福音書以降には人間が生きる詳細の全ては書かれていない  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人のクリスチャンの世界では、聖書は神の永遠不変の言葉であると言いながら、実際には聖書を2つに分断し、2つの箇所には別の教えが書かれ、さらには神の言葉同士が互いに敵対し合うと言う教えをしています。

最初の70%は異邦人には無効になったと言う異邦人が創作した教えを土台に聖書を読み、考えているのが一般だと思います。

 

そして福音書以降=これらを”使徒の書簡”と呼ぶ事にします。

旧約聖書、新約聖書と言うタイトルは1世紀後半に生まれた

時の異端者と呼ばれた”マルキオン”が創作したタイトルであり、神は神の言葉に対してそんなタイトルは付けていません。

聖書は聖書自身で聖書のタイトルを付けています。

”トラーの書” 又は”証の書”と言うタイトルが神が伝える本物の

聖書のタイトルなのです。

マルキオンは、救われたらルカ書と、いくつかのパウロの書簡を

読むだけで事足りる、クリスチャンは神の言葉を生きる必要が

無いなどと説いた人です。この人の思想は、反モーセの五書、

反ユダヤ思想を人生の終わりに説いたルターにも引き継がれ、

19世紀のイギリス人ダービー、デイスペンセーション神学の

生みの親である人にも全く同じ思想が受け継がれ、異邦人教会の中でこの思想を宗教改革後も引き続き変わらずに教えられ続けててしまう事になるのです。

神の言葉は学ぶ必要、生きる必要などない!

これは神が言った事ではなく、異邦人教師達が勝手に

言っているだけと言う事実に戻って下さい。

 

教会と言う言葉を敢えて異邦人グループに私は使っています。

モーセの五書と決別し、ローマ帝国教の創作した教えを取り入れ信仰の土台とするグループ。

聖書には教会と言う言葉やグループは登場しません。

最初から神の家族は、1つのグループ=神の声に呼び出された人の群れ=カハール、ケヒラ=ヘブライ語 同じ意味でエクレシア=ギリシャ語と言う言葉で表されているものです。

その言葉は聖書の最初の70%には、群れ、集会と言う翻訳用語

が使われ、使徒の書簡以降最後の30%では、教会と言う最初の

箇所の中の翻訳では使われない異邦人による完全創作新翻訳用語があてがわれてしまっています。この創作新翻訳用語により

エシュアが地上に来られる以前後とでは別グループ=異邦人が

中心のグループが出来上がったと勘違いするものになって

しまっているのです。

便宜上教会と言う言葉が浸透しているので使い続けているのです。

異邦人は2世紀以降には、モーセの五書=はじめの愛から離れ

異邦人だけのグループを形成し、ユダヤ人とオリジナルの神の

言葉=教え=モーセの五書を学ぶ、生きる事から決裂し、

ヘブライ聖書を知るパウロの様な教師とも決別し、ギリシャ思想哲学=プラトンやアリストテレス、ソクラテス思想を学んだ

異邦人西洋教父達から聖書を曲げて読む聖書を寓話、比喩とし額面通りには受け取らない、霊は、崇高、清く、肉体は汚れて

劣るもの、もしくは聖書の最初の70%は道徳に関する教え以外は異邦人には関係の無い教えとする、その様な教えを信仰の土台とする独自のグループを形成したのです。なぜその様になったのか?それは最初は政治的理由から、モーセの五書を生きる事で

課せられたローマ帝国の重税、処刑、迫害を逃れるために、

故に異邦人はモーセの五書を否定し、モーセの五書に書かれた

異邦人異教徒の世界とは全く異なる異質の教え、モーセの五書をユダヤ人の様には生きていません!と言う路線に逃げたからです。

それを実際に証明するためには行動で示す以外ないのです。

神の教えを生きる事を捨てる!シャバット、祭、割礼、食べ物、メズサ、衣のふさetc etc et ユダヤ色そのものが顕著である事

全てに決別したのです。

ユダヤ人信者達は異邦人とは違う、重税課せられても、大量殺戮されても、神が伝える通り命がけでモーセの五書に書かれた

生き方を死守し続けたのです。

それが異邦人信者の世界で、モーセの五書とは違う教え、

ローマ帝国=カトリックの要素を土台とした信仰に移行した

本当の理由なのです。異邦人クリスチャンは、歴史の途中で神の教えが変わり、神が神の言葉を終了させたからだ!などと教えられそう信じて考えているのですが、それは聖書の事実でもなんでもないのです。事実を自分で調べ、確認しないとならないのです。聖書だけ読んでも分かるはずです。どうして違うのだろう?

1世紀の信者と現代の異邦人の信仰、生き方、記念日。

 

自分の目で聖書から確かめて、福音書以降の使徒の書簡を

全部読めば分かるはずです。

彼ら1世紀の信者が生きていたのは、100%モーセの五書、

シャバット、祭りを祝っていた。パウロは使徒行伝21章に

ある様に、トラー=モーセの五書に反する違う教え=アヴラハムの割礼を禁じている!などの疑いを払拭するために神殿でナジル人の請願を通して、公にパウロが100%モーセの五書を支持し

生きている証拠としてやった事実をクリスチャンの世界では

全く話題にもされないし、パウロの請願の意味さえも教えられもしていないのです。

福音書以降の使徒の書簡は、人の生きる全ての定義は繰り返し

復唱されて書かれていません。

そこに書かれているのは、モーセの五書、預言書にイエシュアが書かれている通り、地上に来て、永遠から完了している贖いの業を実際に地上で見せて証明した事、それ以前にイエシュアが、

神が創造されたオリジナルの人間の性質そのものを生きた=

その性質がモーセの五書に書かれた神に造られた人間の生き方が書かれているのです。

モーセの五書に書かれた内容は、神の国を生きる、神の性質通りの人の生き方、個人、夫婦、家族、コミュニテイ、国全体で

その全てが完全形で書かれているのがモーセの五書なのです。

これはイスラエルの国の憲法でもあるのです。

モーセの五書が神の言葉、教えの完全版なのです。

最初の70%のダイジェスト版が聖書の後半の30%なのです。

法律もその中に入っていて、裁判はモーセの五書に書かれた内容に従って執行されているのです。

イエシュアが裁判も通さず不当に逮捕され処刑された内容も

当時の裁判の内容を書き出せば見えます。

これは過越の祭が近くなったら書いてみたいと思います。

 

使徒の書簡の中には、罪の定義の全貌、完全版、聖別の定義の

完全版も書かれていません。

だから使徒の書簡だけ読むだけでは、神の子はいかに生きるのか?の詳細が不明なのです。抜粋しか書かれていないからです。

福音書以降には、男性が女装する=服装倒錯、刺青をする、

堕胎について、性犯罪、どんな間柄で婚姻関係を結んではならないのか、魔術、近親相姦その他諸々神の目に何が罪、ズレなのか、何が聖別を破る行為なのか、詳しく書かれていないのです。

罪の定義の全貌が分からないままなら、何が神が定義する罪で

あるのかの自覚が無い、道徳的に悪いと本能的に考える事以外は、聖書=モーセの五書を読まなければ分からないのです。

聖別など道徳に関係ない教えと考えるでしょうけれど、

神の前にどれほど忌み嫌われる行為であるのか、モーセの五書、

預言書にはクリアーに繰り返し何度も何度も書かれているのです。

聖別を表す代表である神の記念日を汚す事は神の前には決してしてはならない行為死に値すると書いてあるのです。神の聖別の

定義は歴史の途中で変化しないのです。神の永遠不変の教えを

曲げて、神の伝える意味、内容を誤解しているのです。

福音書以降には詳しく書いてないから神の教えは無効と考えるのは、早合点なのです。

福音書以降には、シャバット、過越、仮庵の祭りが祝われていた

事が書かれていますが、ヨム キプールの日の出来事は書かれていません。書かれていないから終わりと考えるのは早合点です。シャバットを祝う=イコール神の創造された神の暦通りに行われる記念日の全てが祝われている=永遠に祝うと言う神が言われた前提は全く変わらないのです。

1曲をある箇所、数小節だけ、数音だけ演奏するなどと言うのは無いのです。神の教え、記念日は全部でワンセット。

シャバットや祭りをパウロも使徒も1世紀のユダヤ人信者、

そして異邦人信者も同様に祝っていたのです。

神は人に今は恵の時代なので、どの日でもシャバット、記念日、どの日でも自由に選びなさいなどとローマ14章のパウロの言葉を誤解して解説している異邦人の教えの様な教えはしていないのです。

神が与えている自由は、人間の選択権の自由だけです。

あなたの前に命と死を置いた。あなたは命=神の教え通りを

生きなさい!命の木からだけ食べる、神が言われた通りを生きる。知識の木=神の教え以外は食べない!神の教えではない別物混ぜ物の教えなど生きない!その選択権、神の言葉を拒否するか、それとも受け取るか、その権利があるだけで、昇天以降の

今の時代はなんでも生きて良い!などと言う教えは単なる人の

創作した教えであり、神から出たものではないのです。

2000年以降の今だけが恵の時代などと言うなら、イスラエルの神を誤解しています。救われた人には、救われた時から初めて今は恵の時代!本物の命を生きる自覚する時に入ったとパウロが言っているのです。逆に言うと恵の神が居る事を知らないまま

生きていた!と言う事です。

どの時代も神の恵みの実態を生きていた残りの民は最初から存在しているからです。イスラエルの神は、カメレオンの様に怒りの神、恵の神などと言う様に変身しない、同じ神。愛、憐れみ、

許し、恵みに富んだ神とちゃんと神の性質を神ご自身が最初に

紹介している、その神の声=言葉を聞いていないだけです。

人の教え=嘘を食べたら脳の中が嘘で充満してしまいます。

 

パウロがコリントで過越の祭りを祝い、コリントの人に過越の祭の意味を教えていた事がちゃんとパウロの書簡で残されています。

1コリント 5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。

あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

 5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者=マッツアなのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭をしようではないか。

 

11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。

11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐<過越の祭の

セダー=順序と言う晩餐の儀式>をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。

11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。

11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、<過越の祭りが始まる夕暮れ>パン=種無しパン=マッツアをとり、

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、

このように行いなさい」。<過越の祭りを祝うたびにこの様に

行って!いつ?過越の祭りを祝う時!マッツア=種無しパンで!>

11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、

「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

<飲む度=過越の祭りの晩餐の儀式=3杯目の杯は贖いの杯

呼ばれる杯であり、その杯を飲むのは過越の晩餐の中で行うもの!これがオリジナル。>

11:26 だから、あなたがたは、このパン=種無しパンを食し、

この杯=贖いの杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

 

この箇所は、過越の祭りを祝うたびにイエシュアがされた業を

共に思い出して!とイエシュアが言われた遺言です。

いつ?過越の祭りを祝う度に、イエシュアがされた当時の過越の祭の祝い方、儀式の中でする様に、マッツア=種無しパンと

4つの杯、その三番目の杯=食事の後にする3杯目の杯=

贖いの杯と呼ばれるワインを飲む度に、イエシュアがされた業を

皆で思い出し、回想し、新しくされている事実、過越=奴隷から贖い出され神のものとされている事実を祝い思い出して!と

言うのが、オリジナルのイエシュアの言葉なのです。

 

パウロはイエシュアの遺言を、その場に居てイエシュアと共に

過越の最後の晩餐を祝った使徒達から聞いて、この箇所を書いているのです。

 

続く