神が創造された永遠不変のシャバットの意味を塗り替えないで | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を読んだら、なんてアホくさ?と思う様なまるでおとぎ話?

神話?作り話?馬鹿馬鹿しい〜と感じる教えの数々。

衣のふさ、戸口のメズサ、割礼、食べ物、ヒゲ、シャバット?

 

聖霊がうちに宿らない人には愚かに聞こえる数々です。

聖霊により子供を懐妊する?嘘でしょう〜!

神が人間として地上に生まれた?嘘すぎる。

遠隔操作の体外受精か?アホ臭い。子供騙し?

文字は殺し霊は生かすと言う意味でも分かる通り、人の教えや

たとえ神の言葉を文字で読んだだけであれば、内側に聖霊が

宿らない人には愚かしく聞こえる、そして神の教えを読んだだけでは、ただ神に責められている様にしか聞こえない、

それをトラーは責める、だからトラーは帳消しにされたのだ〜

などの教えを異邦人は編出しているのです。

境界線が無い、無法地帯がどんなに危険なのか分かってないのか

とても変な思考回路です。神は人に、神の創造された人間は、

これこれを生きて、これこれを生きない様に造られていると神に造られた人間の性質を述べているだけである!と言う事実に盲目な場合は、神は神の教えを捨てたと言い続けるのです。

真珠をドブに捨てる。豚に真珠になってしまいます。

 

2コリント 3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約

仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、

霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

 

トラーには罪の詳細の全てが書かれています。完全なる形で書かれています。福音書には罪の聖別の詳細は書かれていません。r

それらを聖霊無しに読んだら、ただただ気持ち的には責められてしまうだけになるでしょう。ズレた生き方を光で照らされて

闇の罪の詳細が見えてしまうからです。

 

でも聖霊が内側に宿る人は、トラーに書かれた罪の奴隷の下に

留まる生き方から解放された、決別した!以前の罪の性質に

引っ張られる場合は、断言する!それは本当の自分では無い!

だからその生き方を選ばない、そしてズレてしまった場合、

過去も今も未来も神の許しがあると言う確証があるでしょう。

その救済策は創造の最初から同じなのです。

新しい契約とは中身がモーセの五書とは別と言う意味ではなく

再更新された契約=詰まり参加する本人の状態が違う=頭脳に割礼がされている状態=上から生まれ聖霊を受けて神の目から見る通りを学習し続ける状態の人、それが新しい契約と言う意味。

 

だから命に至る生き方、霊=聖霊を内側に受けている人は神の言葉により生きる!と言う方向転換が可能だと書いてあるのです。

 

モーセの五書=神の言葉、教えは人を殺しなんて言う読み方をしていては神が伝える真実など見えないのです。しかも、罪の定義を取り除きました=モーセの五書に書かれた罪は今はなんでも

して良いことになりましたなどと言う誤解した教えを本気で信じる場合は、救われたらこの世のルール全部破って良い、時速40キロと書いてある近所の歩道を好きなだけ速く走って良いと

言っている的外れ加減と同じ事を信じていることになるのです。

普通に考えたら分かる。でも最初から神の教え、言葉は呪いの

律法でキリストが来られてそれが破棄され、新しい教えが現れた

などと言う人の作った空想神話を信じているから永遠不変の神の言葉が見えないのです。

 

人は神の性質に似せて造られた、その人達が生きる詳細には

安全基準、命を守る境界線がある=それがモーセの五書に書かれているものです。

でも聖書の始めの始めから一見バカバカしく聞こえる神の教えが

書かれていますよね。命の木、知識の木、どの木の実を食べて

どの木の実は食べてはダメと書かれています。

アホくさ!と考えるのか、神が言う事だから重大だと考えるのか

それが命の木の実から食べる食べ方と、知識の木から食べる食べ方の違いに繋がってしまうのです。

神の目から神が見る通りを見ようとする場合と、人間の勝手な

考えで全て判断を下す場合、命を生み出す生き方に至るのか、それとも無意味、隔たり、死の分かれ道です。

 

1コリント1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、

救にあずかるわたしたちには神の力である。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
 
十字架、木の言葉とは、モーセの五書に書かれた福音の詳細の事です。2000年前以降に現れた新種の教えが現れた事だなどと誤解して読んだらパウロが何を語っているのか見えません。
タナック=トラー、預言書、諸書に書かれたオリジナルの福音の
詳細、それを神の言葉と聖書では言っています。

人の教えの問題は神が言われた事ではなくて 自分の理に叶う

ことをすること。これが諸悪の根源、罪の根そのものです。

 

コヘレトの書 7:29 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけで
ある。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、
人は多くの計略を考え出した事である。

イザヤ29:14

「わたしは、たとえ人の目にはどんなにりっぱに見える計画でも、人間の側の救いの計画をことごとく打ちこわし、
最も才気あふれる人の、最もすぐれた考えをも無視する。

 

創世記2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。

2:2 神は第七日にその作業を終えられた。

すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。

神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。


翻訳でも分かる通り、神が週の7日間の日で、唯一第七日目を

取り出して他の日と別の目的の日として分かたって聖別し、

そして第七日目を聖別した理由が書いてあります。週の第七日目

だけ特別な名前=シャバット=止まると言う名が付けられています。1〜6日はただの日、第一〜第七日目とだけしか書かれていません。

そして神が語る聖別の定義は最初の最初に語られています。

その言葉は最初にシャバットを指して使われているのです。

神の目的通り、普通の日と特別な日=第七日目を分けた、

ヘブライ語の聖別の意味定義は、神が意図する通り、神の目的

通りに取り分けて他のものと境界線を引くと言う意味です。

これは割礼の意味とも同じです。境界線を引く。聖別した生き方

聖別されたものである状態と他のものを区別している。

 

以前の自分=主と共に死んだ自分、そして主と共に復活の命に

以降した実態、それが割礼でも表されています。

全部1つの意味として繋がっています。

目に見えるもの、目に見えないものは繋がっています。

物質的、霊的同じく1体です。ヘレニズム、グノーシス思想は

体は悪い、汚れている、霊は優れているなどと教えますが、

聖書のヘブライ思想と真っ向から相反する思想です。神はこの

世界を全て物理的に創造され、それら全てが揃って最高に良い

トーヴメオードと神が言われたのです。

神の意図通りぴったりな最高傑作!が現れ出た!と神が言われた

のです。物理的霊的と区別して見たら繋がらないですが、

両者は一体であり同じであるのです。

天の中にある神の家が実際に物理的に地上に現れたそれがエルサレムの神殿、世界の中でただ一箇所神の臨在が地上で表された

場所です。神は自由自在に現れ、様々な方法でご自身の栄光を

人に表しています。ロバの口からさえ神の言葉を語らせる事さえしているのですから。

そして神の臨在が宿る一人一人は、神の聖別した生き方をする

これは物理的な神殿の中で表されている数々の事柄、イエシュア

の業、神の子らの生きる姿とぴったりマッチしているものです。

 

人間の問題の本当の根は、神の言う通りにはしたくないと言う

隠れたズレ=罪が潜んでいるのです。エデンの園から同じ。

神の言うことを無視して、自分の知恵に頼ること、

それをずっとし続けているのです。

神が言うことが重要だと思わなくなること、これは死に直結することです。神の教えに目覚めていないで、眠っている状態、真実に鈍くなる。死とは単に体が死ぬと言う事だけではないのです。

だから神の教えを捨てよ!などと恐ろしい冒涜を何も考えず、

感じずに言い続け、神が人のために与えた神の記念日を捨て、

ローマ帝国=人間が作った記念日や教えを伝統で継承し実践続けて、それが現代の恵の時代の正義だと錯覚し、神が喜んでいるとまで考えて言い続け実践し続けているだけなのです。

 

死とは、隔離、離別、隔たりです。神との本来の関係、顔と顔を

合わせる直に親しい関係から遠のいてしまい、だから宗教臭い

生き方をしてしまう。宗教に変身する。

放蕩息子の例え話にある様に、兄は父の近くに居ても心は遠く

そして冷えた関係、関わりにあった事が書かれています。

 

どうして神が言う事に反対することが正義、恵の時代の生き方

であるなどと言う人の教えに騙されてしまうのでしょう?

それらしく聞こえてしまうからです。神のトラー=教え、

インストラクションを学ばないからです。

しかも、自分が信じていること、実践していることが神の言葉

教えではなく、ちょいズレた異邦人達が、ローマ帝国が政治的

理由から編み出した宗教の教えであることに全く気が付かず

昇天以降は、新しい教え=イスラエルではなく西洋宗教を神が

作り出したとまで信じているのです。

私もそう信じていましたが、違和感ありました。どう聖書を読んでも変化する神、7日目の記念日が1日に変更したと書かれていない、神は神の言葉は永遠と書いてあるのにどうして途中で変わると言っているのか、聖書は言ってないのに書いてないのに?

それが救い主を信じた後の最初の私の疑問であったのです。でも周りがみんな聖書では無い事を信じて語るので、そうなんだ〜と無知な私はころっと騙され続けたのです。しかも14年前まで

オリジナル聖書を書いてある通り、人の神学や教えを通さない純粋な聖書の学びを聞いたことがなかった!これが問題の根だったのです。

そしてその様な聖書ではない教えを信じることで多くの人達に

誤解を与えるのです。イスラエルの神像が正しくない神像として

語り継がれているからです。

私の義弟<年齢は上ですが>言いました。

”キリスト教って作り物だと分かるよ。イスラエルなのにどうして

西洋ローマ教皇が神になったの?ローマとイスラエルとは全然

ちがうでしょう!神が途中で言葉や教えや内容を変えたなんて

聖書に書いてないでしょう?どうしてそんな嘘本気で信じてるの?一体何信じてるの?それって偽物、作り物の宗教だよね?と言われました。本質を見抜く人は嘘が見抜けるのです。

 

いや、私も西洋人の作った教えは今は聖書ではないと完全に

聖書の記述から分かったので、”その通りです。それは人が

作り出した神の言葉を変形した宗教の教えだから、OOさんの

言う通り、その洞察力、識別力を皆が持てば問題は消えるのに!”と言いました。

そして、ユダヤ人が抵抗しているのは、クリスチャンの世界で

語られる曲げられた偽のメシア像、偽のイスラエルの神像、途中で神が神の言葉や約束を変える、イスラエルを見捨てる、

神の永遠の教えを呪いの律法だから捨てよ!と西洋宗教の教えに変形したその数々に抵抗していると言うことにいち早く気がつく必要があります。

良かれとしていることで実は人につまずきを与えているのです。

ユダヤ人に偽情報のメシア像、イスラエルの神像を伝え続ければ誤解の壁と嫌悪感、拒絶感を作り出してしまうのです。

トラーも知らない、契約の中にも無い割礼の無い無知な異邦人が

勝手に言ってるやってると彼らは考えているのです。

 

神の計画しているユダヤ人、異邦人との本当の和解をもたらすには聖書だけに戻らないとならないのです。

1つの大家族として元に戻る。

同じ家族は同じ生き方をし同じ記念日を生きると聖書には書いてあるのです。

 

 

 

続く