異邦人の世界で語られる教えの問題点 聖書とは違う教えが存在するとまず気が付く所から真実は始まる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界で流されている情報は、現在真実が隠されてしまい、一方的なものが流され続けています。メデイアの情報だけにしか触れ

ない人には全く理解出来ないことが裏側では展開されているの

です。でもその反面何か変と気が付く大勢の目覚めている人達も

いるのです。鵜呑みにすると言うことは本当に思考回路が働かない状態に陥るのです。自分で正しい情報を探り出し、

何かが変だと気が付き、神が警告している通り真実に目覚めて、

何が起きているのかを把握する事です。

なんでもかんでも取り入れる〜吟味、仕分けしないで

なんでも自分の中に取り入れて食べている場合には、

神の警告は響かない事になります。

 

正しい情報が消されるのは今に限った事ではないのです。

昔からそうです。太古から大事な事、本当の事、人に知られたくない裏情報、誰かの益が損なわれる情報は人には伝わらない様に工作されているのです。

 

今現在それが分かる顕著な理由は、少数派の立場、真実の本質の裏側を知る人達が発信する情報はことごとく消され続けて、情報時代にアクセスする事が出来ない事です。

裏の裏で真実を探る、情報が消されない安全なサイトで語る、

その情報源に繋がってるいる場合、何が本当に起きているのか

知る事が出来ますが、主流の動画サイトでは、ある事柄に対してことごとく真実な情報が消されて行っています。

普通の人でも気が付くと思います。言論の自由はなくなり権威が

裏でやりたい放題、悪は正されず放置され、そして人の言動を

阻止し、サイトも消す、アカウント剥奪、圧力かけて脅す。

暗闇が堂々と明るみに出てきたと言うだけの事なのですが。

 

一方的な情報ばかりを聞きそれが正しい事であると考えてしまう場合、何を言おうとも真実はその頭脳には届かない、通じなく

なります。

少数派が語ること〜”変な事を言っている”位にしか受け取られないのです。

変な事=世間で語られている主流な事と違う事を言う、イコール

それは変な事と見なされてしまうのです。

 

そして自分が見聞きしている事が嘘であるかも、

偽情報に騙されているかもしれないと言うのは沢山あるのです。

歴史の史実、真実が1つに繋がらない教え方をされている、

教育を通して思想をコントロールされている事、教科書が全て

100%真実では無い、誰かの意図を学ばされるために書かれた内容である事があるのです。

クリスチャンに取り分かりやすいのは、”進化論”です。

この思想は”神”が存在しない、自分の命に意味があると

思わせない、偶然に発生したものであると言う思想、

無神論者、これらはイスラエルの神に敵対するものの教えです。

神の創造の目的、自分個人の命は神に選ばれて創造したと言う

事実に辿り着かせない思想=仮説であるのです。

神の言葉と神の創造を歪める解説の全ては反イスラエルの神の

思想なのですが、この仮説や思想にも簡単に騙されている事が

あるのです。

問題は、もしかしたら嘘かもと言う事を真実だと考えていたのかも?と言う事を考えない事です。

人は疑問に思い始めたら真実な答えに到着するまで探す事をする

からです。

 

パウロの書簡、パウロと言う人物がどれほど誤解され、歪められパウロの書いている書簡の内容をどれほど曲げられて、

クリスチャンの世界の中で解説され続けているのか、

それは、パウロがモーセの五書を否定した新しい教えをしていると言う最大の誤解を土台に全て語られているからです。

クリスチャンは当然の様にパウロはモーセの五書を否定しているアヴラハムの割礼を否定し、食物規定を否定し、そして神の

シャバットや祭りはいつに変更しても良い、別物の変形させた

祭りが恵の時代の真実だと言っている、神の言葉は生きる必要はない<パウロがそんな事言ってなどいないことは書簡をちゃんと読めば分かるはずなのに>自分の判断で好きな様に生きて良いと言う教えが浸透している、神の言葉を完全に誤解している、

その本当の原因は非聖書的教えを人の思想で解釈をしている、

そんな解説しかクリスチャンの世界では聞かされないからです。

 

聖書に書かれている意味を知らない人の解説を真実であると

信じ込んでいるから。

主流メデイアの情報をそのまま信じているのと同じカラクリ。

その内容について書いて来ましたが、引き続き異邦人の世界=

異邦人クリスチャンの世界で語られている教えとオリジナルの

聖書のどこが違うのか?と言う内容を書いて行きたいと

思っています。

 

これは100%個人批判とか誰かの人生に対しての批判ではなく

神の真実ではないことを語ることが神に対して完全なる冒涜であり私たちイエシュア信者が絶対にしてはならないことであると

言う事実に神の言葉から気がつかなくてはならない!

神を恐れず、人の意見に反する事を言うのを恐れる?大事な事を

見失ってしまいます。神の言葉が絶対であると言う意識が無い

場合、神の言葉を支持することが当然の事なのに、神の言葉を

否定している人の意見=非聖書的意見を擁護し、その教えを否定批判していると勘違いするのです。何が大事か?聖書だけに戻り真実だけに立つ!と言う事をしない限り人造宗教の教えは作り

続けられて行くのです。神の教え、言葉を退け、人の教えを

支持、信奉しているのです。

正しいイエシュア像、イスラエルの神像、神の言葉を伝えなくてはならない!その1点だけがもっとも重要な事だからです。

ある人はキリストが伝わればなんでも良いと考えますが、

でも神の言葉に基づいたらそれは絶対にやってはならない事で

あることがずっと書かれています。特に不純=人の創作した教えを神の教えに混ぜることに対しての絶対的な拒絶を神がしているのです!一点一画も神の言葉に付け加えるな、差し引きするな!

と書いてあるでしょう。イエシュアも同じトラーの言葉を言われ

ましたね。

預言書を満遍なく学べば、神ご自身が考えていること、私たちが

いかに神のオリジナルの言葉教えから離れては危険であること

混ぜ物の教え=まがい物=異教の神々の教えや要素、人の創作した非聖書的教えと混ざることはNO。

神の考え、思索、神ご自身が神の深い考えを啓示していることで

ある事に聖書から気が付く事が出来ます。

 

なぜそんな事を書くのか?と言う理由は、自分も以前キリスト教という教えの中だけでしか教えらて来なかったので、

その世界で見聞きする教えが100%聖書であると疑いもなく

信じていました。何も疑わず、考えず。

 

13年前に、ヘブライ語オリジナル原典聖書をヘブライ思想で、書いてある意味通りを学ぶと言う、今まで探し求めていた

本物を学ぶと言う事に出会えた後、自分が見聞きしていた教えが

どれほど人の教えが混ぜられた混合物であったのか=神学=

非聖書的教え=神の言葉否定ありきで語られる別の福音、人の教えが神の言葉に混ぜられた純粋では無い教え、仮説=人が考えた聖書ではない不純物、偽物の教えから語られていたのか!と言う事に聖書に基づきはっきり気が付いたからです。

これにはっきり気が付くのに多分3年はかかりました。

なぜなら、常に教えられてきた人の教え=神学=キリスト教で

語る、恵の時代怒りの時代など、別の福音に引っ張られる。

福音書以降で語られている教えこそが福音!最新式新しい最強の

神の教え!なるとんでもない誤解を長年信じていたので、福音書以降に書かれた中身がモーセの五書そのものに対しての短い解説でしかないと言う事実に完全盲目状態だったからです。

なぜ?モーセの五書、預言書を学んでいない、元に書いてある

ヘブライ語で書かれた内容を全く知らなかったから、嘘の教えが見抜けなかったと言うのが本当のところです。

 

聖書に書いてある通りに学べば、本物を見れば、嘘や偽物は簡単に分かる様になって行くのです。しかもヘブライ語で読めば、

聖書は1つの木のごとく全部繋がっているのが見えます。

全部同じ要素。同じ木の一部。

木の中に幹、枝、葉、根があり全部1つで繋がる。

同じ言葉で書かれていて皆響き合いエコーし、どの部分も同じ事が書かれていて、何の変化も矛盾も無いからです。

でも翻訳では見えない、しかも人の思想=神学で語られたら

別物の教えが書いてあると教えられれば、そう信じてしまう!

それが重大な問題!元を知らない人に解説された教えを鵜呑みにして信じるのは危ない。人間が作った神学、神が変化し、変身すると言う思想を信じている、その非聖書的教えを信じる人の思想

で語られた聖書解説では部分的にしか真実は見えないのです。

その様な神学を何十年も教え続ける人は、頭脳が全部その思想に

乗っ取られているので、本当に軌道修正には大きな出来事

真実に気が付くきっかけ=本物だけに触れ続ける事がないと

軌道修正=聖書に書かれている事実だけに戻ろう!などと言う意識にはならないのです。

これは誰でも同じで、翻訳でも元の意味通りを教えられれば

誰でも聖書は1つであり別の福音など存在しない事実は理解

出来るのです。

本物札だけを見る人は、偽札が簡単に見抜ける!それと同じ。

 

聖書翻訳は至難の業です。それに人生を捧げた多くの人がいます。翻訳聖書なしに自分の言語で聖書を理解することなど出来ないし、古代や中世カトリックの時代の様に、印刷技術もない時代は全て手書きで描き続けられる聖書しかない、

個人個人が手元に聖書があるなどと言う環境になかったのです。

 

でも、近代印刷技術が発達して元に聖書を一人一人が所有する

時代が来ましたが、聖書の中身は翻訳聖書だけでは聖書の中身に

書かれている意味通りを知るには、不十分なのです。

イタリア、フランス文学、いや日本の古典を学ぶのも、

オリジナルを読み、学ぶでしょう。生徒はそんな外国語理解出来ないから原書で知る教師に元に学ぶでしょう?当たり前のことが

聖書の世界では当たり前ではないのは、1世紀後半から異邦人は

ユダヤ人教師、ユダヤ人の群と決裂し、西洋思想と、翻訳聖書だけから考える世界へ移行し、ヘブライ聖書とは決別したから!

これが大きな問題なのです。元のオリジナルの教科書から離れた!それがどう言う意味なのか。

英語を学ぶ人が英語をほぼ知らない教師に学びますか?て事と

同じことをしたのです。

 

だから聖書の中身に本当は何が書かれているのか?と言う事を

正しく解説出来る教師、これがパウロの言っていた預言の賜物=神の言葉を意図通りに理解し、生きて示し、教えることの出来る人達が群の中にたくさん出てくる事を望む、願うと言った

その言葉です。

異邦人の世界では、聖書を正しく学ぶと言う事が本当に

置き去りにされて来て、不思議、現象、預言、活動、その他

神の言葉に根付いて成人として生きると言う神が伝える通りの

事が置き去りにされて、人の教えを生きる事が中心となって

しまったのです。

メジャーな、メインストリームで語られる教えは、ほぼ置換神学

デイスペンセーション神学、その様な教えは異邦人の世界の中だけの教えであり、聖書には無い教えであり、純粋な神の言葉を

学ぶ人達、生きる世界ではその様な教えなど全く聖書としてなど語られないのです。

聖書の内容、中身、書かれている事は人により変化するものではないのです。そこから人が神の意図をどの程度の深さ汲みだすのかそれは、それは個人個人が神の言葉の真実に立ったら永遠に

神の言葉から汲み出せるのです。人により時代により、神の言葉の意味が変化するなどと考えたら、それは全く別の宗教の話に

変身します。

神の言葉を人間が変化させているのでその様な人間の思想を通して聖書を語り続けているのが今の現状なのです。

それは1世紀後半からすでに異邦人の世界で始まり今に至るのです。

 

 

続く