聖書を正しく理解するために必須条件とは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を誤解している根本の原因、問題はいくつかあると思います。

諸悪の根源は、1世紀後半、神殿崩壊に伴いローマ帝国の圧力で

神の教え〜モーセの五書に書かれた内容を生きてはダメ!

投獄、処刑、もしくは4000ドルの純金での課税罰金。

 

この手の圧力=神の言葉、神の言葉を生きる民、神の国を抹殺することは、歴史の中で繰り返し起きているのです。

最初の最初はエデンの園のあの事件。全く同じ性質の事件です。

プリムの祭りの裏にあるエステル記の内容、ハヌカの祭りの裏に

あったギリシャ帝国による同じ圧力とユダヤ人殺戮、そして

ユダヤ人自体が、異教の神々の教え、シンボル、偶像礼拝=

汚れたもの汚れた食べ物に染まって行く同化、同調、融合をしてしまったのです。これが終わりの時代にもう一度起きる、

いや起きているのです。

 

異邦人達は保身の為、ユダヤ人の特徴=トラー=モーセの五書に書かれた教えを生きている、それらと自分達=異邦人は全く

関係ありません!と言う事をしたのです。

 

クリスチャンの世界では、1世紀に異邦人クリスチャン、

ローマ・カトリック教会なるものが出現したと考えていると思います。ペテロが初代カトリックの教皇だと信じている人もいますが、ペテロはユダヤ人であり、ローマ教の教えやその宗教とは

一切関係の無い人であり、ローマの教えとは異なるモーセの五書を教え生きた使徒なのです。聖書の事実だけに立たない限り

作り話は”後を絶たなくなるのです。

 

16世紀に出現したプロテスタントなる宗派も無い時代が

1世紀なのです。

1世紀の時代には、西洋ローマ宗教、キリスト教は存在しないのです。現在聞く様な異邦人製造神学も存在しない!

でもクリスチャンの間では、以前の自分自身を含め、現代の様な

モーセの五書を否定した教え、怒りの時代、恵の時代と言う教えや、日曜礼拝、クリスマスやイースター、クリスチャンが

イスラエルと近隣国に存在していたと考えているのです。

 

エルサレム、イスラエルの中、イスラエル近郊の諸外国の

キリスト教会にイエシュア信者が集っていたと考えていると思いますが、1世紀は100%どの人も、ユダヤ人と同じ会堂=

この場合パリサイ派が主流ですから、パリサイ派の会堂でモーセの五書をシャバットに聞いて教えられていたのです。

 

個人個人の家では、シャバットに集い、交わりをしていた。

過越や仮庵の祭りをしていた。それしか存在していないのです。

よくよく事実だけを繋げて考えて行けば、真相が見えて来ます。

 

1世紀当時の異邦人の中には神の言葉を否定することは、踏み絵と同じ事、神ご自身を否定することであるから、それをしない人も居たと思いますが、よほどの決意、神の教えを深く理解していた人以外その様な事はしなかったのです。ユダヤ人は地下に潜り集い、やがてエルサレムから追放され散って行ったのです。

モーセの五書を知らない=神の教えに根付いた事のない異邦人は簡単にローマの圧力に屈服して行ったのです。

異邦人はほぼ神の教え=モーセの五書に書かれた教えを捨てて、ローマ帝国に迎合する路線に移動したのです。

だから今現在もその行為の延長線上で、モーセの五書は呪いで

廃れた律法だと神に敵対する冒涜を平気で宣言し、何も感じないいやその行為こそが新しい福音!正義である!恵の時代の生き方だ!と疑いなく信じているのです。

 

よく考えてみたら良いのです。神の言葉は永遠不変であり、

人がケチつけたり変化させることが出来ない性質なのです。

人は上から降ったパン〜神の言葉を受け取る以外にない。

勝手に改造できない、拒否する権利はあるけれど、それは何を

意味するのか考えたら良いのです。あなたの前に命と死を置いた。強制ではないからです。神は何と言われましたか?

”あなたは命を選びなさい!この意味はあなたは神の言葉が意味するところを生きなさい!と言う事なのです。”

神が神の言葉に対する著作権を持っているのです。神を愛する人は神の言葉を生きると書いてあるのに、キリスト教の世界では神の言葉否定ありきで全てが教えられている、このずれに全く盲目なのです。

それは2つ別の教え、契約があると言う虚構=フィクションを

信じているからだと思います。聖書を書いてある意味通りに知ればそんな事が嘘であるとはっきり分かります。

意味通りに教えられない、それは人が創作した怒りの時代、恵の時代などと言う非聖書的教えを教えられてしまっているから。

 

そして、神の教えを捨てて、異邦人は混ぜ物の教え=ローマの

教えと同化したのです。簡単に混ざるのです。だから今も異教神と混ざった教えや、異教の祭りと混ざることもなんとも思わないのです。

異邦人は1世紀後半から神の子らである特徴の全てを捨てた。

だから、神が教えている、生きる様に伝えている、シャバット、祭りを祝わない!割礼もしない、人間が食するものではない

汚れた動物、異教徒達が食する動物も何でも取り入れる、

ローマ=異教徒と同じ生き方になったのです。でも心の中で

”ジーザス”を信じていさえすれば良いと考えたのでしょうけれど生きることはキリスト!トラーに書かれた生き方に反する事を生きることは神の子らの性質、生き方ではないと言う事実を

見逃しているのです。

そしてヘレニズム思想、今日の神学と同じ、自分達の思想で考える神の教えを変化させた教えや祭りを編み出して行ったのです。それが本当の事実であり、なぜ聖書に無い教えを聖書であると

信じて生きているのか?と言う事を考えない理由でもあります。

 

神の言葉が2つ別のものであると言う意識を刷り込んだ

旧約新約聖書と言う概念も異邦人が編み出したものなのです。

聖書にはそんな事一度たりとも書かれてなどいないのです。

 

1世紀の時代は、まだ福音書〜黙示録の使徒が書いた書簡は世間には流通していない、聖書としても認められていない、一般の人は読んだこともない!と言う事実に基づいてだけ考えて下さい。

 

聖書に書いてある、どの箇所でも翻訳で”聖書”と書いてあるのは100%モーセの五書=神の言葉を指している、預言書、諸書は

モーセの五書の解説なのです。

聖書にある聖書とは、モーセの五書=預言書、諸書のみをさして

話していると言う事実をクリスチャンは知らないと思います。

 

2テモテ 3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、

 3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

パウロがこの書簡を書いたのは人生の最後、パウロが書いた最後の書簡とも考えられています。

その時系列を考えて読んでみてください。

パウロが書いている聖書とは100%モーセの五書のことです。

聖書は100%モーセの五書が書かれていて、モーセの五書は

聖書の土台、基礎、辞書なのです。これを捨てよと言う教え

どこから来ているのでしょう?少なくとも100%トラーを支持し教えるパウロはそんな事言ってない事この箇所でも理解出来る

はずなのです。

つまり”絶対なる書” モーセの五書以外の書は、100%全て

モーセの五書を解説しているだけなのです。この事実に気が付かないのは、聖書をちゃんと学ばないからです。

書いてある通りを満遍なく常に常に学び続ける人達には、

簡単に分かる事です。第一神の言葉を否定すると言うことが死に値する冒涜であると聖書から知っているからです。

そして福音書〜黙示録の短い使徒の書簡100%モーセの五書を語っているのです。別の教え、別の福音は無いと言う聖書に事実に立たないから、人が編み出した偽物だけを見て、本物と偽物の区別、識別、鑑定が出来なくてなっているのです。

聖書=トラーに幼い頃から親しみ〜ユダヤ人だからです。

誰からトラーを教えられたのか?パウロの様な正しい教師、

トラーを裏も表も先祖代々学び知り尽くしているその様な人に

テモテはトラーを学んだのであるとパウロは言っているのです。

 

トラーは、人を教えとあります。つまりトラー=神の教え、

インストラクション、指導=神が伝える人間の生き方をトラーが

教える、そして、戒める=ずれた生き方を伝える。

でもずれているよ!と言われるだけでは不十分でしょう。

正し=つまり”戻る!”と言う意味で書かれています。

何に戻る?本来の生きた〜モーセの五書に書かれた神が伝える

神が創造した神の性質に似せて造られた人のオリジナルの生き方に戻る!トラーの生き方に戻る!と書いてあるのです。

預言書は、100%モーセの五書に書かれた生き方からずれた人へ!神の伝える本来の生き方=モーセの五書に書かれた生き方に

戻れ!と言うことが預言書のメッセージなのです。

そして、義に導く〜神の性質、神の本来の性質に似せられた人は神の義=これらがモーセの五書に書かれているのです。

人の定義の義では無い、神が伝える神の性質=イエシュアの性質を救われた人は生きると書いてあるのに、

それをモーセの五書は廃れた終わり!と言う教えをする場合、

本当は何を生きたら良いのか分かりませんと言う状態に

陥っていることに気が付いてないのです。

 

霊に導かれるから大丈夫?と言うなら、それは何も分かってないから言うのだと思います。聖霊=言葉=イエシュアなのです。

それならば聖書など全く読む必要などない!何も学ばなくても良い、学校にも行かなくてもOK、新しいパソコンの操作も霊に導かれるから分かるのであ〜るとなるでしょうね。

人が照らし合わせる基準、鏡は神のトラーのみ!であると言う

聖書に書いてある事実に全く気が付いてないから、

だから神の言葉は捨てよ!無用!不要!恵のない生き方であるなどと言う冒涜的な非聖書的教えを異邦人は聖書であると

勘違いしている。鏡=神の言葉=トラーから離れる人は自分が

誰だか忘れる!と言う警告が書かれているのです。

 

どうして分からないのか、その原因?聖書を書いてある通りに学ばない教えられない!?その原因?古い箇所は廃れた!と言う人の教えを聞いて、神の言葉を捨てているから!

堂々巡りですが、不要、無用、意味ない、生きる必要などない

などと言う教えを誰が熱心に探り求めよう!などと考えますか?て事です。蛇のトリック、やり口は巧みなのです。

 

だから、福音書以降に書かれたことが100%モーセの五書に

マッチし、聖書のどの箇所も同じ、相反する、敵対し合う教え

など書かれていないと言う事実に気が付けないのです。

 

誰に聖書を教えられたのか!と言うことは重大なポイントです。

聖書に書かれた通りの事ではなく、人の編み出した教え、思想

非聖書的神学と言う分厚い色眼鏡を通して語られる教えを聞き続けていたら、それは偽物を学ぶ事であり、本物と偽物の識別が出来なくなります。大事なことは本物を学ぶことです。

本物さえ分かれば、偽の教えは容易に識別出来るからです。

偽物=ぬるい〜混ざり物も偽物です。本当と嘘の融合は偽物。

コピー品は一番厄介な紛い物です。本物らしくて違う!

出所がイスラエルの神ではない、本質が違うからです。

偽札だけを見たら、何が本物か分からない。本物だけを見続ける人はどの世界でも偽物が見抜けるのと同じことなのです。

 

 

 

 

続く