日本語圏の現状では、ヘブライ聖書、それに付随する様々な
情報、例えば古代の考古学、地理、文化など手がかりになる
必要な情報、文献が本当に少ないです。
これは聖書に限らず他の分野でも資料の数は英語圏には膨大に
存在しています。
ヘブライ聖書学者がいない、ユダヤ人の様にヘブライ語で
ヘブライ思想で、聖書だけを混ぜ物をしないで読む、学ぶ、
知る、教えると言う訓練を先祖代々受けている人はいない、
仕方ない事なのですが、少なくとも聖書を教える人は最低限元に書かれた言葉、意味を探求し続ける事、聖書、神の言葉を否定、曲げて異邦人製造の神学を通して翻訳聖書を語ると言う根本的な歪み!その歪んだ思想、行為を完全に捨てないと、聖書に書かれている本当の意味など理解出来ないし、他者に真実を語ることは出来ないと言う事に気がつかないとならないのです。
異邦人クリスチャンの世界で語られている教えは、聖書の事実である内容もあるけれど、基本的には、神の言葉は終わったと言う神の言葉を否定する教え=人造神学思想ありきで全ての教えが
語られている事実にまず気が付かないとならない。その教えは
聖書ではないのだ!と気が付いて、聖書の事実からだけ考えないとならないのです。
ヘブライ聖書を学び知るユダヤ人達の世界に触れて、彼らが世界のどの国に居ても、先祖代々神の言葉〜トラーを学び、生きて
ガードし、子供達に教えて来たのかその違いが明らかに分かります。
彼らは契約を受け取った代表、世界へ同じ神の言葉を教える
語る生きることを教える代表者として神が選ばれた役割はやはり
今も健在なのです。神の言葉をそのまま伝える!混ぜ物教えに
変形しない、産地直送=天から語られた神の口から直接出た言葉
教え通りを人が理解しようとすることをしない限り、何万と言う人造宗派、人造宗教思想は作られ続けて行くのです。
神の教えに聞いて生きる人達=残りの民は、純粋な神の教えを
継承し続けて生きているのです。
イエシュア信者の世界は、イエシュアを信じないユダヤ人から
大きな圧力をかけられています。これは古代も同じだったのですが、異邦人が4世紀以降ローマ教と言うものを作った後には、
救い主に対する抵抗が益々大きくなって行った事には理由があるのです。
異邦人が語る救い主や聖書観に対する抵抗は本当にあからさまです。異邦人の世界の教えは、先ず最初に、モーセの五書否定ありきで語り、神の言葉に対する冒涜が何かを知るユダヤ人には
その様な教えは、神の言葉、教えでは無いとはっきり認識する
のです。神の言葉を破棄しに来た救い主???それって偽物!
と思うのです。その後中世を経て、十字架を掲げてユダヤ人殺戮をした西洋クリスチャン達、ヨーロッパの各地でされた様々な
ユダヤ人迫害、殺戮を考えたら、それってどんな神?
ジーザスはユダヤ人の迫害の教祖か?と考えているのです。
モーセの五書、預言書に書かれたイスラエルの神では無いと思うのは当然の事なのです。
聖書を曲げた教えをしている異邦人クリスチャンに対して、
彼らが言う事には全てなんでも抵抗せよ!と言う姿勢である
多くのユダヤ人がいるのです。
クリスチャンが赤と言ったら青であるとわざと言う。
クリスチャンが礼拝で10の言葉=十戒を唱えるので、
ユダヤ人はそれをやめた、嘘の様な本当の話があるのです。
とにかくクリスチャンの教えには抵抗せよ!偽預言者が書かれている新約聖書など読んではダメだ!と正統派ユダヤ人の家庭では絶対に異邦人が信じる救い主に関して話さないのです。
これほどこじれた理由は何?神の言葉を否定し、曲げた教えを
異邦人が語り続けているからです。
ユダヤ人達の抵抗の大元の原因、問題は、聖書を曲げた教えを
異邦人がしているから!と言うことに気が付いたら早いです。
自分が信じている事って本当に聖書?それとも人の思想?と。
聖書の事実からだけ考えれば良いのです。
自分が信じて実践していることは実は神の教えを否定した人達が歴史の途中で編み出して語り継がれる聖書とは関係の無い教え?それを生きているのかも?と考えたら良いのです。
神は自分の心、神の前の熱心さに揺らぎがないなら、神はなんでも受け取ると勘違いしてはならないのが重大な点なのです。
それこそ勝手な信仰。神が伝える通りを人が生きる、逆をしては
ならないのです。神が禁じている事をして神に対しての押し付けは要らないのです。どうして言われた通りをしないのか?が
問題の根なのです。神が造られた通りまっすぐな生き方をしないで、それぞれが自分の良しとする考えで散って行ったとある通り。
聖書を読めば、神は神の子らに対して何を一番してはならない
事なのか、拒絶するべきものが何であるのか、はっきり教えて
います。それは聖別の中心でもあるのです。ヤロベアムの罪とは、高き所の礼拝とはどんな事を意味する?異教の神々との、
人の教えとの混ぜ物融合の教え、神の純粋な教えを否定し、
別の教えを生きる事を神がどう考えているのか?
その全ての答えは聖書の中にはっきり記されているのです。
そして異邦人の世界で語られる”神の言葉”を捨てる行為をするならば、神が伝える全ての教えとは遮断されてしまいます。
誰かの伝える言葉を遮る事=その人との深い真実な
コミュニケーションを断つ事なのです。
欠けた教え、部分的、そして深い内容が見えないのです。
福音書以降は聖書の最初のほんのすこしの抜粋、要約、
短い短いコメントだからです。
例えて言うなら、4楽章ある交響曲の大作、45分から1時間位で演奏する完全なる形を、イントロや各楽章からモチーフ箇所、の数小節だけを抜粋して演奏する様な事と全く同じです。
神は人間が理解出来る言語を通して、神の最も深い、親しい
そして神ご自身の神の深い考えを人に伝えているのです。
聖書に書いてある言語の意味を取り違え、そして書いてある内容を神が永遠と言っているのに一時的と人の教えにのっとり勝手に断定し、神の言葉を捨てて、読まない学ばない知らないなら、
それはコミュニケーションブレークダウンを起こす事なのです。
神が伝える神の考えを人が拒絶し、受け取らず、神に何を教えらているのか伝わらない、神が伝えている神の言葉、教えの内容に
関して神と対話も出来ない、そう言う事がずっと起きているとも考えないのです。
神の言葉をその通りに受け取る場合には、神の言葉が廃れた
終了、異邦人には関係ない神の教え、呪いの律法などと言う発想
思想など決して出てこないのです。その発想こそ神の言葉=聖書を知らない、幼い頃からモーセの五書に親しみのない、聖書を
正しく教えられたことが無い、神の言葉に根付いて実際に生きる事をする環境にない、背景にあるのは異教神世界の異邦人想像、創造の教えだからです。
神の言葉が終わりだとする思想は、白やぎさんと黒やぎさんの
お手紙交換そのものを推奨する教えであり、神との正しい
コミュニケーションが出来ない状態を作り出すものです。
神を信じる、愛しますと言いながら、実は神そのものである神の言葉に気が付かないまま敵対している、神が忌み嫌う事をしていると言う事にも気が付けない。自分が考えている神とはこうだと言う自分の思想の神像を編み出すのです。
1 福音=神の言葉 全ての言葉聖書の中に書かれた事、
そしてヘブライの文化とヘブライの世界観で書かれている事実
通りを認めて初めて正確に”聖書著者”の意図する内容通りを
解釈できるのです。どの書も同じです。人間の書も同じ。
著者が書いた意図ではない誤解をして読んでいる!のです。
神の言葉を否定する教えを信じている事が原因です。
2 聖書がどの土壌に根付いて出てきてのかと言う事を忘れる時聖書に記された神の言葉を誤って解釈、解説する事をしてしまいそして神が私たちに神の言葉から伝えようとしている
そのメッセージそのものを誤解してしまう。
3 事実クリスチャンの神学校、短大、大学の殆どで教えられる教えにより、神の言葉を誤解すると言う現実が起き続けている、神の言葉ではなく人の教えを不屈、恒久化させ続けている理由は、非聖書的誤りの教えに教えられ続け、導かれ、そして間違った聖書解釈をしている事です。誤った聖書解釈を永続的にし続け間違いの教えに燃料をつぎ込み続け、燃やし続けている、
その誤りの教えとは置換神学、デイスペンセーション神学、
異邦人が編み出した聖書では無い教え、神の言葉を否定する教えが聖書であると信じ込み、唱え続け教え続けている事、
人の編み出した思想から聖書を歪めて語り続けている事、そして異邦人クリスチャンの世界では、ルターの思想と同じ”反ユダヤ
思想、反神の言葉=モーセの五書なる教えが語り続けている事。
そしてそれが現代の恵みの時代の教えであると多大に非聖書的
教えを信じ神の永遠不変の言葉に対して最大の誤解をし続けて
いる事。
4 もし、神の前に意識を凝らして神の言葉の意図を聞く、
理解する、学び続ける、そして聖書が語る通りの神からの
メッセージを受け取る事をしようとするならば、
言語の文法的、歴史的、文化背景的な要素を含めて書かれている神の言葉を正しく読み、神の言葉が聖霊により書かれ、神が言われる通り進化、変化の無いものであると言う事実に戻らない限り
異邦人の世界で語り続けられている”聖書”~神の言葉に対する
誤解は解けないまま非聖書的教えが語り継がれて行ってしまう。
本当の所、非聖書的な教え=何を言って信じているのかに
気が付いてさえいない状態なのです。でも神の言葉の真実は、
大元=モーセの五書、預言書、諸書を書いてある意味通りを知れば必ず見える、分かります。
聖書は全てどの箇所も100%モーセの五書をさして語っている
事実を人の創作した神学、置換神学やデイスペンセーション
神学で語られる教えを聖書であると誤解している、それらは聖書ではない事を異邦人クリスチャンは知らないと思います。
知っていれば人が創作した教え、神の言葉をどの箇所であれ、
否定するそんな教えを信じる事など出来ないからです。
モーセの五書を捨てたら、神の言葉をたとえ部分的に破壊したとしても、その行為は神の完全なる教えを崩壊させます。
崩壊=その人に取って神の言葉は意味のなさないものになる。
神の言葉を誰がどう否定しようとも永遠に真実に固く立つ性質で
あるのです。
建物の基礎土台を建物を建築した後に壊しますか?柱を破壊しますか?聖書の土台、柱を破壊する行為=神の言葉を否定する事。
それを異邦人クリスチャンの世界ではしているのです。
だから聖書が1つであり、聖書のどの箇所も同じ事=モーセの
五書に書かれた内容を語り、聖書の中には1つたりとも互いに
矛盾する、敵対し合う教えなど無い!と言う事実が全く見えて
来ないのです。
続く