神の子らへの印 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主が造られた様々なリマインダーを知っていますか?

 

クリスチャンの世界では、十字架を身につけたりしますが、

聖書には、神が造られた目に見える印の数々があります。

十字架は今やアクセサリーとしてクリスチャンでなくてもつけて

いますが、イスラエルの神のオリジナルはそれを知る人が行う

生きるのです。

 

リマインダー=神の教え、神の子=聖別された人である事を

思い出させる印です。

信号や標識を見たらすぐに理解出来るその機能と同じです。

 

日々のリマインダーはいろいろあります。

食べ物、衣のふさ、戸口に付けるメズサ、男性ではヒゲ、

割礼など。

 

週一度のリマインダー シャバット

 

月一度のリマインダー、新月、満月 女性では月1度のサイクル

 

一年をめぐるリマインダーは神が造られた春と秋の祭り、

記念日です。

 

全て”自分は誰か?”を神から教えられるための神がデザインした教育ツールなのです。

それを捨てたら神の子ら、聖別された生き方が見えなくなるのです。鏡の前=神のトラー=教え、インストラクション=モーセの五書の前から離れると自分が誰かを忘れると書いてある通り、

神の教えを離れて、神が人に伝えていることを考えさえもしなければ、自分が誰かを忘れると書かれています。

ヤコブ1:22−25

 

1年に渡るリマインダー、春の祭り、過越、種無しパンを食べる7日間、初穂を祝う、初穂が成長する7週。

7回のシャバットを経てシャブオートの祭り=婚姻契約を

受け取った祭りを祝う。

 

これらの春の記念日は実際にイエシュアが地上でされた業、

実際に成就した内容を表しています。

 

シャバット。神が全ての業を完了して止まられた。

後から付け足す何もない状態。完成形が現れた、全て必要な事は

完了して創造されている。

神が人との関係に入られた。全ての創造物が揃って初めて皆で

迎えて祝った記念日=シャバット聖別と言う言葉はシャバットに対して最初に使われている言葉です。

シャバット=安息の休みはイエシュアそのものを表しているものなのです。シャバットの休みが与えられている間に、シャバットの状態に入ろうと書かれています。ヘブル4:1−7

そして神の記念日は永遠に代々祝われる記念日と神が紹介して

います。神ご自身に嘘偽り矛盾は無いと言う事実にだけ立って

考えれば、神が言われたことを神が途中で変えると言う異邦人

哲学思想神学がいかに非聖書的な考え、教理であるのかと言う

クリアーな事実が聖書に記述されている事実からはっきり見えるはずです。

 

過越=全ては子羊の血に関してです。イエシュアの業を表すものです。聖書の暦はこの時から始まるのです。

第一の月の15日。過越の祭。

子羊の血で贖い出された人、過越の子羊の血を鴨居に塗り、

そしてその子羊を食べて救いが始まったのです。

全てイエシュアに連なる人は、どの時代でもどの人種でも

イエシュア=子羊の血で贖われ買い取られ奴隷=罪の縄目、

偽の自己像、神から切り離された状態から救い出され、

脱出したのです。

 

奴隷から脱出 出エジプトを去る。エジプトと言う言葉は、

狭い、苦しい、悲しみを表す言葉です。

それぞれの救いは”過越”で始まったのです。

 

次の聖なる日は、初穂を祝う日。復活の命を表すものです。

復活の命、新しくされた命に与る事実は最初の最初から神が

デザインして記念日の中で教えているのです。

神の祭りは全て収穫にまつわるものです。

 

復活の日と同じ、過越から始まり3日そして、種無しパンを食べる7日の真ん中に来る日。

復活の命にあずかるのはイエシュアが昇天以降初めて教えられた教えではないのです。

義とされている復活の命に移行した事実は、最初から神に伝えられている。古代の人達は神の口から直接出た言葉で教えられ続けて来たのです。

アヴラハムも同じ福音を理解していたことが書かれています。

 

創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしの

さとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

 

そして、新しくされている事実=過越の祭の前の日までに、

パン種除去掃除=新しくされている人の事実を思い出して実際に掃除する作業があります。

パン種は罪を表すものです。ハメッツ。そしてその作業を実際にすると、完全に家の中からパン種除去するのは不可能であることを理解出来ます。除去したつもりで後から引き出や部屋の隅、

ポケットの中、戸棚の角の思いがけないところにパン種が潜んでいることを発見するからです。

そうすると、自分では除去したと思っていたずれが実は頭脳の中にちゃっかり潜んでいるんだ!と言う注意勧告を与えるのです。

それは、以前の死んだ自分で生きて来た記憶、行動、

思考パターンが必ず潜んでいるからです。

新しい人として、全ての思索、行動をイエシュアの性質=

神の教えと照らし合わせて注意深く歩み続けなさい。

イエシュアにあって全ての思索を神の言葉に照らし合わせて捉えて確認、検査して!

種無しパン=贖われた人は義とされている=種無し=要らないもの=罪が削がれている状態である事を表す種無しパンを7日間=完了、完全を表す7日間食べてその事実を頭脳にインプットする強化週です。

パウロはコリントの人達へ過越の祭りを通して教えている事が

記されています。どうしてパウロが神の教えを変化させたと

誤解するのでしょう?異邦人が語る反モーセの五書、モーセの

五書に対する否定的な思想ありきで聖書の全てを語るからです。

この箇所、キリスト教では聖餐式をする時に使われる聖書箇所ですが、この箇所は、過越の祭の中で行われるイエシュアがされた

晩餐の儀式をする事で表されているものなのです。

書かれている意味、元の意味を変形したら真実が見えなくなります。種無しパンでなくては意味が無い。

イエシュアが言われた通り過越の晩餐で行う儀式なのです。

 

1コリント5:6あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

7新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

8ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪との

パン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭をしようではないか。

 

新しくされた人が成長する様子を表す7週。7=完全。

以前の死んだ自分で生きている記憶を神の前で照らし合わせ

軌道修正する作業でもあるのです。

過越からシャヴオートの祭まで、7週間、7回のシャバット。

そして婚姻契約を受け取る準備が整い迎える祭り=シャヴオート

それが実際に春の祭りで表され、過越、新しくされた人の事実=義とされている、復活、新しくされた人として生きる、

成長する、シナイ山で 婚姻契約を受け取った。

これらは歴史の中で地上で実際に成就した福音の出来事です。

そして夏の収穫の時を迎えるのです。新しい命を受けて、

周りに命をもたらす生き方をする、夏の収穫で表されています。

 

そして秋の祭りは、再臨を表すものです。

シャフォーを鳴らす日。聖書の暦の第7の月の1日。

王が到来する戴冠式を表すものでもあります。

そして、その10日後の大贖罪日=国全体、神の子ら全てが神の前に出て軌道修正をする日々を迎えるのです。

個人だけではない皆全員です。

神に創造された人全てが神と直接会い見える。

最後の審判は全ての人が神の前に立たされるのです。

これを表すのがヨム ハ キプリム=大贖罪日です。

 

そして15日から7日間仮庵に住む祭りが始まります。

イエシュアの中に住まう事を表しています。

喜び、神とともに住まう事を仮庵で表しています。

出エジプトしてすぐに宿営をした場所は”スコテ”仮庵

を表す言葉で名付けられている場所。ヤコブが兄と和解後行った場所は、スコテ。新しくされた人が住まう仮庵、イエシュア。

全ては偶然ではないのです。最初からイエシュアの中に住まう事を贖い出された人々は様々な形で教えられていたのです。

 

仮庵の最後の8日目の祝い日は永遠に入る、永遠に続く、

イエシュアの中に住まうことは永遠に続く。

1に戻るのではなく8日で表されている日、仮庵の最後の祭りの日は8日目なのです。

こうした創造主がデザインした記念日は全て預言的福音的祭り

なのです。

人が神の教えや、神の創造された記念日を改造してはならないのです。神が伝える意味が分からなくてなってしまうからです。

 

聖書に書かれている神の口から直接伝えられた記念日、祭が終了とクリスチャンの世界では伝えられそう考えていると思いますが、異邦人クリスチャンがこれらの記念日を祝わなくなった理由は神が変更したからではないのです。

1世紀後半神殿崩壊後からモーセの五書にか書かれた教え、

記念日を生きたらローマ帝国に処刑されたからです。

その刑罰、迫害から逃れるために異邦人はモーセの五書を捨てた

のです。

モーセの五書に書かれていることを生きる、神の創造した記念日を祝う人は4000ドル相当の純金の罰金、それが払えるまで

投獄されたからです。何か今の世界と同じです。

そして前年も今年もその税金の純金を家族が支払わないなら

処刑です。

ちゃんと聖書の事実だけを考えてください。歴史の中で神の教え=トラーを生きたらどんな迫害が起きたのか知る必要があるのです。

神が昇天以降神の教えを変えたり神の記念日をローマ帝国の創作した記念日、日曜礼拝、イースター、クリスマスに変更したのではないのです。その様に神が神の教えや記念日が変更された

記述が一体聖書のどこに書かれているのでしょうか?書かれてなどいない、1世紀の信者は100%全てレビ記23章を祝っていた記述しか聖書には無い。それが事実なのです。

 

この様な歴史の中の迫害で異邦人たちは辻褄合わせて、

ローマ帝国のいいなりになっただけです。ユダヤ人と同じ様に

生きている人、たとえ異邦人でも関係ない!ユダヤ人と同じだ!

処刑だ〜と言われたら、逃げ道考えるでしょう。

そしてその後ずっと異邦人教師達が編み出した非聖書的な思想に沿って反モーセの五書主義、反ユダヤ主義、オリジナルの

ヘブライの聖書を学ばなくなり、異邦人だけのグループで独立し

ユダヤ人とは決裂して今に至るのです。だから異邦人の世界で

語られる教えは、反ユダヤ=信じたらユダヤ人やめなさい

反モーセの五書=神の言葉は呪いの律法で廃れたから神の教えを生きる人は律法主義と言う非聖書的教えが主張されているのです。

 

同じ神の家族なのに、人種により時代により神の教えが変化すると言う思想自体が非聖書的であると気が付かないなら、

それは神が語る真実に対して盲点だらけになります。

神が言われた通りを保存し生きる、残りの民はどの時代にも

神が置かれて、神が伝える通りを継承して来たのです。

オリジナルに戻る。神の教えを退けて、人の編み出した教えを

生きることは、ずれている、損失である、祝福を失う、

喜びを失うことなのです。

 

 

第七日目は神が創造された週一度の記念日。止まる日。

 

Shabbat Shalom