神が言ってないこと やってないことを言ったやったと変えている異邦人の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

子供の頃に体験した事、いや大きくなっても体験する。

 

自分がやっていない事なのに”何々ちゃんがやった〜” とか

”何々ちゃんが言ってた〜”と言われる。

違う違う!そんなこと言ってないよ!やってないよ!と反論するけれど自分がやっても言ってもないことを、言ったやったと言うことにされてしまう。

もっと深刻な場合は冤罪=”濡れ衣” やってないことやったことにそれて罪を負わされて牢獄に入れられて処刑されてしまう。

 

神が神の言葉を変えてもない、変えたとも言ってもないのに

異邦人クリスチャンの世界では、疑いもなく、神が神の言葉

教え=トラーは不完全だったので途中で変えた、神はイスラエルが生きれない律法を最初に与えたのでその厳しい律法を歴史の

途中で変えた。イスラエルに生きれない律法を与えて、悲鳴を

あげるまで待って別の救いを与えたなどなど様々な自由自在創作の教えがされています。本当に人間創作の教え!聖書のどこにもそんな事など書かれてもいないのに、書いてない事を元に教えを創作した異邦人達。書いてあると言う場合、神がいつそんな事を言ったのか聖書の中だけで調べてみることをお勧め致します。

これらは全て聖書=神の言われた事ではない教え、人の考えた

肉の目から見たイスラエルの神像、神の教え!人の教えで変形された教え、オリジナルの神の言葉ではないのです。

 

その様な問題はユダヤ人の中にも同等にあります。

イエシュアが1世紀当時の時の権威、ラビやトラー学者、

写本筆写者達に対して正していた事は、1世紀当時の彼らの

”伝統の教え、人の言い伝え”なのに、神の言葉を横に退けて

人の伝統の教えの方を権威として生きていた、そのものズバリ、問題の本質、中核をイエシュアが正しいているのです。

そんな箇所でも、イエシュアがモーセの五書を否定しているのだなどと、とんでもないで勘違い、誤解の読み込みをしているの

です。

宗教グループ、様々な宗派の中では、そのグループの教え、

人間が作り出した教え、神学、教理や伝統の慣わし、教えを、

神の言葉、教え、仰せと同等のレベルで取り扱っている事、

もしくはそれら人が伝統で語り継いでいる教え=聖書ではない

教えなのに神の言葉=聖書以上に権威を持たせて信じ、実践している。これが本当の問題の根です。

 

信仰の無い人が言っていました。様々な宗教はその教えをはじめに伝えた人の意図から外れて一人歩きし、勝手な教えに手直し

創作され、作り変えられていると。歴史の中で混ぜ物の教えに

変身して別物になっている事は調べれば分かります。

 

エデンの園で起きた問題と同じ内容、性質です。

神が伝えている事ではないことを、神が伝えている事を退けて

別物=混ぜ物の教えを信じ、実践し続ける事。

 

神の言葉を退けて、神の言葉では無い別の教えを権威とし信じ、

実践している事。

その事に気が付かないのは、聖書だけに立つ、戻る、根付くと

言うことをやめているからです。

聖書を読んでも、聖書に書いてある通りに読んでいない、

受け取らない、実践しないのは、神の言葉に対して曲がった

解釈、人間が手を加えて変化させて作り変えた事を信じて、

実践しているからです。

 

神は人類へ神の言葉=教えは全て、一点一画も付け足し、

差し引くな!と言われているのに、その神の永遠不変の忠告=

言葉さえも無効になったと異邦人の世界では語り続けます。

そして聖書とは異なる西洋教父達の作った教えを受け継ぎ伝統で継承し、言い続け実践しています。

 

神の言葉は3つのカテゴリーに仕分ける事の出来る性質のものではないのです。

そして、どうして十戒の4項目目を変形させているのでしょう?

それこそが付け足し、差し引き、神の言葉を塗り替える行為そのものであると言う事実に気が付いて。

盗みをしたら一目瞭然でしょう。

自分のものではないものを盗み、自分のものとする。

神の言葉ではないのに、神の言葉の著作権を有しない人間が

手直し創作し、付け加え、差し引き、あたかも神のオリジナルの教えであるがごとくに取り扱い、人の教えを生きる。

それはある意味、盗むなかれと言う神の言葉を破っている事です。偽証するなかれを同時に破っている事です。

 

出エジプト22章を異邦人の世界でする様に3つのカテゴリーに

分けようとするとこの様になるのです。

でもどの項目も全て重なり合い線引きなど出来ません。

神の言葉は全てで1セット。分解して考える事が出来る性質のものではないのです。

 

神の言葉は、道徳的教え以外は異邦人には無効などと神はいつ

言われましたか?そんな事聖書のどこにも書いてない。

イエシュアは、トラー=モーセの五書=み言葉を実際に生きる

人達がわたしの家族=イスラエルの神の家族の証拠であると

言われたでしょう。そのイエシュアの言葉をどう言う理解で

聞いているのでしょうか?

 

イエシュアの口から出た言葉=教えは100%モーセの五書に

基づいているのです。イエシュアは父に遣わされ父の教え=トラーを教えに来た、父から出ないものを1つでも言わない、

生きないと言われたその事実が見えない限り、イエシュアは

新しい教えをしているとか、新しい教えが出現したと誤解した

考えをしてしまうのです。

 

福音、イエシュア=救い、贖い、全ての事は、モーセの五書に

書かれており、その説明が預言書、諸書でされているのです。

聖書の最初の箇所に詳しく、イエシュアの全てが書かれているのです。だから、モーセ、預言書にわたしが書かれていると

イエシュア自らトラー、預言書から救い主の実態、業を

復活した体で弟子たちに教え直しているのです。

トラー、預言書、諸書以外の教科書などないからです。

 

ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

 

トラー、預言書、諸所に、イエシュアのされる業の全てが

書かれている!と言っているのです。それを理解していた人

理解していなかった人、どの時代にも同じイエシュアがおられ

未来に起こるまだ見ぬこの事実を信仰により見て、確認し内側に聖霊を受けて生きていた人達が太古から現代に至るまで同じ様に存在しているのです。2000年前に初めて救い=聖霊が現れたと考えているから見えない、イエシュアは永遠から永遠に存在しているのです。

イエシュアが言われた言葉通りそれが本当の実態なのです。

 

24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、

聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、

説きあかされた。

 

イエシュアが語られている時、1世紀の時代には、聖書とは

モーセの五書、預言書、諸書しか存在していない、

そして、聖書の中にと聖書に書いてあるのは全て、モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っている事実に気が付いて読めば理解出来ます。福音書以降は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書の短い後書き、解説であるだけなのです。モーセの五書以外の新しい教えなど聖書のどこにも記されていない、神が造られた世界にはモーセの五書に書かれた神の教え以外は存在などしていない。なぜ?モーセの五書が聖書の全ての土台、教えであり神の言葉は神が説明する通り完全であり修正不可、手なおしの必要などない永遠不変の言葉教えとはっきり伝えているのです。

 

どうしてシャバットの聖別を破れば死に値すると神が言われたのでしょう?シャバットは道徳的カテゴリーに入りますか?

儀式的と異邦人の世界では定義していますね。

神の前に神の教えのどの項目でも人間が破れば、それは神が

デザインした人間の生き方とは外れる!と言うシンプルな

事実なのです。聖書=神の言葉、教えを、する、しない掟リストの様に考えていると神の伝えている真相、本質は見えないです。

 

神が創造した神の似姿に造られた人間の生き方が書かれているのがモーセの五書であり、神の教えは100%完璧、

完成品、良いものであり、人を正しいもの、神の似姿の通りに

生きる教え、指針を与えるものであると書いてあります。

神の教えは100%全てでワンセット、完全なるもの。

それを捨てたり、差し引いたり、変形したら別物に変身します。

 

神のデザインから外れる事、的外れ=罪と聖書には書かれているのです。

神の教えを捨てる=的外れな生き方になると言う事です。

 

獣漢と同性愛、神の言葉を捨てる事、シャバットを破ることは

同等に死に値すると書いてあります。極刑です。

神の教えが3つのカテゴリーに分かれるなんぞの仕分けを

神はしていないのです。

 

神の言葉を仕分ける異邦人が考えるカテゴリー別教えとされますが、そんな仕分けは無用、不可能なのです。

 

出エジプト <道徳> 22:19 すべて獣を犯す者は、

必ず殺されなければならない。

 22:20 主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、

断ち滅ぼされなければならない。

 

<市民> 22:21 あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、

かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。

<道徳> 22:22 あなたがたはすべて寡婦、または孤児を

悩ましてはならない。

22:23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって

叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。

 22:24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもって

あなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、

あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。

 

<市民>22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に

金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。

22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでに

それを返さなければならない。

22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための

着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。

彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。

 

<道徳> 22:28 あなたは神をののしってはならない。

また民の司をのろってはならない。

 

<儀式>22:29 あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。あなたのういごを、わたしにささげなければならない。

 

どの教えも全て重なりこの様に仕分けてみても仕分けは無理です。円の集合体がいくつもあり全ての集合体が真ん中で重なる様に神の教えの要素が重なるからです。

しかもシャバット=安息日は10の言葉の中に入っているのです。

道徳、市民、儀式全部のカテゴリーに属するのです。

なぜシャバットが道徳、モラル?神の国の子らの生き方に反する=シャバットを破ることは死に値する重さのズレと神が説明しているでしょう。辻褄が合わなくなります。

 

人の教えを一掃する=それには聖書に書かれている事実だけに

戻り追求し、書かれている内容を正しく書かれている通りに把握する作業をしない限り真実は見えず、人の教えを生きてしまう。

 

 

 

続く