聖書自体だけから、神の言葉に語らせる 聖書に無い人の教えは元が非聖書的思想 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセの五書とユダヤ人グループと決別し独自の宗教哲学神学を編み出した1世紀後半から出現した異邦人信者の世界の教えは、

その後、4世紀のローマ帝国が新宗教として新しい教え、

モーセの五書とは別の違う教えに変え、複数の異教神宗教の教え要素、偶像、シンボル、作り変えた記念日に変更し、全部ミックス、混ぜて作った宗教が編み出されました。

それは純粋な神の言葉、教えではない人の創作した混ぜ物宗教です。

それが中世に暗黒時代の腐敗した宗教、信仰を生み出し、

16世紀宗教改革後も、反モーセの五書、反ユダヤをルターが

かかげ続け、その思想はホロコーストを起こしたヒットラーに

まで受け継がれ、そして19世紀に出現した新しい神学デイスペンセーション神学が編み出され現代にまで伝えられています。

 

西洋宗教、キリスト教の中で教えられているモーセの五書が

終了し新しい教え、契約が出現と言う教え。そして異邦人が

新しい契約を受け取る代表となりイスラエルは退けられたと言う教えは置換神学です。

デイスペンセーション神学は、イスラエルは引続きシナイ山の

契約を受け継ぐけれど、異邦人には関係のない教えと主張しています。これら全て聖書ではなく、人が考え出した思想神学です。

聖書に根拠のない創作の教え、異邦人の目から見た思想を

語っているだけなのです。

 

イスラエルの神=イエシュアと人との関係は100%シナイ山で

与えられた婚姻契約を元に成立していると言う聖書に書かれた

永遠不変の事実を全く無視した教えです。

人種ごとに、時代ごとに、変化する神と神の教え、契約と言う

異邦人の仮説は、聖書とは真逆な教えです。聖書には変化する神、変化する神の言葉、教え、契約など1カ所たりとも書かれていませんが、そう書いてあるのだと異邦人に主張されているのです。聖書の最初の70%は膨大な量、読まずに食べて、人の語る教えを聞き続ければ、聖書のどこかにそう言う風に書いてあると人が語る空想、想像、妄想して信じてしまうのです。

福音書以降にも、変化する神、変化する神の教え、契約など

1箇所も書かれていません。

福音書の中の全ての引用は、モーセの五書、それに付随する

預言書、諸書以外無いのです。

 

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。

それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。
 
ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。

父には移り変わりや、移り行く影はありません。

1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちを

お生みになりました。

私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 

デイスペンセーション神学、1世紀後半に出現したマルキオンの

教え、怒りの神、恵の神、怒りの時代、恵の時代と言う教えは

神の言葉に基づけば真実ではないことは明らかです。

 

神は永遠から永遠まで同じ性質、神は最初から許し、憐れみ、

恵みに富む神とご自身で紹介しています。

 

出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。

主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、

いつくしみと、まこととの豊かなる神、

34:7 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に

報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。

 

<神は悪者を正しく裁いてくださるお方です。神が何をどの様に

しようとも、人間がケチ、文句のつけようがないのです。

なぜなら神は完全であり、神が全てを創造し、治めているから

です。神の言葉に物申すとは、人が神を超えて自分が誰かを

忘れた発言、行動をしているだけなのです。>

 

申命記 7:8 ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、

あがない出されたのである。

7:9 それゆえあなたは知らなければならない。

<神は感じなさいなどと言いませんでした。知る=契約の中の

夫婦の関係の中で裏表知り尽くす、その知ると言う言葉が使われています。

ヤダと言うヘブライ語。体験的に関係の中で知る、知識上では

なく、実態を伴う関係の体験を伴うと言う意味の知る。>

 

あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、

彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して

千代に及び、

<愛するとは、契約の愛=神の教えの中に根付き留まり実際に

生きること、それが神を愛すると言う意味です。

口先で、信じます、愛しますと言う事ではない事は聖書を読めば

明らかです。神を愛する人は、神の言葉を愛し、神の言葉=教えを生きる!と書いてあるからです。イエシュアの口からも

同じトラーの言葉が語られたのです。異邦人の世界では、

ジーザスを愛する人は神の教え=トラー=呪いの律法、恵の無い生き方を生きてはならない、信じたらユダヤ人やめなさいと言い聖書とは異なる逆の事を教えています。そして信じた後は実際に何を生きるのかをはっきりと把握していないのです。

だから人が編み出した宗教活動を生きる事が神を愛する事だと

錯覚するのです。

神の教えは古い、廃れた、呪い、律法でそれを生きる事は恵みを無駄にした生き方だと言いますが、福音書以降に書かれている、イエシュアが使徒が1世紀の信者が生きていたのは

100%モーセの五書に書いてある教えのみである事、新しい別の教えなど教えていない、生きてなどいない事に全く気が付いて

いない人が語る教えです。>

 

申命記7:10 また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに

報いられる。

 7:11 それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。

7:12 あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、

あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、

いつくしみを施されるであろう。

7:13 あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、

あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を

祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、

羊の子を増されるであろう。

<神は神の似姿を生きる事を選ぶ人達に多大な報酬を与えて

います。それは、神の国の実態を生きる事が人間の本来の生き方であることを実態を持って教えて下さるからです。神の性質を

生きることそれこそが本当の祝福だからです。>

 

詩篇 86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、

あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます。

145:8 主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、

いつくしみ豊かです。

145:9 主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみは

すべてのみわざの上にあります。

 

旧約時代は怒りの神?新時代は恵の神に変身?そんな事一体聖書のどこに書いてあるのでしょう?詩篇の記者はモーセの五書だけを土台に詩篇の全てを書いているのです。預言書、諸書の著者は100%モーセの五書しかテキストが無いのです。その事実だけに立って、正しく聖書を読まない限り、人の教えに遮られ、聖書に書いてないヘレニズム思想=異邦人思想で聖書を誤解して読み続けてしまいます。

 

哀歌3:22 主のいつくしみは絶えることがなく

そのあわれみは尽きることがない。

3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。

3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、

それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者に

むかって恵みふかい。

 

詩篇78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に

真実でなかった。

78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。

 
ネヘミヤ9:17 従うことを拒み、あなたが彼らの中で行われた
奇跡を心にとめず、かえってかたくなになり、みずからひとりのかしらを立てて、エジプトの奴隷の生活に帰ろうとしました。
しかしあなたは罪をゆるす神、恵みあり、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かにましまして、彼らを捨てられませんでした。
 
異邦人置換神学では、神はイスラエルを見捨てたと教えます。そして契約の代表者を異邦人に乗り換えて、異邦人が今度は
別の契約を受け取った代表者にしたと言いますが、どの契約を
いつどこで神が異邦人に与えましたか?婚姻契約、神との関係を生きる契約書は1つしかないのです。シナイ山で与えられた婚姻契約しかないのです。それが人の生きる道。道は1つ。神が契約を与える時は必ず儀式が伴うのです。シナイ山での一大センセーショナルな契約儀式イベントを塗り替える様な契約儀式が天と地を証人として行われなければならないのです。
イエシュア昇天後別の契約など与えられたと聖書のどこに書いてありますか?書いてありません。そんな一大イベントも無い。
その別の新しい契約の完全なる書はこの世のどこにありますか?
そんな契約書は存在などしていないのです。そんな事聖書には
書いてないのです。全て異邦人の想像、空想、創作の教えを土台に語っているのが異邦人の世界の教えなのです。
もし別の契約書が出現したら、聖書を丸ごと書き換えないと
ならなくなってしまうことに気が付いていますか?
全く聖書とは辻褄の合わない空想、思想なのです。>
 
ネヘミヤ9:31 しかしあなたは大いなるあわれみによって
彼らを絶やさず、また彼らを捨てられませんでした。
あなたは恵みあり、あわれみある神でいらせられるからです。
23:19 神は人のように偽ることはなく、また人の子のように
悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、
語ったことで、しとげないことがあろうか。
 

民数記23:20 祝福せよとの命をわたしはうけた

すでに神が祝福されたものを、わたしは変えることができない。

 
イザヤ 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの
神の言葉はとこしえに変ることはない」。
 
<神の言葉は永遠に変わることがない!とはっきり書いてあります。それをどうしてその神の言葉に反してイエシュア到来以降は神の教えが変わったなどと言い続けられるのでしょうか?
それって嘘です。不真実です。
その仮説、教えは聖書の教えなどではありません。
もしたった一カ所でも神の言葉は永遠!と神の口から語られた
言葉が記されていたら、それは永遠であり、確固たる証拠として
値するものなのです。でも聖書の中には繰り返し神と神の言葉は永遠不変!と書かれているのです。人の教えを取りますか?
それとも聖書を書いてある通りに受け取りますか?もしくは聖書は神の言葉ではないと言う異邦人教師の創作した教えを取りますか?何れにせよ、神の言葉の真実は人の信じる内容により変化などしないと言うことをはっきり認識する必要があります。>
 
これはイエシュアの口から語られた言葉です。
 
マタイ24:35 天地は滅びるであろう。
しかしわたしの言葉は滅びることがない。
 

ルカ1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、

1:50 そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に

及びます。

1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、

1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

 1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを

助けてくださいました、

:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえに

あわれむと約束なさったとおりに」。

 

これを読むだけでも置換神学やデイスペンセーション神学が

聖書に根拠のない教え、人の創作した不真実な作り物である事を

識別する事が出来ます。

 

続く