
いや人の教えと言う魔術、魔法にかかった状態と言えると思います。目の前に書かれてある神が伝える永遠の真実が見えない。
神の言葉の真実に目覚めて起きないとならない!嘘を食べては
ダメ!命の木からだけ食べよ!神が言われた通りだけを取り入れて生きる!これが神の言葉に向き合う基本原則なのです。それには、神の言葉を忠実に学ぶ、探る、求める、神を慕い求めよとは、神の顔を想像して愛してま〜すと言うことではなく、
神の思い、思索、考え=言葉=聖霊に常に繋がり続けた状態であること!神の言葉=教えを求めよ!と教えているのです。
神の考え=言葉が分かれば、神の意図通りを生きることが初めて練習開始可能になるからです。言葉=神=聖霊だからです。
続く