イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、
われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
1ペテロ 1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
マタイ5:17 わたしがトラー=モーセの五書や預言者を
廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も
小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義がトラー学者や
パリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、
はいることはできない。
5章17から20は一つのセットであり、同じ内容を話している箇所です。全部繋がっています。
トラーと預言書と一緒に記されています。トラー=モーセの五書
そしてモーセの五書に戻ることが書いてある預言書その両方が
書いてある意味があるのです。
翻訳だと見えない、誤解する言葉などがあります。
ニュアンスが違う、伝えている意味が見えないと言うことが
あるからです。
18節の滅びゆくまでの”まで”と言う言葉は、その時で終わり!と言う意味などではないです。
詩篇 110:1 主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
その時まで、そして継続してずっと"アド” と言うヘブライ語で
書かれています。同じ状態を保ち続ける。
イエシュアが来られるから、世界の終わりが来るから、
神のトラー=神の教えインストラクション=モーセの五書、
婚姻契約が終わりなどと言う意味は聖書の中では100%
あり得ない教えなのです。
なぜなら、神のトラー=教えは神聖な侵す事が出来ない永遠不変のものだからです。一度でも聖書に神の言葉は永遠に堅く立つと
神が言われた言葉が書いてあれば、その通り変更無し、永遠で
あり不変であり堅く確立すると言う意味は変更なし!
それを異邦人の世界では勝手な解説で神の語る言葉を塗り替え
続けているのです。
神の語る言葉の事実だけに立たない限り聖書に書いてある事は
真相、中核がぼやけて見えなくなってしまうのです。
誰も神の言葉を変更することは出来ない!
ガラテヤ4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から
生れさせ、トラーの下に生れさせて、おつかわしになった。
神であるのに人間として生まれた。同じ神の教えの下に生まれたと書いてあります。神が創造されたデザインその通りの人間の
姿をイエシュアも生きたからです。
詩篇119:89
主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、
み言葉=トラーはとこしえ〜オラーム=永遠!と書いてあるのに異邦人の世界では一時的であり変更された神の言葉と聖書に
書いてある事実に反して不真実な真逆を語っているのです。
この世界が創造された事と同一平行で、神のトラー、
モーセの五書、預言書、諸書は永遠!と書いてあるのです。
クリスチャンの世界では預言書は廃れたとは考えない、言いませんが、預言書は100%モーセの五書だけを語り、モーセの五書に生きることに戻ることを警告し、モーセの五書からズレた
生き方この世の罪の生き方に邁進、爆走する場合に刈り取るべき
結末がはっきり書いてあります。
未来は全ての人がクリスチャンが廃れたと言うモーセの五書を
生きる事に戻る世界が来る!シャバット、新月、春と秋の祭りを世界中が祝う事に戻る!と預言者が神からの預言をし、預言者の言葉が全て預言書になって記されているいる事実があるのに、
モーセの五書が廃れたと言う教えは聖書ではないまるで辻褄が合わない教えなのです。
詩篇89:34 わたしはわが契約を破ることなく、
わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
89:35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。
わたしはダビデに偽りを言わない。
89:36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように
常にわたしの前にある。
89:37 また月のようにとこしえに堅く定められ、
大空の続くかぎり堅く立つ」。
マタイ5章15−19節の意味はなんでしょう?この文脈内容は
トラーと預言書に書いてあることをイエシュアが直接
コンファーム、確証して確認させている内容なのです。
そして、この箇所は異邦人クリスチャンの世界ではトラーの教えがイエシュアの新しい教えで差し替えられたと誤解している箇所でもあります。
そしてこの箇所は異邦人の間では常にトラーとイエシュアが
言われた内容=優れた道として比較して解説されてしまっている箇所です。
この後に続く5つの比較、あなたがたは~と聞いているが、
わたしは~と言おうと言う5つの比較は当時の人達がトラーに
書かれた内容をかくかくしかじかと理解していたこと、
でもイエシュアは彼らの理解とトラーに書かれた本質
本来の意味、神が直接伝えた意味とは異なるよ!と言うことを
ずっと話している箇所なのです。
神=イエシュアがモーセの五書を否定などする訳が無い。
聞き手=人間の側で神の教えを取り違えている、本質を掴んで
いないだけ!その状態、意識をイエシュアが正していることが
書いてあるだけなのです。聖書に書いてある意味通りを把握、
理解していない、これは異邦人の世界の問題の根でもあるの
です。
誰にもでも共通して言えることではありますが、異邦人の世界の教えは全てが反モーセの五書、反ユダヤが土台なのです。
その事実にまず気が付かないとならないハードルが異邦人の世界の教えの問題でもあるのです。
そして、当時1世紀のユダヤ人の中にはモーセの五書を解説する人間の解説=口頭トラーで語り継がれている伝統の教えが入っており、それらはモーセの五書に書かれた神の語る教えの本質とはずれている!と言う事をイエシュアが話しているのです。
イエシュア=神が神の口から語られた言葉を否定し、破棄しに
終了させるために来たと言う空想話、茶番劇、その人造の教え
こそが神の教えではない、人間=異邦人が創作した教えなのです。神が途中で訂正しなくてはならない様なことを語ること自体がイスラエルの神=完全なる神が聖書の記述から
見えてはいない!と言う事なのです。
しかし古い教え=モーセの五書で聞いていたこと、新しい教え=モーセの五書より優れた教えをイエシュアがしていると異邦人
クリスチャンは完全に誤解した思想前提から全て読み込みをしているのです。1世紀後半から、異邦人の世界では、反モーセの
五書、反ユダヤ思想=ローマ帝国の迫害とその後に出現した
異邦人教父達の思想で聖書を曲げて語る、神の言葉を変えた教えを伝統的に引き継ぎ、今に至るまで反モーセの五書思想でずっと語り継がれているのです。
イエシュア=トラー=父の教え=トラー=モーセの五書
イエシュア=父=同一=神 神=言葉 イエシュアが神の言葉を否定するとはご自身を否定することであると言う単純な事実に
目覚めて読まないとならないのです。
ヨハネの福音書の冒頭にも、イエシュア=トラーである事実が
はっきりと記されています。
ちゃんと聖書を読んでみれば分かる箇所です。
そしてこの箇所は、殆どの人は悪い内容が書いてあるとは思わないはずです。
事実、2世紀当時の異邦人クリスチャンの間でさえ、
トラーを否定的に考えていない人も多くいたのです。
神の言葉は聖なるものであり、永遠不変であり、聖霊により
書かれたと言う事実をそのまま受け止めている異邦人も中にも
いたのです。
続く