聖書の事実と異邦人が編み出した伝統の教え、実践、記念日を区別しないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

デイスペンセーション神学の最後の7番目の時代は、ユダヤ人は地上を永遠に支配し、クリスチャンは永遠に天を支配すると教えますが、これも聖書の事実記述に基づくものではありません。

なぜなら、聖書は最後は1つ。1つ神、1つ家族に戻る!

言う事が神が伝える、聖書の最初から最後まで一貫して

同じメッセージだからです。エデンから出てエデンに戻る事実が

書いてあるのに、それが聖書の記述から見えていない盲目的な

教えであることは聖書に照らし合わせれば明らかに分かります。

 

2つの福音、時代ごとに違う教え、人種ごとに異なる別の教え、

時代ごとに違う義の基準を神が定めた?2つ別のグループがある異邦人とイスラエルは2つ別々?そんな事、本当に聖書に書いてあるのでしょうか?聖書に書いてない事、書いてある事、人の教えと神の教えを混ぜている解説だけを聞き続けるから、嘘と誠を混同しているのです。

その教えの主張は間接的に、神は嘘つき、不誠実、いつ変わるのか当てにならない神、信頼出来ないコロコロ変わる神!

神が説明している神の性質とは違う神像を語っているからです。

人の創作した教えや解説ばかりを信じた最初から常に聞かされたらそれが聖書だと勘違いしているだけなのです。半分聖書の事実

半分人の教え=混ぜ物の教え=イスラエルの神の純粋な教えが

伝わっていないのです。だから聖書に書いてある事実だけに

戻らないとならないのです。

 

聖書を書いてある通りに学ばず、神の伝える教えを2000年

以降はほぼ寓話化、比喩として解説し、額面通りには受け取らず、聖書の記述を曲げて人の思想で書いてある神の言葉を曲げるので、それだからどんな教えでも創作出来るのです。

これが異邦人の世界で1世紀後半から今に至るまで今も進行形で行われているのです。だから世界には7万以上の教派、グループ

が不一致、分裂、分離、一致を欠いて、無数に存在してしまっているのです。

 

神が永遠であると説明している神の言葉に対して、どの部分でも

変形させ、ましてやモーセの五書は終わりなどと言うならば

それは神に対しての恐ろしい挑戦、反逆、反抗、冒涜である

と言うことに全く気がつかないまま、恵の時代は古い教えは終わり!と皆伝える正義感を持って神の真理を語っていると誤解しているのです。

なぜなら、古い教えは悪い=悪いもの排除!正義であ〜ると

勘違いしているからです。

 

聖書の最初の70%と最後の30%とは別の教えが書いてあると

考えるのは、最初の70%に書かれている内容を書いてある意味通りに知ってはいない、そして最後の30%は最初の70%に

書かれた、イエシュアが実際に地上に現れ出て、トラー、預言書に書かれている事実を地上でも証明してくれた!と言う事に

全く気がついていないからだと思います。

 

デイスペンセーション神学の様に神の言葉は終わり!異邦人には無関係!生きる必要がなくなった、2つのグループ、時代別に

2つ別の救いの方法、2つ別の場所で永遠を過ごすなどと言う

非聖書的な教えが20世紀に爆発的に人気を博し、アメリカの神学校で教えられたため、オリジナル聖書に書かれた内容を学ぶのではなく、人の創作した神学を学ぶ!と言うずれた路線を

突っ走ってしまったのです。

 

聖書に向かい、その様な人造神学色メガネをかけて神の言葉を

読み続けるなら書いてある事を曲げて解説するのは当然です。

全てはモーセの五書終わりありきで語るからです。聖書に書いてある言葉自体を曲げられないので、解釈、解説を神の言葉を曲げて解説するのです。

永遠と書いてあるのに、一時的、今の時代は終わり、前の時代の教えは終了と言う。そんな事聖書のどこに書いてあるのでしょう?書いてあると言うならそれはどこに書いてあるのですか?

書いてもない事=人の編み出した思想を土台を信仰の根拠としている。これが異邦人の間に浸透したら、進化論と同じく覆すのは大変です。違う事言う人=異端、頭が狂っている。

真実なのに聖書の教えではない!異端と考えているのです。

 

今の時の世界も同じでしょう。一般のメデイアで流される情報とは違う事を言う人=狂った人と見られてしまうのです。

眠っている人には目覚めている人が見ている世界は見えないのです。

眠っている=神が語る言葉の真実を見ようとはしない。

目覚めていなさいとは、神の言葉で伝える真実について、

常にアンテナを張り巡らし考え続けよ!と言う事です。

嘘=神の伝えたことではない人の思想を食べて生きるな!

あなたの前に命と死を置いた。あなたは命を選びなさい。

選択権は人間が持っているのです。自由意志が与えられている

から、神は強制しないからです。

異邦人クリスチャンの間で何十世紀にも渡り語り継がれている

教えが、実は聖書の真実ではない!と言うものがたくさん

あります。

どうしてこんな事が起きたのか?どうして異邦人の信者は何万と言うグループ教派に分かれたのか?

それは、神の言葉が終わりと言う異邦人が考え出した教え

おかげで、それぞれが勝手な思想を編み出して続けて行ったからです。

以下全部聖書の事実ではありません。この様な教えが異邦人

クリスチャンの間で一般的に教えらていると思います。

1 イエシュアが来られたので、神の教え=モーセの五書は終了した。古い律法は終わり。道徳的なものだけがどの時代にも

ずっと継承されるだけで、他の教えは無効になった。

2 使徒2章以降は新しい教えが出現し、よりパワフルな霊が

与えられた。聖霊は使徒2章以降初めて人の中に住み始めた。

もしくは特殊な人の中にしか住まわなかった。

3 2000年前まで、救いは与えられなかった。

4 もしくは、2000年前までは、律法を行い救われた

生贄を捧げて許された。

5 使徒2章以降に新しいグループ=教会と言う今までになかったグループが出現し、この新しいグループにイスラエルも加えられるのである。

6神は時代ごとに何面相?そして怒りの神、恵の神と

変身した。

7怒りの時代と恵の時代がある。

8今は恵の時代なので、なんでも自由、モーセの五書など

読む必要も、生きる必要もない。

9怒りの時代は律法を生きて、恵の時代は霊に導かれて生きるのだ。律法に戻る人は偽善者であり、恵を捨てた生き方をしているのである。

10信じたらユダヤ人やめなさい。

 

などなどこんな思想をクリスチャンの世界で語られていると思います。

神の言葉を信じます。神の言葉は永遠です。聖書は神の言葉で

あると信じますと言いながら、神の言葉を実際には宣言通りに

正しく取り扱わず、部分的に神の言葉は有効であると言う

取り扱いを神の言葉に対してしています。

 

そして、聖書に書かれた教えは生きなくて良い。でもローマ帝国が4世紀以降に作った教えが聖書の教えであると考えていると思います。それ以前に何がローマ帝国が作った教えで、何が神の

言葉教え聖書であるのかの区別さえ付いていないと思います。

聖書には、神の言葉をどの部分でも否定し、変形させた別の教え=ローマ帝国が作った教えなど書いてないのです。

自分の目で使徒行伝を読んでもそれが分かるでしょう。

 

パウロがモーセの五書を否定して新しい教えを作ったなどと

誤解しているのは、聖書を書いてある通りに読んでないからです。いや、異邦人の語るパウロの書簡の解説=パウロがモーセの五書を否定して別の教えをしていると考えて勝手な解説をしている、その解説は真実を逸脱している誤りの解説なのに、そんな

教えだけを聞いているからです。聖書を書いてある意味通りには学ばないので、聖書か人の創作話かの区別がつかないだけなのです。

パウロが使徒21章で、モーセの五書を否定していない、

100%モーセの五書を支持し生きていると言う請願をナジル人の請願を神殿でして、トラーを否定している、トラーとは

別の教えをしていると言う噂を払拭した事実の記述、

一体それをどう説明するのでしょう?

使徒行伝を読んでも、パウロの書簡を読んでも分かります。

当時のイエシュア信者、大多数はユダヤ人と極少数の異邦人達は何を学び、何を生きていましたか?100%モーセの五書です。

自分の目で読んで確かめてみたら分かります。

 

パウロが1コリント5章、11章で説明している内容は、

これから来る春の過越の祭りで起きた一連の出来事です。

彼らはシャバットを祝い、過越や仮庵の祭りを祝った。

彼らは日曜礼拝も、クリスマスもイースターも祝わなかった。

それ以前に、その様な記念日など4世紀以降まで創作されて

いないから存在しなかったのです。

この事実をどう説明するのでしょう?

どうして聖書の聖徒達と現代の異邦人信者とでは別の教え、

別の記念日を祝っているのだろう?と単純に疑問に思い考え始め

調べ始めれば良いのです。誰が神の教えを変えたの?

神?それとも人?異邦人が1世紀後半から神の永遠の教え

トラー=モーセの五書に書かれたイエシュア=神のデザインした

人間の生き方を変形し、削除したからです。神が付け足し差し引きするなかれ!と警告しているその教えに反抗したからです。

 

大部分を端折り、読みもしないので、神が伝える自分は誰か、

人とはどう生きるのか?の殆どを飛ばし読みし、最後の箇所の

30%に書かれた、イエシュアが教えられたトラー=モーセの

五書の天直送の解説だけを読んでいる。でもそれらはモーセの

五書の短い抜粋されたものしか書かれていないのです。

それだけしか読まず、イエシュアが短く語っている

モーセの五書=本体である教科書全体を読まないので全貌が

見えないと言う状態に陥っているのです。

イエシュアが語った生きたモーセの五書の抜粋が書かれていて

それで大きな感動、感銘、命をもらう!尚更、イエシュアが語る生きた完成形が書かれたモーセの五書を知れば、どんなに深く

パワフルであるのか分かるのです。

 

人の書いた本でも、最後の後書きや、要約だけ読んでも深い中身

真相など見えないのです。あんちょこ程度に理解するに留まる。

 

コリントでは仲間が分裂し同じ意識で神の記念日を祝っていない状態であった事が書かれています。パウロは神のシャバットや

記念日を破棄して生きていましたか?神の使徒であるパウロが

もしモーセの五書を否定する事を教えたり、違う教えを生きたらそれはパウロが偽教師であり偽使徒と言う証明になるのです。

その事実から離れないで考えてみて下さい。

 

 

 

続く