パウロの書簡の箇所で誤解されて解説されている箇所と並行に
1世紀後半からローマ帝国迫害の元、政治的理由でモーセの五書とユダヤ人グループと決別した異邦人の信者の世界の教えの中で
一般的におよそ2000年近くも主張し続けている、ユダヤ人の世界では語られなどしないその様な聖書に根拠の無い教え=
聖書観を異邦人の世界では語り続けられている教えの数々。
その様な人造神学=思想などの問題の根、思考回路、誤解した
聖書の読み込み解釈の発生原因などを考えて行きたいと思います。
2000年近く大衆に語り継がれ、信じられ、継承され、伝統で確固たる位置を根強く占めて居る教えも、聖書に何の根拠も
無ければ、それらは人が発想し創作した、ただの不真実な教えであり、その不真実を元に教えられ、語り続けても全く意味がないのです。進化論と同じ根拠、証拠のないのに真実であると言う、真実に基づく立証が永遠に不可能なただの単なる仮説と同じです。
イエシュアはモーセの五書=父の教えを破棄するために来られたのではないとイエシュアの口から直接語られた言葉が聖書には
書いてあります。その箇所さえもクリスチャンの世界ではイエシュアがトラーを破棄するために来たと勘違いの読み込みをしているのです。
人類でたった一人完全なる人間の姿=神が創造されたオリジナルの人間の生き方を地上に来て見せて下さった。
その意味では、誰も体験した事のない生き方と言うパウロが言う
言葉は正しいです。
そしてイエシュアは父の言葉=モーセの五書とは違う新しい教えを伝えに来たのではなく、聖霊により書かれた神の言葉=教えの本来の意味、神の教えをどう生きる?と言う人が考えた解釈ではなく、天直送の神の意図通りを再現し、神のトラーの霊的富、
宝を実際に生きて人々に教えるために来られたのです。
神の言葉は全部揃ってワンセット=ユニット、一つの交響曲
シンフォニーです。そのシンフォニーは創造主と言う指揮者の元神の家族全員で奏でてぴったり神のデザイン通りにマッチし、
各パート、持ち場が独特の音色を全楽章を通して奏でて、
素晴らしい1つのマエストロの作品が現れ出る様に造られているそれが神の家族の生きる性質、生き様なのです。だからそれぞれがそれぞれに人間が作った勝手な教えを生きる時、1体ではなくチリジリバラバラ、不協和音、指揮者と合ってないずれた
タイムラグの演奏をしてしまうのです。
詩篇133:1口語訳
見よ、兄弟が和合して共におるのは いかに麗しく楽しいことであろう。
新改訳改訂3
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
新共同訳
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、
なんという喜び。
1つ=エハッド、1つ以上で完全に一致一体、その様に人は神に
造られて居る、その状態にあることはなんと嬉しい、麗しいと
書いてあります。
神の家族は1つです。エデンの園を出てからも継続的に全て
同じイスラエルの神の家族に連なる決意をする人達は、神の1つの家族に加えられ続けて、神の1つの家族、それしか存在しません。そうとしか聖書には書かれていません。聖書には2つ分裂した家族、時代ごとに2つ別の教え、2つのグループに、時代別に神の創作した別の記念日を祝うなど書かれていません。
ユダヤ人、異邦人、集会、教会そんな分離した言葉では聖書には書かれていません。
教会と言う言葉自体、聖書に書いてある意味を全く反映していない人間が編み出した造語翻訳に過ぎないのです。聖書に書いてもないのに、書いてあると勘違いしているのは、聖書を書いてある通りに読んでいないからです。
神の声に呼び出された人達の群れ=カハール、ケヒラ<ヘブライ語>エクレシア<ギリシャ語>と書かれています。そしてそれの人達を証人、残りの民とも読んでいます。全て1つの家族、
1つの木に繋がる枝、1つの羊飼いの元に集められた1つの羊の囲いに加えられる人々です。
その聖書の事実からしても、デイスペンセーション神学が語る
2つに分裂したグループ、ユダヤ人は父、ジーザスは異邦人へ
与えられた、ユダヤ人と異邦人は別の教えを生きるなどと言う
聖書にも書いて無い変形した教え、思想が聖書では無い!と、
聖書に記述されて居る事実から嘘かまことの教えかを見分ける
必要があるのです。人間の主張で神の言葉を帳消しにして、
神の言葉の事実を曲げて別物の教えを作り出しているのです。
その様な神が語る神の家族の性質、神の言葉の性質を分解し、
1つの交響曲で描かれている曲の70%を、神が語る教えの意味も理解しないままポイ捨てする様な、そんな演奏の仕方をしたら神の創作したオリジナルの曲は現れ出て来ないのです。
全体の意味は見えない、部分的にしかその曲を知らないと言う
結果になります。
作者、作曲者のオリジナルに他者が手を付けたら、作曲者の意図通りの曲はどの様に演奏しても現れ出て来ないのです。それでは
別物にアレンジされた別ジャンルの曲が演奏されてしまいます。
神がモーセにシナイ山の上=天の領域で見た神の家をそっくり
そのままその通りに地上に作りなさいと言われた意味は、人間が
神が提示する設計図=ブループリント=神の家に住まう現実を
別物に変形してしまったら神の意図通りは現れ出ないからです。
神がずっと人に注意勧告して居る事、混ぜ物するなかれ!別の教えを混ぜるな!と言い続けて居るのは、神の性質通りが破壊されてしまうからです。別の教え=イスラエルの神に属さない、
別物は創造主には属さないもの、本物、オリジナルを人が知るためです。これが神の言葉であり、神の言葉で伝えられている
神が創造された人間の生き方、それが完成形で書かれているのが
モーセの五書であり、人がその完全なる神の言葉、書に手を付けて改ざん、破壊、作り変えてはならない!とずっとずっと聖書の最初から最後まで伝えられているのです。
2世紀以降から現代に至るまで宗教は人間が自分の道、自分の
考えを追求する路線を走っています。純粋な神の言葉ではなく
人が創作した教えに変形し続け変化し続けています。
水が地形に沿ってそれぞれの方向に流れて行く様に、人は自分の
考えに基づく思想で宗教を作り、自分の願い通りの考えに沿って教えを描いて来ました。
神の思索そのもの、神の息吹が吹き込まれた神の言葉、
神の芸術作品である永遠のシンフォニーを奏でるのではなく、
人間が勝手に編曲しオーケストラの楽器も別物に変えて、
神の意図した通りの曲を奏でることをやめ、編曲、アレンジを
したものを演奏しているのです。そしてそれが新しい時代の恵みの時代の神の真理であるなどとまで言っているのです。
そして好きな箇所だけ好きなテンポで好きな様にアドリブアレンジ演奏する。それ以外、解釈難解、もしくは自分の好きではない箇所の楽譜は読まずに、捨てて演奏しないと言う事までしている。
では、聖書には神の言葉は捨てよ、部分的に捨てよ、自分の考えで捨てよと神が実際に教えているのでしょうか?
そんな事が一体聖書のどこに書かれているのでしょうか?
何度も繰り返し書いている箇所、異邦人の教えの世界で最も誤解した解説がされているマタイ5章のイエシュアの言葉、
”成就”と言う言葉を、終わりと訳し、解釈し、勘違いしていますが、この言葉は、”完成させる、確立させる、コンファームする”と言う意味であり、終わり!終了などと言う意味は全く無い
言葉なのです。
この様な誤解された解釈、ボタンのかけ違いの連続のパウロの
書簡の間違った読み込みを異邦人の世界ではされ続けているのです。その思想の土台は、1世紀後半からの異邦人世界の反モーセの五書、モーセの五書とユダヤ人と決別し独自の教えを編み出した、その問題の深い根があるからです。
そしてイエシュアが”あなた方は〜と聞いているが、わたしは〜と
言う”と言う言い回しは、当時の1世紀ユダヤ人の世界の言い回しであり、一般に聞かされている解説と、イエシュアが語る天直送のトラーの解説との違いを強調して言う場合に使っている
テクニカルな言い回しなのです。これは他のラビも同じ言い回しを使い、自分のトラーに対しての解釈と一般に聞かれている
解釈とは違う事を対比させる時に使った言い回しです。
それを、あなた方は〜と聞いていると読んで、イエシュアが
モーセの五書を否定して語っているのだ〜!と異邦人の世界では完全に早合点の誤解していますが、その誤解は、異邦人世界の
勝手な想像で考えているだけであり、1世紀当時のユダヤ人の
世界のトラーの教えを語る上で語られる語り口調である情報を
まず知る必要があります。情報の欠落による誤解です。
もしイエシュアが父の言葉=モーセの五書を否定すると言うならば、それはウルトラマン太郎ウルトラの父を虐待、成敗するの巻〜のごとくありえない話、内部紛争、内部分裂と同じになります。そしてイエシュアは父の言葉をその通りに伝えに来た、父の
語る事以外語らない、父がしなさいと言う事以外しない!とまで言っている意味が不明になってしまいます。
サタンの世界でも互いに敵対し合えば国は立ち行かないと言われたでしょう。どうして神が神の永遠不変の言葉に敵対する様な教えを言うと考えるのですか?全て人が作った思想を元に永遠不変の神の言葉の方を異邦人達が曲げているからこの様な誤解の
ループが継続して継承されてしまうのです。
作り話を元に信仰の土台の基礎を置いたらやがて崩れます。
ゆるゆるの即席埋立地に建てた建物は倒れます。
イエシュアが来られた以降の信者は、イエシュアが来られる以前に居た信者より霊的だったのでしょうか?
いや、イエシュアが来られる以前は聖霊が内側に住まわない、
救いがない=一時的な罪の赦ししかなかった、又は特別な人の中にしか聖霊が住まわなかったなどと言う解説を異邦人の世界では
されていますが、それってどんな神?永遠から永遠にあわれみ深く許しに富、助け、恵みを与える神と紹介しているイスラエルの神とは異なる神像を異邦人は語っているのです。
聖書に基づかない思想とはまさにその様な思考回路、発想の事。
2000年前まで人を放置する神?どんな神像?そんな事聖書のどこにも書いてない、最初の最初から救い=イエシュアが存在
することは聖書のページの面の至る所に書いてあるのです。
違いは、その事実を知って内側に受け取っていたか、いないか、
個人個人による、それはどの時代も同じなのです。
まだ見ぬ救いを神が伝える通りに知り生きていた残りの民は
どの時代にも同じく存在しているのです。見ないで信じるものは
幸いと言うイエシュアが言われた事はどの時代でも同じなのです。
そしてこんな考えをしているのです。イエシュアが来られるまで、いや昇天以降まで、いや使徒2章のシャブオートの祭りまで
聖霊が与えられていなかったと異邦人クリスチャンはそう教えられ考えている場合には、古代のイスラエルより、2000年以前より優れた霊性を与えられた、そしてその事によりイエシュアや使徒達が教えていた教えは過ぎ去り、モーセの五書は終了、
廃れたので、神の教えは取り去られたと考えて、その教えを
言い伝えているのです。
ではどうして聖書の最初からずっとイエシュアを内側に受けていた人がいたのか?どうして人々は昇天前のイエシュアを信じたのか?聖霊によらなければどうしてイエシュアを神と信じられるのか?全て辻褄が合わない教えである事は明らかです。
アヴラハムがヤコブが又はモーセが異邦人ルツが神=イエシュアに気が付いたのは全て聖霊によるのです。信仰により同じく
イエシュアが与える救い、贖い、義とされた実態を受け取った。
救いは1つ、道は1つとクリスチャンも言うでしょう?
時代ごとに別の救い=イエシュアは無いのです。別の義の基準
神の契約や教えもない!1つ全て1つ。永遠からエデンの園から全く同じ1つの福音1つの救い=イエシュア。
聖書をちゃんと最初から読めば、私たちと共にある神、
イマ=共に在る ニュー=私たち エル=神と言う名前通りの
性質の神で在る事が本当の事実。最初から人は神の霊を吹き入れられて生きるものになったとある通り、その状態がドーマント=停止、休止、冬眠状態なのか、繋がった状態のなのか、その違いだけなのです。
続く