どれほど聖書を曲解し誤解した読み込みをしているのかは、
聖書に書いてある通りのオリジナルの言葉の意味に戻れば
はっきり見えるものです。
”トラー=モーセの五書=神の永遠不変の言葉=教えは今現在も信じる者たち全てへの変わらない教えだと言う人に対して、
異邦人の世界ではこう語られます。
”ジーザスがトラーを成就したと言う事実を理解し損ねているのだ!ジーザス自身がそう言った事を理解しているの?!”と。
この様な意見、発言、教えを異邦人クリスチャンの世界では、
当然のごとく必ず語られ聞かされ続けています。
異邦人クリスチャンの世界の中だけの典型的定番の教えです。
そしてユダヤ人以外の異邦人が、トラーを生きていると言う事を家族や友達が知れば奇妙に思われるものです。
”ジーザス自身がトラーを成就するために来たとはっきり
言っているでしょう。”と言われてしまいます。
恵みを無駄にし、古い教えに戻り一体何ずれた事やっての?て
事を言っているのです。
古い教え?新しい教え?変化する二つの福音?二つの教え?
神の伝える通りのイストラクション、教えを生きているのに
その事に対して抵抗、反対される、不思議な現象。
神の教えを破る事こそが正義、恵の生き方と考える、
その様な思想こそが、神の言葉によれば神に対する不信、反逆、反抗であるのに全く気が付かないのは人の教えにすっかり染まり
続けているからです。
その場合、異邦人が編み出した教えを考えているのです。
1 古い教え=創世記~マラキは終わり 神の言葉、教えは永遠であると神が言いながら途中で気が変わり、神の言葉は一時的なものになった。
2古い教え=トラー=モーセの五書とは違う新しい教えを
イエシュアがしていたのだ。
このどちらも聖書の真実ではないのに、そう信じられているのです。神の言葉が永遠不変で聖書のどの箇所も同じ事=モーセの
五書に書かれた内容しか書かれていない事実がまるで見えていないからだと思います。
そして福音書以降に書かれている教えこそが新しい教え、
レベルの高い別の教え、最強の力、新しい聖霊、完全なる救いが初めて与えられたと考えているからです。神の教えが永遠から
永遠に同じである事実を聖書から読み取らない、
気がついていないからです。
それ以前に、異邦人の教えの世界では、太古の人は”律法を行う事で神とかろうじて繋がっていたと語られています。
神の完全なる救い、聖霊を内側に受けていない。
聖霊が内側に住まう人は、預言者などの特殊な人のみであった
とも勝手な解説がされてしまっています。
人は上から生まれる事実=聖霊が内側に宿らないなら、
イエシュア=神が理解出来ない事実は誰でもどの時代でも同じなのです。
神の名は神の性質を表すものです。その名は途中で変化しません。人と共に住まう神=イマニュエルと神が神の性質を自ら紹介し、それが創世記の中からずっとナレーション形式で語られているのです。預言書、諸書にも同じ神の性質が書かれているのです。
この点だけ考えても、福音、救いの方法が2種類と言う教えは
福音=道は一つ!と言う事実とは全く異なり別の福音が語られ
信じられていると言うことにまず聖書から気がつかないとならないのです。
1つしかない!神は1つ、神の救いの方法も1つ。
太古から同じイエシュアだけを通して救われる!
救い=イエシュア=神の性質、神の完了の業、その事実、性質が
異邦人が編み出した教えに覆われて真実がまるで見えていない
教えなのです。
そして2000年前までイエシュアが来られないので救いが存在していなかったと言う思想は、ギリシャローマ哲学思想で、
ヘブライの書=神の言葉を読んでいるからです。
イスラエルの神を完全に誤解している思想です。
神は永遠から永遠に存在し、救い=イエシュアは永遠の中から
存在し、創造の最初に全てが完了していると書かれているのです。
時空を超えて同じ救い=どの人種でも、どの時代でもどの場所でもイエシュアにアクセスできる事実が見えていない思想なのです。神はどんな人にもアプローチをします。神が望む通りに。
直接イエシュアに地上で出会わなかった太古の人、現代の人も
同じイエシュアにどの地点でもどの時代でもアクセス出来るのです。
地上にイエシュアが来られるまで救いが完成されていないと言う
思想は、ヘブライの書を書いてある通りの意味で知らないからと言う事に尽きるのです。だから丹念な学び=正確な学び、神が
何を人に伝えているのかを書いてある通りに知ると言うことを
やめてはならないのです。基本モーセの五書に反する思想、
神の教えから離れた事が全ての原因なのです。
読まずに食べたら中身が何なのか分からない。
モーセの五書に否定的な思想ありきで全てが語られる、異邦人の
世界の教え、全てが反モーセの五書、反ユダヤ思想なのです。
その様に歪んだ思想を土台にして聖書を読めば、歪んでヒビの
入った鏡に映し出すが如くに神の伝える真実が歪んで語られて
しまうのです。
そして問題は、聖書に書かれている内容を文法、文化、当時の人が使っていた言葉の意味慣用句、文化背景をまるで無視して
今の時代の自分達の文化、思想、言語の中で想像して語って
しまっているのです。
そして更には、聖書に書かれた文章全体を最後まで読まず、
一部だけ取り出して読んで、勝手に解釈し解説しているのです。
そして言葉の意味を逸脱して解説することをしているのです。
その代表例が”成就”した=終了、終わり、無意味!などと言う
言葉の意味、真実とは全く異なる発想で語り、その後に書かれたイエシュアの語られている言葉をまるで無視、飛ばして考えようともしない教えです。
成就=終了、完了したと解説します。だから神の教えは今は無用無効になったとクリスチャンの世界では言うのです。
この箇所を取り出して、トラー=モーセの五書に書かれた教えは欠陥があり、不十分な教えでありと解釈しているのです。
しかも、福音書〜黙示録ではモーセの五書だけを語っている事実
そして新しい教えなど福音書以降には一切書かれていない事実に
盲目なのです。
”あなたは~と聞いていると言う下りを読んで、イエシュアが
新しい教えをして、トラーを横に差し置いたと勝手に解釈、
考えているのです。
そして”わたしは~と言う”と書かれている言葉は、当時の人=
トラーを知っていると考えているユダヤ人の間でも、
神の語る本質からずれた発想をしていた事をイエシュアが指摘しているだけなのです。
神が神の口から直接発した言葉=永遠不変の言葉=完全なる言葉を否定するなどと言う発想をするなら、それは聖書に書かれた
イスラエルの神の性質が全く分かっていない思索から考えているからなのです。神は変わらない、移りゆく影の様に変化しないと
書いてあるでしょう。神が直接伝えたその言葉は嘘?なのでしょうか?聖書には嘘が書いてあるとでも信じているのでしょうか?
これらの箇所を読んで思い込みの考えを前提とし、トラーは破棄されたと主張し続けているのですが、これらの箇所はイエシュアがトラーに対して反対している教えなどではあり得ないものなのです。
この箇所は、イエシュアがモーセの五書に反した教えをしているのでしょうか?
ユダヤ人コミュニテイの中でメシア イエシュアがトラーを成就したので、その結果モーセの五書は退けられ、彼らは先祖の
ユダヤ人達より新しいより優れたレベルの教えをイエシュアからされてそれを生きよと言われていたのだとマタイは書いているのでしょうか?
あなた方は~と聞いているとはラビが使う言い回し用語であり、人々がどう聞いて神の言葉を解釈しているのかを指摘し、
でもわたしは~と言うと言う言い方をしています。
この言い回し、フレーズは当時のラビ達が使った言葉なのです。
神の言葉で書かれている内容は同じでも、受け取る人により誤解した、ずれた解釈を当時の人もしていたからです。
だから尚更異邦人の世界で改造されてしまった神の言葉に対する
解説が、あなたは〜聞いているが、わたしは〜と言うと言う
神からの言葉を直接聞くべきなのです。
しかも21節では、イエシュアが語る中には、モーセの五書以外にも、当時のユダヤ人達の間で語られていた口頭トラーも含まれてイエシュアが語られているのです。
成就したと言う言葉は、ヘブライ語ではクムと言う言葉であり、確立させる、立証、裏付けをすると言う言葉です。
そして、この破棄、成就と言う表現は1世紀当時のユダヤ人の
世界で使われた慣用句、言い回しでもあり、
成就=神のトラーを正しく解釈し伝え生きる
破棄=神のトラーを的を外して捉えている、的外れに生きていると言う意味なのです。
大体神の言葉を終わらせて別の教えをする=それらは神の言葉に基づけば、全て偽預言者であり、偽救い主となるのです。
この基本的聖書の事実に目を留めれば異邦人の世界で語られる
神の言葉を否定する教え=神の教え、聖書ではない!と気が付けるはずです。
例えば、もう一つのヘブライ語 マレイと言う言葉が成就と言う翻訳の言葉の裏に使われていても、それは完全なるものにする、確立すると言う同じ意味です。
1列王記 1:13−14 エレミヤ44:25
この言葉の意味は神が語られたことを実際のアクションにして
行動すると言う意味がある言葉なのです。
その言語からも分かる通り、トラーを脇に置いて終了するためではない、神のトラー=教え、インストラクションを正しく確立し人々が生きるために来たとイエシュアは伝えているのです。
異邦人の思想、頭脳にはまるで響かない、まるでピンと来ませんが、ユダヤ人の世界で、預言者や救い主が、トラー=モーセの
五書=父の教え=婚姻契約を破棄するなどと言う発想をする時点で、神の言葉が何であるのかを分かってない、モーセの五書や預言書を書いてある通りに学ばず、人の解説=古い教え=破棄されったと言う教えを信じている人が語る教えであることは明らかなのです。
神の言葉=永遠、絶対的権威に対して挑戦、破棄するなどと言う発想自体が異教徒異邦人背景の思想の人々が考える非聖書的発想であるとまず知れば良いのです。
神の言葉は絶対であると言う前提、神の言葉は変わらないと言う前提で聖書に記された全てが語られているという事実だけに
戻り、立たない限り、神の言葉を変形する教えは後を絶たないのです。
続く