伝統で語られる人の創作の教えと聖書の違いを見分けるには本物大元を知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2テモテ 3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。

あなたは、それをだれから学んだか知っており、

 3:15 また幼い時から、聖書=モーセの五書<預言書、諸書>に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に

至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

誰に聖書を教えられたのか!と言うことは重大なポイントです。

神の言葉は完全であり絶対であると言う聖書の事実通りを知り、書いてある通りを学んで教え語る教師に学ぶのか、学んだのか?

それとも、人の創作した教え=聖書は最初の部分は無用!生きる

必要がなくなった、神の言葉に対して呪いの律法だと言うずれた意識を持つ人の語る聖書ではない、人の教えを土台とした

信仰を語る教師に教えられたのか?

全く違う内容、意識、思想を学ぶ事になってしまうのです。

 

1世紀後半から異邦人達は、ローマ帝国の圧力の下、モーセの

五書=ユダヤ人しか生きない教え=異教徒や異邦人など神の

教えなど生きる訳がないから、必然的にユダヤ人だけが生きて

いる特徴的な教えや祭りとは関係無い!と言うペテロがやった

救い主など知りませんと言う裏切りと同じ性質=神を神の言葉を否定し関係ない!と言う、神の言葉をローマ帝国の前で否定する路線に乗っかった結果、オリジナルの聖書=トラー=ユダヤ人

教師、ユダヤ人の群れから完全に決別して離れ、異邦人西洋思想で非オリジナル、翻訳聖書からだけ語る教えに浸かり、自分達の思想で神の言葉の内容を数々に変えて神の言葉を変形し続けた

中世を経て、宗教改革を経ても尚その教えの根は残り現在に

至っているのです。だから、カトリックとプロテスタントの信仰は、オリジナル聖書=ヘブライとは異なるのですが、両者は同じ信仰の要素を実践しているのです。だから記念日も同じ、信仰の土台もモーセの五書は終わり在りきで語られているのです。

 

イエシュアが、使徒がパウロが教え生きていたのは何ですか?

100%モーセの五書を教え生きていた!

その点を聖書の記述から知るだけでも矛盾に気が付くのです。

 

だからヘブライではなく、西洋ローマ宗教。オリジナルとは別物に変身させた教えが混ぜられた宗教が作られて行ったのです。

1世紀には聖書の中にはその様な西洋宗教や教えなど存在して

いないかったのです。偶像と頭の上には太陽神のシンボルが乗る中世西洋宗教画がそれを伝えているのです。

だから、クリスチャンの世界で信じられている教えが、

非聖書的神学が土台とされている事実に気がつかないのです。

教えが異教神、ヘレニズム思想と混ざっている=聖書だけに

戻り、聖書に記載されている事実をとことん調べないからです。だから何が人の創作した教えで、何が神の言葉なのかの区別、

認識が全く無いのです。

 

1世紀後半から異邦人達が創作し続けた教え=救い主が来られて”呪いの律法”=神の教え=トラーから解放されたのだ

神の言葉は変化した、義の基準や福音救いの方法が時代ごとに

変化した、怒りの神、恵の神、今は恵の時代で霊に導かれて生きるから神の言葉は無用、参考程度に読む、又は生きる必要などない、ユダヤ人だけモーセの五書に書かれた教えを生きれば良いのだ。神の創造された記念日が変化した。

シャバット、新月、春と秋の祭りは終わりで、日曜礼拝、

クリスマス、イースターになったのである。これらの祭りは

1世紀の信者、使徒、パウロ、イエシュア誰も祝ってなどいないのです。

モーセの五書に書かれている生き方=生活を網羅する全ては

それぞれの考え、判定で決めれば良いのである。

果ては艱難時代にクリスチャン=異邦人だけ天に上げられ、

ユダヤ人だけ地上に残るなど、聖書はそれと反対が書いてあります。ユダヤ人もみんな混血ですからその場合どうなるの?

半分天で半分地上?変な教えなのに信じる。進化論=変な教えなのに信じる。皆がそう語るから信じる。それと同じ。

 

多くの異邦人クリスチャンは、キリストが来られた後は最初の

教え=モーセの五書が破棄されて、新しい教え、新しい福音が

出現し、救いが初めて人類に与えられたなどと言う非聖書的、

非イスラエルの神の性質を語られている、それって一体どんな神?人を何千年もの間放置している神が語られてしまっているのに気が付かない。異邦人の中にあるのは、歪められたイスラエルの神像=怒りの神、放置した神、そんな神は聖書に書かれている神像とは違います。

神は永遠から永遠に”恵みに富、許しに富、愛、憐れみに富んだ

神”と解説している神の言葉をまるで無視しているのです。

どの時代も神はイマニュエル=人の中に住まう神と言う性質は

変わらないのです。神には変化も移りゆく影もない!と伝えているでしょう?どうしてその神の言葉を信じないで人の教えに傾倒

信仰するのか?

 

自分の中にある想像上の神像で非聖書的教えを語り続けるので、

聖書に書かれている神の言葉に十分注意を払わない、

素通りして全く気が付かない状態なのです。

気が付かない理由は、聖書の最初の箇所は無効、生きる必要が

無いと言い出した異邦人の教えにのっとり、神の言葉ではない

教えを信じ込み、要らない聖書箇所など神が言われている通りに

熱心に追求、求めない!詰まり聖書を学ばない!と言う負の連鎖にはまり続け、大抵の場合福音書以降しか読まないからです。

 

しろやぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換。この歌を知らない人も

いるかもしれませんね。海外に住む日本人の子供は教えない限り日本で歌われる童謡など知らない子供もたくさんいます。

<山羊さん郵便>

まど・みちお作詞/團伊玖磨作曲

白やぎさんから お手紙(てがみ) ついた
黒やぎさんたら 読(よ)まずに 食べた
しかたがないので お手紙かいた
さっきの 手紙の ご用(ようじ) なぁに

 

このお手紙交換は今もずっと続いているのです。

神が神の口から直接語った言葉を文字に起こして契約書として

与えているのに、その中身をほぼ読まない、追求、探求し学ば

ない。最後の30%要約部分しか読まない。大元の中身に何が

書かれているのか知らない、ご用事何?とも神に質問しない。

神が伝える教えを現代は無効、無用と教えられているから。

 

聖書の土台=辞書、全てが書いてあるモーセの五書を読まない

知らないなら、”ごようじな〜に?”神に教えられている内容が

永遠であり、福音書〜黙示録は、モーセの五書、その解説である

預言書、諸書の短い短い抜粋、使徒が書いたコメンタリー

解説であることに気が付けないのは当然の事なのです。

 

モーセの五書を学び、知るユダヤ人が、福音書以降を知らなくても、もし福音書以降を初めて読んだなら、その中に書いてある

内容はトラー、預言書、諸書でありイエシュアのされている解説=ドラーシュは最高の聖書解説であると理解出来るのです。

 

この違いはどこから来るか?聖書=モーセの五書に書かれた内容を書いてある意味通りに知っているか?いないか?の違いなのです。大元=完全なる形の教科書=モーセの五書に全てが書かれているのです。問題は聖書を知らない、読まない、学ばないと言う

事につきます。そして神の言葉を実際に神が言われている通りに生きる実践をしないと言う事。

生きなくて良い、しなくて良い、自由にしてと教えられているからです。実践=恵のない生き方と本気で信じているからです。

救いを得る手段を努力や行いで出来ない!と言う事実と、

救われた人は神の性質を生きると言う事を混同しているのです。

 

福音書以降には、人の生きる全ての領域に関しての神の教えの

詳細は記載されていないのを知っていますか?

どうして詳細が書かれていないのか?福音書以降は、使徒が

書いたモーセの五書=それに付随する預言書、諸書の短い

抜粋、コメンタリーだからです。

大元の教科書の中身を福音書以降では全部復唱していないのです。元を知っている事が大前提で福音書以降が書かれているからです。

だから、福音書以降には、神が伝える人間の性質、そして本来の

性質からずれているもの=罪の詳細は書かれていないのです。

堕胎、獣姦、幼児虐待や変形した性愛、男が女の様に生きる罪の内容や、動物に対する扱いの詳細、人が神の前にどの様に修復、戻るのか?そして人に対して危害、損害を加えた場合どの様に

修復し元の関係の戻るのか?etc etc etc 

生きる上での全ての詳細など一切書かれていないのです。

モーセの五書は天の神の国の”国家憲法”なのです。

個人が、家族が、コミュニテイが国全体が生きる全てが書かれているのがモーセの五書なのです。

どんな服を着るのか?どんな服装をしてはいけないのか?

神が人のために創造した食べ物、人の食べ物ではない動物は何?

それは直に祭壇に捧げる事が出来る動物でもある事。

どんな間柄で婚姻関係を結べるのか、家族のあり方とは、

長男の責任立場とは?どんな人が戦争に出てはならないのか?

結婚したばかりの男性は妻を喜ばすことだけに1年集中する事。

神の記念日の全て、シャバットはイエシュアの中に安息するそのこと自体を教えている事であり福音の中心。

どの様に戦争をするのか、どの様に自己防衛するのか、

国レベルで言えば、モーセの五書はイスラエルの六法全書であり

どの様に裁判するのか?証言は何人必要か?などモーセの五書に書かれた通りに行われるのです。

人間が生きる上での全てが書かれているのがモーセの五書なのです。それを捨てよ!と言う教え!どうかしている!と考えないと

ならないのです。

しかも神に対しての最大の冒涜をしているのに、全く気がつかないのです。

人間の世界でも人が書いた書を勝手にページを破ったり書き直したり、自分の考えを挿入して付け足したり、そんな事しますか?

しないでしょう。ではなぜ神の言葉に対してその様な行為をしているのに、それがNONOであることに気がつかないのか?

実際に聖書のページは破らなくても、頭の中では完全に破り捨て

触れない読みさえしないのです。

それは伝統で語り継がれた非聖書的教え=神の言葉を否定せよ!と言う教えが正義でありそればかりを聞き続け、それが恵の時代の正当な教えなのだ!と勘違いしているからなのです。

 

その根本原因は、元に書かれた意味通りで聖書を学んでない!

その一言に尽きるのです。書いてあるオリジナルの意味に触れたら人は神の語る言葉の虜になります。神の言葉は蜜の様に甘いと書いてある通り、それが神の言葉の性質だからです。

律法律法と唱える場合には、神の言葉の性質を知らない、

本質に触れていない、どれほど麗しい生き方=イエシュアがされた生き方と同じ生き方が出来る人を取り戻されている事に

気が付いていないからだと思います。

 

 

続く