一方的に流される情報を鵜呑みにする事はやめて聖書に書かれた真実だけに戻る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

この世界の情報はある人達の意図でコントロールされている面が

あります。

支配者の意図通りを大衆に信じさせたい、その情報を一方的に

刷り込む事をしています。

反対の意見や真実な情報はどんどん消されて行きます。

正しい情報に大衆を触れさせず、嘘を流しています。

洗脳と同じ。恐怖を煽り、ある行動に追い込む事をしています。

言動の自由は規制され、圧力をかけてきます。

憲法に違反している行為も、権威を持っている人達が堂々と

発言し、実行しています。

世も末と言うべき、悪が堂々と現れ出る時代になりました。

誰が真実を語っているのか識別する必要があります。

それには正しい情報を得る事!正しい情報が全ての鍵です。

嘘に騙されて、自分が損なわれないためです。

アダムとエバに死が入ったのは、嘘に騙されたからです。

問題の根はいつも同じ性質なのです。

 

異邦人クリスチャンの世界で信じられている、当然と信じられている様々な教え、事柄は、実は聖書とは全く関係の無い西洋異邦人教父達が作った教えであるのですが、それらが聖書であるのだと疑わず、信じ続け、非聖書的教えであるのに、

その事に全く気が付ついていないのです。

 

その理由は長い長い年月、1世紀後半から2000年近くも

異邦人の世界で語り継がれた聖書とは違う教えは、それが聖書であると言う事を教えられ、それを信じて継承し、実践する中だけに留まっているので、何が聖書で何が聖書に書いてないのかの

区別さえ付かない、聖書の事実が聖書に書いてあるのに目の前にはっきりと書いてあっても、違う教え=人間の教えに変換されて解説されているので事実が目隠しされ、見えなくなっているだけなのです。

 

プロテスタントの信仰の根元はローマ・カトリックです。

1世紀後半以降、異邦人信者はローマ帝国の迫害、重税、処刑

から逃れるために、モーセの五書を捨てた行為、信仰に移行し、ユダヤ人とモーセの五書とは完全に決別した立場を取って今に

至るのです。

 

オリジナル聖書に書いてある、オリジナル聖書に登場する

ヘブライの世界、思想、信仰、モーセの五書、1世紀の信者の

生き方とは違う教え、記念日、実践とは違うのはそのせいです。

神が神の言葉を途中で変えたと言う妄想、思想、空想、嘘、

聖書ではない嘘の教えは完全に消去しない限り、神の語る真実な言葉、教えなど見えないのです。

 

神は人類を人種別に2つの家族として造っていません。

1人の人から出て、同じイスラエルの神、同じ生き方=神の性質に似せて神が造られたオリジナルの人間の生き様に戻る!

同じ家族は、同じ家訓、同じ記念日を生きる!

こんな単純な事が曲げられた教えと、ユダヤ人と異邦人が

イエシュア昇天以降再決裂し、その状態が歴史の中で固く浸透してしまったのです。でもユダヤ人も異邦人もどちらが欠けても

完全なる神の家族の姿にはなれないのです。

 

神の教えは1つです。人種、時代により変化しない。

そして神の記念日は全世界に対して1つ。レビ記23章に書かれたのが神の創造した本当のオリジナルの永遠不変の記念日です。西洋人が創作した教えや記念日はイスラエルの神に属さない、

人間が作り出した記念日、そんな単純な聖書に書かれた事実さえ目の前に書いてあるのに見えなくなっているのが異邦人の世界の教えなのです。

 

ローマ教皇は聖なる父と呼ばれていますが、聖なる父は聖書ではただお一人です。人間にその様な神に値するタイトルを付けるのは非聖書的だとクリスチャンも知っていると思います。

 

でも、元の教え=モーセの五書から離れた教えを土台としている

プロテスタントの教えは、元の根はカトリックの教えなので、様々な要素がプロテスタントも全く1つで繋がっています。

 

だからカトリックとプロテスタントはイエシュアや使徒、1世紀のユダヤ人達が生きていた生き方=モーセの五書を生きていない神の記念日を生きていなのです。聖書ではなくて、ローマ帝国

異邦人が編み出した教えや記念日に乗り換えたからです。

 

4世紀にローマ皇帝がローマ帝国拡大支配を目的として作った

新宗教、異教神々の宗教の要素、複数の異教神の信仰要素、教えを取り入れて作った新興宗教を作り、大衆に受け入れやすい信仰

内容の宗教を作り、ローマ皇帝が末長く支持され、帝国支配が

安定するために作った宗教、その教えを継承しているから、

オリジナル聖書とは異なる教えを語り続けているのです。

誰かの信じている事に対しての批判ではなく、聖書である事を

信じているのか、それとも聖書に無い教えを信じているのか、

その違いをはっきり把握する必要があるのです。

聖書を読めば、福音書以降の使徒の短い書簡を読めば、

そこに書いてあるのは100%モーセの五書、シャバットを

第七日目に祝い、春、秋の祭りを祝い、レビ記11章の食規定を

生き、男の子が生まれれば割礼を施し、異教の神々の教えと

交わらない、それしか書いてありません。

 

昇天以降は日曜日礼拝をし、日曜日礼拝の席上でシャバットでは

やらない献金を集め、シャバットや春、秋の記念日をやめて、

クリスマス、イースターを代わりに祝い、男の子に割礼を施す事を禁じ、モーセの五書を捨てよと言う教えが福音書以降の

どこに書いてあるのでしょう?書いてありません。

 

しかも聖書の暦では日曜日は労働日!労働日に仕事や学校を

休んで集まるなんて人いないのです。今のイスラエルでも

日曜日は労働の最初、学校に行く日です。

日曜日は働く日!働く日の第一日目であり、シャバット=止まる日では無いのです。どの日もシャバットなんて言う教えがありますが、そうすれば週の全部は休み、止まる、聖別された日、

聖別とは他の日と分かたれ、区別されているのにそれでは神が

定義する聖別の意味が崩壊します。

日曜日は神が聖別した日ではない事実は永遠に変わらない!

日曜日は主の日ではない。主の日は、神が聖別した日=レビ記23章と、神が歴史の中で特別な事をされる日、それが聖書の主の日の定義なのに、クリスチャンの世界では、神の定義した主の日

を日曜日と言うことに作り変えてしまったのです。

聖書に書いてないこと、別定義を勝手に言っているだけです。

 

1週間の日で神が名前を付けて聖別している日は第七日目以外に

無い!と言う事実だけに立って下さい。

ローマ帝国が神の言葉を塗り替えた教えに気が付くには、

進化論が嘘!と言うことに気がつくのと同じくらいハードルが

高いです。

なぜなら嘘でも言い続ければ大衆は本当だと信じるからです。

聖書に書いてあることに戻り、都合よく要らないと考える箇所は

全て寓話、比喩、たとえなどと言う教えにすり替える事を

やめないとならないのです。聖書に書いてある通りに読む。

 

聖書にモーセの五書を否定した教えが書いてあると考えている

箇所、割礼=改宗儀式や、シャバットが変更になったと考える

箇所も全て100%異邦人がやっている勘違いの読み込みの解説に過ぎないのです。

聖書=モーセの五書に根付かない異邦人、そして1世紀当時の

世界の情報が欠落したまま聖書を21世紀の文化、思考や頭脳や慣わし、しきたり、西洋宗教の教えを通して読んだらパウロが

話している論点など全く見えて来ないのです。

問題は正しい情報の欠如=その当時の歴史的、文化的、宗教的

様々な情報が欠落して想像で翻訳聖書読んでいるのです。

 

だから、書いてある内容を再検証し、聖書のどの箇所も、

パウロも、100%モーセの五書を支持し、モーセの五書を否定した教えなど1つもしていない、パウロはモーセの五書を話している!と言う事実が見えない限り、本当に聖書の中核は見えないのです。世間で聞かされる教えは、人の神学=神の言葉を否定

分解、削除した教えを通して、オリジナルでは無い、翻訳聖書

誰かの思想が混じった翻訳聖書を読んでいるだけなのです。

翻訳にも人の思想がてんこ盛りされているのです。

しかも注解など入ったスコッフィールド チェーンバイブルなど

デイスペンセーション神学の思想を信じさせるための注解でありそんな翻訳聖書を読み続けたら、神の語るオリジナルの考えや

教えなどにたどり着けなくなってしまうのです。人の教えが神の

真実を邪魔している事に気が付かないとならないのです。

神の言葉だけに語らせる!と言う基本が抜けたら、それこそ

様々な教えが編み出され続け、それこそ別宗教の教えになるのです。

 

西洋宗教の教え=モーセの五書は終わりとし、様々な聖書の教えを、西洋宗教風=時のローマ帝国の人々に受け入れやすい様に

異教神の教えを混ぜて作った宗教、それが信仰の土台となっているのです。

 

だからカトリックとプロテスタントは両方同じ記念日を祝い、

モーセの五書は終わりとし、神の創造されたオリジナルの記念日を祝わなくなったのです。それが本当の理由、昇天後神が神の

記念日や教えを変えたなどと言う人が伝える嘘に騙されるのは、聖書を書いてある通りに読まない、伝統の教えが神の教え、聖書だと誤解しているからです。

モーセの五書に記されている教えは、道徳的教え以外異邦人には

無関係と言う立場を表明し、それをずっと実践し続けています。

 

聖書の教えであると言いながら 実は人の教えを語っている事に気が付いていないだけなのです。伝統でそれほど長年根強く浸透した教えは、聖書に照らし合わせて書かれている神の言葉を認めない限り、人の教えが神の教えだと誤解したままになります。

作者=神の意図とは違う読み込みをし続けてしまう。

だから、聖書の中に記されている教えと同じことを話してない事

になるのです。

 

私自身救われた当時創世記からずっと聖書を読んでみて、やはりノアの洪水や、ソドムとゴモラ、又は約束の地に入った時にそこに住んでいたカナン人を殺したりしたのか、肉の目から考えたら

分からない事だらけでしたが、神の目から見ればそれは理解出来るのです。

罪は1人の人から侵入し、そして全体を罪=ズレ=汚れ、崩壊へと導いてしまうからです。

それほど神が伝えるズレと言う内容=的外れ=神が創造した人間の生き方と違う生き方をする事はしてはならないと言う神の警告教えを重要視しないとならないのです。

 

軽〜い事に聞こえるでしょうか?神の言われた通りにだけ食べる

神が言われては無い事を食べてはダメ。

一体それが何なのさ?と言う取り扱いをしてしまう。

神が言われた事は本当であり重要と言う取り扱いをしていない

それは今も同じでしょう。

神の言葉は無効、終了などと異邦人の世界=大衆丸ごと一体で、

ずっと言い続けているのだから。

 

知識の木から食べただけ?!なのに、エデンの園を出てすぐの

大惨事悲劇は、家族兄弟間殺人です。それほど深刻=神の言葉を

無視して違う思索、行動をするとは死を招く行為です。

神の言葉に背く、無視する、外れる、それは死を招く事を意味し

ています。今の世の中と同じ、歴史の中でずっと同じです。

 

 

続く