ハヌカの裏にある背景 神の言葉を否定する 神の性質を生きることを禁じた結果生まれた人の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

伝統の教えを聖書と信じる信仰の土台は、置換神学の教えが

その土台、根にあります。デイスペンセーション神学は、契約はイスラエルだけのものと教えますが、基本的な思想は置換神学と同じ、神の言葉=教え=トラーを分解し、分類分けし、道徳的

教え以外は異邦人には関係無いと言う教えを作り出しています。

 

これは異邦人の間だけではなく、ユダヤ人の世界にも、

”ノアの法則”や”神の招き”の様に、異邦人はこれこれだけして

いれば良いなどと言う、2つ区別された神からの教え、

指示があると教えていますが、それは聖書ではないのです。

 

神の言葉=聖書が教えていることは、初めから同じです。

神が創造した1人の人から世界中の人が出現した。エデンの園=神の中から飛び出た人類が、元の場所=神の中に戻る!それは

1つの方法しかない。1つの福音=最初から永遠から存在する

神ご自身=イエシュアを通してしか上から生まれる方法以外には無い。

そして最初から神に造られた人は1つの家族として神の家族に

加え続けられる、ユダヤ人=カハール、エクレシアと異邦人は

教会と言う別々に分裂した2つのグループでは無い!

イエシュアにより隔ての壁は壊されている、元通りの1つの実態に戻る、神の中に戻り、神の性質を皆が生きる事に戻る!

シンプルな事実が最初から最後まで貫かれて書かれています。

 

同じカハール=エクレシア=神の声に呼び出されて応答した人達の集まり=イスラエルの神の唯一の大家族の一員に加えられる。

その家族は、神の教え=トラーを生きる!トラーは救いや義を

獲得するために与えられたのではなく、神の性質に造られた本来の神のデザイン、オリジナルの性質=エッセンスを生きる!

聖書のどの部分も全てイエシュアを指して語り、

神は神の言葉を生きる人を通して=神の言葉全体を通して人が

イエシュアに戻る道を知らせ続けているのです。

全ては命が保護され、神のデザイン通りに喜び=エデンが

マックスにガードされるため。

至極シンプルな事実なのに、人の教えは神の教えの本質を

曲げ続けて複雑にしているのです。

 

1世紀後半以降ユダヤ人のグループとは異邦人のグループは

完全に決裂し、ユダヤ人とは別のグループとして独立し、

異邦人教師=ギリシャ哲学思想を土台とする教師を立てた

グループを結成して行ったのです。聖書に出てくる諸外国の

異邦人が混じるグループは、ユダヤ人と異邦人が一緒のグループであり、パウロの様なトラー学者をリーダーとして神の言葉に

基づき自分達のグループ内で起きている諸問題に対処する知恵を教えられていたのです。その土壌が全く無くなり、完全に異邦人だけによる異邦人のための異邦人向けの教えに変化させて

行ったのです。

そう意味では、そのグループをクリスチャン教会と呼ぶに

ふさわしいグループ=異邦人グループが出現したと言う意味ではそうなるのでしょう。

アリストテレスやプラトンの様な異邦人ギリシャローマ哲学思想を信じる教師の思想を通して、彼らの考える彼らの解釈する

人間至上主義思想を土台とした教えを教えられ、肉体は悪、

霊は優れているなどと、それが中世西洋ローマカトリックに

繋がって行ったのです。この世の楽しみや婚姻などは低俗な

生き方と考え、その内容は、ヘブライの聖書とは異なる性質の

ものなのです。

 

今でも多くのクリスチャンはユダヤ人が異邦人クリスチャン教会に加えられるのだ!と考えていると思いますが、聖書には逆が

書いてあります。土台はイエシュア=イスラエルの木に接ぎ木

されるのは野生の種の異邦人であり、イエシュアの羊=

イスラエルの羊の囲いに異邦人も同じ様に加えられると逆が

聖書には書いてあるのです。

 

こう考えていませんか?神が生きられない酷い呪いの縛りの教え

モーセの五書に書かれた生き方から解放するためにジーザスを

地上に送り、今までの教えは帳消しにして下さり、自由の解放

縛りの様々なルールは取り払われ、なんでもOK,恵を生きる時代に移行してくださったのに、ユダヤ人が縛られていた呪いの律法に逆戻り様な事をすることは神の恵みを捨てた生き方だ〜!と

純粋に本気で考えているのです。

私もそう教えられたから疑いもなくそう信じていました。

モーセの五書=永遠の神の言葉、教えが、福音書〜黙示録に

短い解説で語られている事実に全く気が付いていない聖書の読み方をするから、福音書以降は、別物の新しいパワフルな霊と

新しい教えが出現したと誤解しているだけなのです。

 

神は永遠から永遠に同じであると伝えているのに、以前の神=

怒りの神=質の低い霊が2000年前に与えられていると考え、神は最初から人の中に住まうと言う性質を語られているのに、

どうして2000年以前迄は選ばれた人の中にしか聖霊が住まわれないと言う仮説を異邦人が編み出しているのか?

聖書に照らし合わせたらこんな教えは作り話のハリボテだと

簡単に気が付く筈です。

そして、どうひっくり返してもイエシュアは100%モーセの

五書を語っている事実を否定する事は聖書に基づき来ないので、

今度はWWPDパウロが別の教えを編み出したと言う解説をしているのです。パウロが書いた書簡を中身の意味を理解しないまま

トラー=モーセの五書が終わり!と言う思想を持つ異邦人により

自由自在にパウロの言葉を逸脱し解説しているのです。

 

神が神ご自身に敵対する?モーセの五書=聖霊ご自身で書かれた神の言葉に敵対する内容、信仰、信条、生き方は聖霊から出たものでは無い!聖霊に導かれる、聖霊が語られたと言うならそれは100%モーセの五書=神の言葉とマッチしていなくてはならないものなのです。聖霊に導かれて神の言葉を否定する=それは

神から出たものではないのです。その事実に立たない限り

どこまでも人の教えは編み出し続けられ、神の言葉を否定し続けてもその行為が神の前にどれほどの冒涜であるかさえ気が付け

ない。それ以前に、イスラエルの神をその通りに人に伝えてない

表していない大きな大罪のドツボにはまるのです。

 

マルコ3:23 そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。

3:24 もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。

3:25 また、もし家が内わで分れ争うなら、

その家は立ち行かないであろう。

3:26 もしサタンが内部で対立し分争するなら、

彼は立ち行けず、滅んでしまう。

3:27 だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。

縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。

3:28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、

その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。

3:29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、

永遠の罪に定められる」。

 

神が神の教え=トラー=モーセの五書に敵対し終わらせたと言う

思想は、マルコ3章に書かれているサタンが内部分裂するのと

同じ事です。それではその国は立ち行かない。

 

神が神の教えを途中で変えたり、最初と最後の部分を相反する

敵対する教えをするならば、それは神の性質に反し、そして調和もなく、神の国は立ち行かないと言う事になるのです。

ウルトラマン家族の内部分裂で家族内で互いに戦い敵対する

それが神が神の教えを途中で変えて終わらせたと言う教えなのです。イエシュア=トラーである事実を知れば聖書に語られている教えは、初めから最後まで同じであると言う事実がはっきり

見えてきます。

神の言葉=神ご自身であり聖霊なのです。それを拒絶するとは

どう言う行為なのか?考えたら分かると思います。神を否定する

事=イエシュアを否定する事=神の言葉を否定する事全く同じ

なのです。

 

聖書をある箇所だけ取り出して、文脈全体、その箇所に書かれている全体を見ないで読めばなんとでも逸脱し解説出来ます。

なんども書いているマタイ5の箇所も同じです。

どうして、イエシュアはトラーを破棄するために来たのではない

成就するために来たと言う言葉を、成就=終わらせた!と考えるのか?異邦人がそう教えているからそう信じ込んでいると言う事

そして、その後に続く、イエシュアの言葉を読んでないのです。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、

と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

5:19 それだから、これら=トラー=神の教えの最も小さい

いましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるで

あろう。

 

イエシュアを愛しますと言いながら、神の語る言葉を神が伝える通りに正しく人に伝えないで、神の言われることとは違うことを語る事、神の前、天の国でもっとも小さいものなどと呼ばれる様な事など誰もしたくない筈です。

 

人の教えが伝統で語りつげられるそれを信じているだけなのです。聖書にない事、書いてある事を変えて違うことを信じる事は

神の言葉をその通りには受け取り信じて生きていないと言う

証明でもあるのです。人は何を生きているかでその人が本当に

信じていることが分かるとヤコブ書にも書いてある通りです。

行いを通してその人が本当に信じている事が環境に表われ出る。

 

目の前に書いてある聖書の意味を意味通りにさえ読めない、

聖書に書かれた通り、神ご自身の言葉を神に語らせると言う事をしないで人が勝手に神の言葉を塗り替えた解説をしているのです。

 

神の言葉が終わった、又異邦人には今はもう関係ないと言う

幻想の教えは、聖書が語ることとは全く違う教えです。

はっきり言って、聖書を読んでその通りに読んだら、いつどこで神が神の言葉を変え、神の定義する生き方の全てがどの部分でも

変化したのだなどと書いてある箇所があるのでしょう?聖書には

書いてもないのにあると信じているだけなのです。書いてないのにあると信じているのは、進化論=神の言葉の進化論を信じているからです。

 

神が永遠にガードしなさいと言う教えを実際に生きない事は

自分にとっては、損失であり、ずれであり破壊であるものなのです。

そんな単純な神の言葉が語る事実に気が付けないのは、

全て神の言葉を曲げている事から来るのです。

 

 

 

続く