デイスペンセーション神学の解説の続きですが、この神学は
19世紀に異邦人=イギリス人により編み出された教えです。
この教えの土台=神の言葉が変化した、終わりと言う思想は
既に1世紀後半から異邦人の世界で語られる様になっていました。
神の言葉をどの部分でも否定する様な教え、それらの教えは
もちろん聖書ではありません!
神の言葉のどの箇所も一点一画も手を付けるな!と書かれていてそして異邦人の世界の教えへの警告が黙示録に書かれています。
黙示録2:4
しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
ある人達は、初めの愛=シナイ山で初めて文字として正式に交わされた婚姻契約=トラー=モーセの五書に書かれている関係の
生き方から離れた!とヨハナンは警告を書いているのです。
その通りの事が実際に1世紀後半から起きてしまっているのです。
モーセの五書を捨てて生きよ!異邦人教師達に1世紀後半から
そう教えられ続けて今に至るからです。
そう言う教えを今もずっと日々聞いていませんか?
でも神のメッセージは、初めの愛に書かれた生き方に戻れと言う警告なのです。それが、預言書であり、イエシュアのメッセージであり、黙示録に書かれたヨハネのメッセージでもあるのです。
クリスチャンの世界では、聖書を信じてますと言いながら
人が語るあるちょっとの聖書箇所だけを聞いてるだけで、
実際は自分で読んだことが無く信じてますと言うのを聞きます。
そして、聖書は神の永遠不変の言葉であると信じてますと言い
ながら、同時に神の言葉は終了=最初の部分は無効と言う大矛盾を言っていてもそれが矛盾であると気が付かないのです。
なぜなら、神の言葉は呪いの律法で、ジーザスは呪いの律法を
破棄するため、呪いで縛りの教えから解放するために来てくれたのだ〜とマタイ5章を完全に書いてある意味とは関係無い読み込み、誤解した解釈をして、神の言葉を否定することが、今の恵の時代の生き方だ〜と本気で人の語る教えを信じているからです。
福音書に書かれている、イエシュアが語った教えが100%
どの箇所もモーセの五書から語っていると言う事実にまるで
気が付いていないからです。
同じイエシュア=救い主を信じているのに、信じているその内容が聖書とぴったりの内容では無い、それは、聖書ではなく人の
思想や、人が作り出したイスラエルの神像を聖書であると勘違いして信じているからです。
神の言葉だけが人間の取るべき最終権威であり、それ以外の全ては、聖書の脇に避けられるもの、もし聖書の記述とそぐわない、教えは、それは神の最終的権威ある教えでは無いのです。
そして、疑問に対して、神の言葉からだけ答えを追求するべき
なのです。どんなにそれらしく聞こえる人が作った教えでも
それが聖書にマッチしないなら、それはただの創作された
非聖書的な教えであると言う事なのです。
いくらどんなに信じても、真実では無い教えは、人間の熱心に
より神の語る真実には変身しないと言う単純な事実を認めれば
良いのです。
今まで書いて来た内容をまとめてみるとこう言う事になります。
1世紀後半から異邦人の世界で教えられて来た聖書=神の言葉に関する教えは以下の様
1 古代の人は、律法を生きてかろうじて救われた。
2 古代の人は生贄を捧げて罪を許された。
<これらは2つの福音2つ別の救いの方法があると言って
いるのです。聖書はなんと言っていますか?1つの福音、
1つの方法=イエシュアを通してしか実現しない。
動物の血は罪を消さない!と最初からはっきり書いてあります。
神の家の祭壇で教えられている事は、仮の罪の許しが目的では
ないからです。レビ記を読む前提が最初から間違った思考回路、
前提で読んでいるのです。まだ見ぬ未来に地上に来られる
イエシュア、永遠の中に既に完了されている贖い、救いの業、
イエシュアを実際に祭壇で神の家の中の儀式で、シャバットで、祭りで、様々な方法で神がその実態を体験学習、実践を通して
教えているのです。ズレた事をする代償、自分に他者に
どの様な傷や痛みを与えるのか、実際に動物を自分の手で
屠れば言葉で言われるより100%効き目あります。
2度としたくないと思うでしょう。
それが一番の目的。そして神の子らは神の目にはどう言う存在か
新しくされている義とされている事実と、家族がどの様に修復しどの様に癒され回復し、最後に宴会を持って喜び楽しみ交わり
祝うのか全て教えているのです。神の家族の姿を教えているのです。
太古から語られた同じ福音、この世界の礎が出来る前からあった
永遠の中に存在するイエシュアの完了の業=タイムレス=時空を超えて永遠の中に完了している事実=救いをどの時代の人も
同じ様に受け取り、どの時代の信じる人の中にも同じ様に聖霊が
住まわれていた事実が聖書の真実な記述です。
救い、贖いは1つの方法しかない!からです。
”わたしが道であり、真理であり、命です。わたしを通してで
なければ誰も父の元に来る事が出来ない!”ヨハネ14:6
エデンの園を出てから今まで全てどの時代も、どの人種も
救い=イエシュアは1つ。贖い出される方法、義とされる事は
イエシュアを通して以外ない!とはっきり書いてあるのです。
人間の神学、教えは、救いの方法が人種により時代により違うと
言っているのです。それは聖書の真理ではないのです。
3 古代の人はイエシュア=救い主を知らなかった。
これはトラー、預言書を学べば、そこにイエシュアそのものが
書かれている事に気がつきます。
どの時代の人も、1世紀のユダヤ人も、トラー、預言書に書かれているイエシュアを待ち望んでいた事が書かれています。
アヴラハムは、わたしの日を見て喜び楽しんだ!とあります。
アヴラハムはまだ見ぬイエシュアを神に教えられて知っていた、同じ救いを受けていた、同じ聖霊が内側に住まってイエシュアのされる業を神のトラーから理解していたことが聖書には記されています。
創世記15:6 信仰により義とされていたアヴラハム。
福音は最初から伝えられ、同じ福音が世界へ伝えられる事実、
アヴラハムに与えられた義=約束、祝福が世界の人へ与えられる
世界の父となったアヴラハムの記録があります。
創世記22:18 アヴラハムが神の言うことを聞いて信じたそ
それゆえ世界の民族が同じ様に信仰により信じて祝福を受ける。
アヴラハムは神のトラーを理解したと書いてあります。
同じ福音、同じ神の教え、太古から同じ。
3 時代ごとに神の教えは変化、終了し、前の時代の教えは
その時々の別の時代が来たら前の時代の教えは、異邦人には
無効になると言うデイスペンセーション神学の教え。
怒りの神、恵の神、怒りの時代、恵の時代
使徒2章以外は、教会時代、よりパワフルな聖霊が与えられた。
使徒2章の出来事はシナイ山での出来事の再来です。
同じシャヴオートの祭り=神の婚姻契約が与えられた事を祝う時に同じ様に神の現象を人々が見た出来事です。
聖霊が初めて人に与えられた日ではありません。
神は特別な神の時に、主の日と呼ばれる日に、神の望む通りの
プランを執行する。神が実際に現れ出て来て、不思議な事をされる、それは神の自由自在です。神の勝手です。
神は何でも出来る、神がこの世界を造られたからです。
シナイ山では天がそのまま山頂に降りてきた。イエシュアも
シナイ山の雲の中に降りて来た。イエシュアと共に70人の
長老は婚姻契約成立の祝宴をしたと書いてあります。
使徒2章はシナイ山と同じく、今度は世界へ同じ婚姻契約=
トラー=モーセの五書に書かれた神との関係に神の性質通りを
生きる事に取り戻された事実が運ばれ、伝えられる、聖霊により力を強められた使徒達は、これから厳しいミッションに立ち向かい、そして聖書まで書き記す、その様な特殊な作業に必要な霊感が与えられたのです。
使徒2章以降に教会と言う別グループが出現し、置換神学では
ユダヤ人から異邦人へ契約の代表者が渡ったのだと言います。
デイスペンセーション神学は、いやイスラエルは永遠に神の契約
トラーを受けた代表者である。でも異邦人はイスラエルと
同じ教え=トラーを生きる必要がなくなったと教えます。
新しい教会と言う別グループなど出現しませんでした。
その言葉は、翻訳誤訳です。同じグループ、カハール=エクレシア=神の言葉に応答した人の群れです。創世記からマラキまで
カハール=エクレシアを群れと訳し、福音書以降、カハール=
エクレシアを教会と言う新しい造語で訳す、これ完全なる意図的な翻訳トリックです。翻訳は統一されなくてはなりません。
犬と猫という別の言葉を同じ動物に使ったら別の動物と考える
でしょう?そう言う意図的な翻訳工作をしてはならない。
どちらも聖書の事実、教えなどではありません。
ただ一つデイスペンセーション神学は半分真実を語っています。
”イスラエルは永遠に神の契約受け取りの代表者である。”
これは真実ですが、同時に不真実な教えは、異邦人には関係無い
教えであると、聖書に反する不真実を語り、異邦人が神の言葉へ注意を払い、熱心に神の真理を慕い求める事をはぐらかし、
神の教えから引き離し、そして学ぶことも、生きる必要もないとダービーが教えた結果、20世紀は神の言葉に根付き生きることより、現象、不思議、癒し、奇跡、預言etc etc ムーブメント
からムーブメントへ、人が編み出すその時々に強調された新しい教えやムーブメントや活動を生きることに邁進させられたのです。
これに飛びつけば回答があるかも!解放されるかも!でもそれに飛びついても何もない。自分は何も変わらない。次から次へ人が編み出す教え、ムーブメントに飛びついて行く。神は何か一つを強調して生きる様な事など教えないからです。神は人に神の性質に根付いて生きる事神の言葉の実態に根付いて落ち着いて生きる事を教えているのに、20世紀は人が編み出した思想や活動を
生きる事に邁進させられた、それが異邦人の世界の教えの特徴であると思います。
その結果、神の言葉を学ぶ事、警告されている通り、はじめの愛から遠く遠く離れ、人の思想=置換神学、デイスペンセーション神学、その他誰かが語る思想を生きる世界にハマったのです。
前の時代の教え=モーセの五書は生きる必要など異邦人には
無い。<デイスペンセーション神学>
これは、聖書とは真逆な不真実を語っています。
詩篇27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。
神は永遠に移りゆく影や変化はないヤコブ1:17
神の言葉は完全であり魂=全存在を生き返らせる 詩篇19
草は枯れ花はしぼむ、しかし神の言葉は永遠に堅く立つ
イザヤ 40:6−8
神は一度交わした、契約=約束を破らない、変化させないと
伝えています。
異邦人が創作した教えは、神の言葉は変化する、神の言葉は無効
となる、神の人格は時代ごとに変化すると勝手に言っているだけです。神に対する冒涜を冒涜とも思わないほど、神の言葉を捨てたら真実に鈍くなってしまう事が起きるのです。
神の言葉が変わったと言う発言は間接的に神は嘘つき、不真実
約束を変える神!と言う事を言っているのです。
その発言は、イスラエルの神の性質を曲げた偽の神像を人に伝えていると言う非常に冒涜的な罪を犯していると言う事に気がついてないのです。偽の証言をするなかれ!とあります。
聖書の最後の部分は、トラー、預言書、に書かれたイエシュアが
肉体をとって実際に来られた記述が書いてあります。
そして、聖書の最後の部分には、神の教えの細かい詳細は省かれています。クリスチャンの世界では、福音書以降が優れた霊的な
教えが登場したのだと完全に誤解しています。
続く